かつてのように都会と田舎を分けて考えることが無効になり、プラネタリーに都市化が進む現代。地球規模で加速し続ける生産・消費のサイクルのなかで、生きるための経済活動と今日を生きていくことは、必ずしも結びつくものではなくなっている。そんな都市生活に、ふと生きづらさを感じる瞬間があるかもしれない。
今回の対談では、2019年に猪瀬浩平さんが上梓した『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)を手引きに、時代とともに変化する都市と人々の社会活動を観察する。そして、生産と消費、その先にある「分解」という人間本来の役割を見つめていくことで、これからの都市生活のための手立てを探していく。
収録:2020年9月8日(火)ZOOMにて
取材:永江大・羽生千晶(MUESUM)
1 都市を「分解」していくこと
家成:お久しぶりです。今日はオンラインですが、こうして顔を合わせるのも久しぶりですね。
猪瀬:そうですね。最後にお会いしたのは、数年前の京都でしたね。家成さんが登壇されたイベントの打ち上げでほんの少しお話しして以来です。
家成:そうそう、そうでした。『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院,2019)など一連の著作を拝読して、とても滲み入るものがありました。だから、今回、paperCの特集をつくるにあたり、パッと頭に浮かんだんですよね。対談するなら猪瀬さんがいいなと。
猪瀬:うれしいですね。ありがとうございます。
家成:まずは、今回のテーマについて少しお話しさせてください。2020年の春、教鞭をとっている大学や自身の事務所がリモートワークになりました。何をするでもなく散歩をしたり、ふらふら暮らすうちに、仕事と暮らしの間に距離を感じはじめました。都市では生産と消費が間接的で、家賃を支払うにしても、飯代を払うにしても、自分が稼ぐこととその対価を払うことのつながりが見えない。経済の連関のなかだけで生きているため、コロナウイルス感染症の流行のような緊急事態が訪れた途端に、生活が立ち行かなくなる。それが都市の暮らしだと痛感したわけです。私自身、大阪のどまんなかに住んでいますが、都市の経済圏だけで暮らしていくことに、しんどさを感じています。猪瀬さんの場合は、東京の大学と埼玉県南部の広大な農地「見沼田んぼ」を行き来して生活されていますよね。都市生活における労働と消費、見沼田んぼにおける生産、そして「分解」という運動を往復しているからこそ、「農村:都市=消費:生産」という二項対立的な構図とは違う視点からお話しいただけるのではないかと思いました。
まず、都市を「分解」する活動の事例として、『分解者たち』のなかから、埼玉県の障害者福祉団体「わらじの会」のエピソードを引用させてください。
(前略)初期メンバーの藤崎稔さんは、脳性麻痺で、言語障害がある。四肢が自由に動かせない彼は(中略)電動車椅子を足で操作し、町のあちこちを回った。
スーパーマーケットでは、かごの前にじっとしていると、他の客がかごを膝の上に載せてくれた。ほしいものの前でじっとしていると、また他の客がどれを欲しいのかと聞いてくれる。ほしいものになると大きくうなずいた。ある日ファストフード店でアルバイトの女の子に「こちらでお召し上がりですか?」と尋ねられた彼は、満面の笑みで頷いた。ハンバーガーを用意した女の子は、彼が自力で食べられないことに気づいた。そのまま放置することもできず、結局食事介助をする破目になった。
そうやってあちこちで人びとを巻き込みながら、街を耕した。そこに権力や差別と対峙する自立した主体は存在しない。むしろ権力が用意した差別をそのまま生きてしまいながら、傍らの人びととも、制度ともせめぎ合いつつ、多様な存在を作り出していく運動がある。硬く踏み固められた地盤を、ワラジムシや、オカダンゴムシ、ミミズなどの分解者が豊かな土壌に変えていくように。わらじの会の人びとは「ノーマライゼーション」すらも、「分かれたところから一緒に」という発想であり、障害者と健常者を線引きした上で対等だと言っているに過ぎないと断じる。 (猪瀬, 2019, pp.202-203)
猪瀬:なるほど。わらじの会の活動はまさに都市を「分解」していると言えますが、それを語るためには、まず、わらじの会が生まれた埼玉の農村で、高度経済成長期に何が起きたかを考えることが重要です。かつては、障害のある方も農家にとって大切な生産要員でした。たしかに、就学を拒否されたり、結婚の対象とならなかったり、障害のある/ないの差異は存在していたものの、仕事の面では、ムシロづくりや綿繰りといった農閑期の手間仕事、豆の殻を剥く仕事などを担っていた。農村には、身体の動く人が野良仕事をして、身体の動かない人が家内の仕事をするという役割分担があったわけです。
家成:その役割分担が失われていくのはいつ頃ですか?
