世界初の「映画」が誕生した19世紀末以降、再現不可能な時間と空間を定着させ、離れた場所の出来事を伝達/想像させる技術が、人々に共有されはじめました。記録と表現を兼ね揃えた「映像」は、アートやクリエイティブの領域に限らず、さまざまなレベルにおいて世界を知覚するための手段のひとつとして、その役割を今も担い続けています。今回のCO-DIALOGUEでは、「映像における記録と表現」をテーマに、「映像人類学」の分野で活躍される研究者川瀬慈氏、映像メディアを用いた作品の制作を行うアーティスト山城大督氏にお話いただきました。
収録日:2016年6月13日(月)
場所:国立民族学博物館[大阪府吹田市]
【2016年7月発行『paperC』no.012「CO-DIALOGUE」掲載】
文化を測る“ものさし”としての映像メディアと出会う
山城:僕自身、映像を用いた作品制作を手がけているのですが、同時にアートプロジェクトのドキュメンタリーを制作することもあります。川瀬さんは、同じ映像というメディアを扱いながらも、「映像人類学【1】」という専門領域からアプローチしている。その立ち位置の違いから、今回のテーマである「映像における記録と表現」について、多角的に考えていければと思います。そもそも、川瀬さんはどういった経緯で映像を用いた研究をはじめたのでしょうか?
川瀬:実は、研究者としての活動をはじめた当初は「映像(人類学)」を専門にしていたわけではありませんでした。京都大学大学院のアジア・アフリカ地域研究研究科に在籍していた2001年に、アフリカのエチオピアに入り、ある音楽集団の人類学研究をはじめたことがきっかけです。その後、北部にある古都・ゴンダールを訪れ、結婚式や娯楽の場、精霊と人間をつなぐ憑依儀礼などで演奏する音楽集団と出会い、ともに生活をしながら集団の活動実態の調査・研究をはじめ、現在も続けています。
山城:音楽の研究がきっかけだったんですね。
川瀬:もともと僕自身がミュージシャンとして活動していたこともあって、音楽を切り口に研究できたら良いなと考えたんです。あと、現地のミュージシャンとジャムセッションをしながら研究しようという軽い気持ちもあって(笑)。
山城:実際のゴンダールの音楽は、どんな印象でしたか?
川瀬:エチオピア北部では、キリスト教エチオピア正教会の教えが人々の生活に根づいていて、その儀礼音楽や賛美歌は神様からの贈り物で、神聖な音楽とされています。一方、世俗的、娯楽的な音楽は、賤しい人々が代々受け継ぐ職能として、位置づけられてきました。かつての日本で、「芸人は河原乞食」と呼ばれていた感覚に近いかもしれません。当時、僕は人類学の研究として、研究対象を2つの音楽集団にしぼっていました。1つは酒場や儀礼の場で歌い踊る「アズマリ【2】」。もう1つは移動性の高い吟遊詩人集団「ラリベロッチ【3】」です。言語、婚姻関係、他集団との関係のあり方など、その社会集団としての特質を、多様な角度から研究することも重要ですが、何より“音楽の現場”そのものが魅力的だったんです。彼らは、路上や家、酒場などで、現地の人々との非常に豊かなやりとりを通してパフォーマンスを展開していく。彼らを邪険にする人々、あるいは好意的な人々の反応を、場面対応的にパフォーマンスへと反映する集団の“したたかさ”、人々との相互行為があるんですね。そんな彼らにどうしようもなく魅了され、彼らが一番輝き、魅力的に映る手法として、映像というメディアが良いのではと考えるようになったのです。
山城:映像との出会い方が理想的ですよね。「彼らの魅力を伝えるためにはどうしたらいいか?」「彼らを知るための一番良い方法は?」という問いに向き合った結果、手段としての映像にたどり着いている。
川瀬:僕も最初は、人類学での教科書的な撮り方——つまり客観的な観察、記録が有効だと思っていたんです。しかし、2〜3年暮らしをともにしていたら、現地の人たちは僕の存在を認めてくれて、友だちにもなる。さらには、歌い手を撮影していると、その歌詞の中に僕の存在も歌われてしまう(笑)。そこでようやく“調査している私”という存在は、作品の中から消し去ることはできないのだと悟りました。そこから、撮影者も映像の中の一部であると自覚するようになり、自分自身も研究対象者と冗談を言って笑い合い、意見交換をしたりと、いわば自らを前景化する撮り方をはじめたんです。あの環境だからこそ、生まれた撮影方法とも言えると思います。