猪瀬:1961年に農業基本法が制定された頃から農業の近代化が進み、多品種生産だった農村の仕事が、単一の作物を集約的に生産する農業へと変容します。農業機械や除草剤・農薬の導入で作業の効率化が図られると、農村の暮らしと仕事が激変しました。それによって、障害のある人が担っていた仕事はなくなる一方で、障害のない人たちの仕事や家事の負担は大きくなる。都市部に仕事に出ていく人も増えていく。そうやって、働く者と働かない者のコントラストが明瞭になりました。こうして埼玉の農村は東京の“郊外”へと転じ、障害のある人は施設に入るか、家のなかに閉じこもるかの選択肢しか選べない、「障害者」としての生活を送らざるを得なくなっていきました。
家成:「障害者」という認識は、農村が都市に回収されていく過程で生じたということですよね。その後、わらじの会をはじめとする社会福祉団体は、彼らがもう一度社会の一員として暮らしていけるように都市を「分解」していくわけですね。
猪瀬:そうなんです。藤崎さんーー現在、彼はわらじの会の二代目の代表ですーーの例にみられるとおり、彼らは「迷惑」と言われるようなことを基調に都市を「分解」し、人とものを循環させていきます。僕にとっては、わらじの会の活動を調べはじめたことが、こうしてものを考え、研究することのきっかけになりました。
家成:そうだったんですね。わらじの会といえば、猪瀬さんの活動のフィールドである「見沼田んぼ福祉農園」に参加されている団体ですよね?
猪瀬:そうです。僕の兄には障害があり、その関係で幼い頃からわらじの会との交流がありました。それと、父や母が関わっていた見沼田んぼの保全活動がさまざまな社会背景で重なり、1999年に「見沼たんぼ福祉農園」が生まれました。農園の運営母体となる協議会には、多様な団体が参加していて、農園内のそれぞれの管理地で営農活動を行っています。当初は浦和市(現さいたま市)内の障害者福祉団体を中心に組織されていましたが、次第に市外の福祉団体やボランティア団体、地元のロータリークラブや朝鮮学校なども参加するようになりました。わらじの会もそのひとつで、今も福祉農園で一緒に活動してくださっています。
家成:なるほど。猪瀬さんがわらじの会のみなさんと出会った当時は、まだ福祉農園が生まれる以前だと思いますが、どのような出会いだったのでしょうか?
猪瀬:両親とともにわらじの会をはじめて訪ねたのが1980年代後半、私が8、9歳の頃ですね。当時のわらじの会の活動拠点は、2階建てのプレハブ小屋。あちこちにペンキの跡がある混沌とした部屋のなかで耳にした、わらじの会で日々起きる一悶着、二悶着の話や、平屋で一人暮らしする野島久美子さんーー彼女には身体障害がありますーーが踏んでつくった味噌はおいしいという話、藤崎さんなど脳性麻痺の人のよだれや体の匂い。どれも自分が暮らす浦和の新興住宅地にはない、強烈な生々しさがあったことを覚えています。
家成:その生々しさを新興住宅地では感じられなかったというところが、ひとつポイントに思えます。
猪瀬:そうなんです。僕はこれまで、障害のある兄とともに福祉農園に通い、農園で働く障害のある人と関わりを持つことで、多くを学んできました。『分解者たち』で描こうとしたのは、そんな彼らの日々の営みや見沼田んぼの歴史背景が浮き彫りにする、どこにでもありそうな世界の“かけがえのなさ”でもあります。
家成:著書のなかで、見沼田んぼを「首都圏の内側につくられた辺境」であると語られていますよね。見沼田んぼ周辺は、高度経済成長期に、急速に肥大化した首都圏が排出するごみ・し尿の処理を担う地域になり、現在もごみの焼却施設や焼却灰を埋め立てる最終処分場がある。そうした歴史背景から、首都圏が擁する肛門のような場所「内側の辺境」であると。そして、「分解」という人間本来の大切な役割を担い、都市生活から排除され朽ちゆくあらゆるものを、コミュニティや歴史を編纂して生きたものへ開いていくのだと。つまり、見沼田んぼは、都市開発の陰で取り残されてきた田舎というよりは、さまざまな社会背景を受けて首都圏の内側に残されてきたわけですよね。
猪瀬:小学校の高学年くらいで見沼田んぼに出入りするようになった僕は、その都市部と農村の妙なハイブリッド感に違和感を覚えていたように思います。当時はまだ周辺に豚舎があり、豚の鳴き声が聞こえました。豚の餌のおこぼれを目当てにたくさんのカラスが飛んでいて、昔ながらの風景というか、都市と自然の狭間のような景色のなかで、カラスと視線が合う。それから、おやじと兄が畑の傍に大きな穴を掘っていて、そこに材木を渡してちょっとした小屋をつくったり、刈った草木を燃やしたり。子どもながらに心配になるほど大きな火柱が上がっていたことを鮮明に記憶しています。それらは圧倒的な自然や理想的な農村のイメージとは異なり、自分の暮らしている新興住宅地ともちょっと違う。父に連れて行かれる妙な場所、それが見沼的な農村との出会いでした。
家成:都市部と農村のハイブリッド感というのは、おもしろいですね。まさに「内側の辺境」の様相を呈しているように思えます。
猪瀬:そうなんですよ。純粋で美しい村ではなく、あくまで都市と農村の“ハイブリッド”であって、その生々しさも含め、都市と農村は分断されていたわけではない。ひと昔前まではそういったアナーキーな空間が新興住宅地のなかにもかろうじて残っていたものですよね。たとえば、神社やマンションが建つ前の空き地もそのひとつで、爆竹を鳴らしたり、ちょっとした穴を掘ることもできた。今よりも禁止事項が少なかったので。見沼はそれをさらにダイナミックにした感じで、父の焚火も、2メートルくらい火が上っていたような記憶があるんですよね。
家成:そうですね、都市も農村も地続きにある。それにしても、2メートルの焚き火って、お父さんすごいですね(笑)。当時の見沼には、何か野性味みたいなものがあったのでしょうか。
猪瀬:なぜ燃やしていたのか……(笑)。都会の仕事で抱えたストレスを農村で発散していたのかもしれませんね。
家成:焚き火といえば、現在の法律では、農村の野焼きも禁止されていますよね。特例で認可されている地域もありますが、なぜ禁止されることになったのかというと、農作物の藁などを燃やしていた野焼きに、プラスチックなどの燃焼すると有害なガスが発生する物質が混ざるようになったからです。農家のおっちゃんたちの昔からある営みが、燃やすものが変わったことで禁止されていく。人の振る舞いは変わっていないはずなのに、ものが変わることで、振る舞いも変えられてしまうということが起きています。
猪瀬:埼玉でも、所沢のダイオキシン問題が生じて以降、家庭用の焼却炉が使えなくなりました。以前は、個人の家庭で庭木を剪定した枝葉を燃やしていましたが、今ではゴミ収集に出さなければなりません。うちの福祉農園では、そういう枝葉をもらって薪にして、煮炊きに使ったりしました。
家成:そうそう。見沼田んぼ福祉農園に2〜3回お伺いしたことがありますが、そういう小さな循環がたくさん見られました。手づくりの道具置き場やごはんを食べるベンチとテーブルがあって、畑仕事の後には、藁や雑木などの薪を燃やして豚汁をつくり、食べ終わったらその灰で食器を洗う。農園関係者の木工所から出るおがくずを厩舎に敷いて活用し、その馬の糞も畑の堆肥にする。農園では循環や分解も日常の営みだと思いますが、都市にいるとなかなか見られるものではない。いい経験をさせていただきました。
猪瀬:家成さんがお越しになったとき、80歳を超える農園ボランティアの方とお会いになられたと思います。彼は一級建築士で、聞くところによると、1964年の東京オリンピックでは、丹下健三氏の下で国立競技場の設計に携わっていたそうです。実は、彼もまた、僕が農園の「分解」を語る際に、ひとつの切り口を提示してくれたひとり。70歳まで設計士として働き、引退後は家で何をするでもなく過ごすようになったそうです。ある日、奥さんから「うちの夫を、どうぞ農園で使ってやってください」って電話がありました。まるで粗大ゴミをリサイクルセンターに頼むかのような節回しで(笑)
家成:農園の維持・管理をボランティアで手伝っていらっしゃる方ですよね?
猪瀬:そうです。しぶしぶやってきた様子で、当初はお弁当も僕らとは別々に食べているような状態だったんですよ。でも、半年~1年経つと、もともと田んぼだったこともあり、年々少しずつ沈んでいっていたプレハブ小屋を、若い人たちを指導してテコの原理で持ち上げたり、障害のある人にも植えやすい種植え用の定木をつくってくれたりするようになりました。そんななかで、本人も「今が人生で一番おもしろい」と語るようになりました。生産活動と生活がばらばらになってしまった都市生活においては、日本を代表するような建築をつくった設計士ですら、引退したら行く場がない。都市のなかには技術をもった多くの人が潜んでいますが、経済の連関のなかには、それを生かすフィールドがないんですよね。
家成:以前、東京で暮らす知り合いに聞いた話ですが、ヘルシー弁当というのを高齢者に配達するバイトをしたところ、どの高齢者の方もみんな横になってテレビドラマ『相棒』の再放送を観ていると。みんな何かしらの技術を持っているのに、都市のなかで暮らしていると、横になって『相棒』を観るしかない……。そうしているうちに、奥さんに「農園行ってこい」と言われるわけですね。
猪瀬:引退してお金があるうちは、ゴルフや呑み屋に行って遊べる。でも、そのうちに呑み屋でも煙たがれて出禁になってしまう人の話を、近所でもよく耳にします。
家成:そうなんですよね。そういう意味では、現代の都市生活は、生き方のバリエーションが少ないと言えるのではないでしょうか。もちろんさまざまな雇用があり、お金を使う快楽も多様にあるとは思いますが、藤枝さんが「農園でボランティアをしている今が人生で一番おもしろい」っておっしゃるところに尽きると思うんですよね。
猪瀬:一級建築士という肩書きを持つ人ですら、居場所がなくなる状況がある。でも、たまたま出会った農園には居場所があった。見沼田んぼ福祉農園は社会の軋轢のなかで構想され、実現した場所です。見沼田んぼの内側で続いていく人々の営みと、外側から訪れる経済や政策の変化。内と外の異なる位相は、拮抗することもあれば、協調することもあります。その過程で新たな生業や風景の変化が生まれ、人の認識も変化していく。
家成:そのような居場所もまた技術のある人と同様に、実は社会のなかに潜んでいるのかもしれません。再度、『分解者たち』から藤崎稔さんの事例を引用させていただこうと思います。
この日の食卓は、家出してきた女性の夫に対する愚痴を聞くことが話題の中心だった。(中略)藤崎さんは三人の会話をげらげら笑いながら聞いていた。掃除ロボットは汚れを見つけては、掃除して回った。ふだんは会話のなく、ロボットの掃除音だけが響く、藤崎さんと吉田さんの二人の食卓に、会話が生まれた。
重度の障害のある人、倦怠期にある介助者、近隣に孤独を感じながら暮らす女性、家出女性、そしてロボット。血のつながりのないものたちが、団地の一室で食卓の周りで蠢く。一見クリーンに整理された現代という時代のなかで、藤崎さんの「自立生活」は、「自立生活」が多くの人にとってそれほど容易ではないことを露わにしながら、様々な悩みや欠損を抱えた人や、それを補おうとするーーしかしそれは多くの場合不発に終わるーー〈ひと〉と〈もの〉を引き寄せていく。そして消化されないまま古びた団地に満ち溢れ、混じり合い、怪しく発酵していく。
この老朽化した団地の一室、あるいは密室に、開かれた場(オープンスペース)[1] ということを考える大切な手がかりがあるように、私は思えてならない。 (猪瀬, 2019, pp.208-209)
本記事の制作にあたり、『分解者たち』の撮影をご担当された写真家・森田友希さんに、見沼田んぼ福祉農園の写真をご提供いただきました。あらためて感謝申し上げます。
引用文献:
猪瀬浩平,2019, 『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』生活書院.脚注:
[1] 「開かれた場(オープンスペース)は、藤原辰史の文献*および藤原と猪瀬の議論によって得られた着眼点である。*藤原辰史, 2019,『分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考―』:69.
猪瀬浩平 / Kohei Inose
1978年、浦和市(現さいたま市)生まれ。大阪の大学在学中の1999年から見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、そのうちに事務局長になる。2007年から明治学院大学教養教育センターの教員としてボランティア学を担当。主な著書に『むらと原発――窪川原発をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『ボランティアってなんだっけ』(岩波書店) など。