「資料」と「表現」の間で、作品の本質を深めていくこと
山城:川瀬さんはご自身の映像を「映画」と呼んでいますよね。
川瀬:そうなんです。もちろん、「研究資料」としての映像もあります。国立民族学博物館では、研究資料的な映像の撮り方を重視していまして。僕は、「資料」と「映画」を使い分けています。
山城:川瀬さんが手がけた『ドゥドゥイエ 禁断の夜【4】』という14分の作品で、アズマリの女性が酒場で歌うシーンがありました。初めて拝見したとき、川瀬さんが旅でふらりと酒場に立ち寄り、おもしろかったから翌日再訪して撮影した映像なんじゃないかと思ったんです。エキサイティングな場面に遭遇して、慌ててポケットからスマホを出して撮影したような、生っぽい感じがありました。良い意味で、撮影者の興奮が伝わってくる映像だったんです。
川瀬:あの作品、実は3、4年かけてアズマリの歌い手と交流した背景があって生まれた作品なんです。だから、4年分の14分間。「ファーストコンタクト」、すなわち初対面の場のような瑞々しさを意識しつつ、ぎこちなくならない関係性の構築を心がけて撮った作品です。単に時間を蓄積するだけでは、見失うものもあるかもしれない。
山城:撮影方法や画質といった次元の話ではないんですね。僕はよく“生の時間”という言葉を使うのですが、被写体だけではなく、撮影者の感情さえも伝わる映像には、独特の時間が映像の中に流れているように思います。例えば、映画監督・原一男【5】さんの『ゆきゆきて、神軍』【6】をドキュメンタリーとして観たときに受けた衝撃。「演出」という言葉を明らかに飛び越えて、撮影者が対象者を煽っている。それって調査の基本とされる「観察」において、絶対やってはいけない行為のひとつですよね。おそらく原さんが意図していた画からも離れ、思ってもいない方向に連れて行かれる。鑑賞後、苦しくて、手が震えているという体験は初めてでした。
川瀬:一方で「撮る側/撮られる側の存在」の関係に境界線を引くのではなく、「撮る側/撮られる側の相互作用で展開していくもの」に注目した撮り方もあるんじゃないかなと思います。
山城:なるほど。川瀬さんが「アズマリ」や「ラリベロッチ」を撮影した作品では、むしろ登場人物としての撮影者(=川瀬さん)の視線を借りて物語が進んでいるような、不思議な感覚がありました。映像人類学では、あまり用いない手法なのでしょうか?
川瀬:人類学映画はかつて、「民族」を客体化し、俯瞰的に表象する様式が主流でした。そこにおいては、制作者の存在が作中で明らかにされない観察型のスタイルや、プロのナレーターによる解説を主軸とし、補足的に写真や映像が組み込まれる解説型の映画が多く生み出されました。現在は、撮影者/調査者が、被写体の人々と日常会話を交わし、意見を交換し、同時代の人として被写体とともに生きるという地平を描く作品が増えていると思います。
山城:20世紀後半と言わず、21世紀になった今でもカメラは記録、保存の方法として最適な装置だと思います。しかし便利な反面、カメラを持った瞬間に、周囲の人から警戒されてしまうなど、撮影することで対象の状態を変えてしまう恐れのあるメディアでもありますよね。最近、障害を持った子どもたちの行為を撮影していて。すでに何人か撮影したのですが、話を聞くと、映像でないと記録できないことばかりなんです。例えば、ある自閉症の子はダンボールを水でふやかし、ゴミ箱に捨てる、その一連の作業を1時間続けていたり……。彼らの表現は、一般的に「アウトサイダーアート」や「アールブリュット」【7】と呼ばれる分野に属しています。最近は、作品のみならず、行為そのものにもスポットを当てられていることも多い。そんな彼らの表現を展覧会で紹介するために、毎回連れてくるわけにはいきませんから、映像で記録したいという依頼なんですね。だけど、撮影しながら、この関係に対する違和感があって……。それは、自分たちの「日常」とは異なる、「障害を持った人たちの日常」を撮影し、私たちの日常におけるステージに“あげている”感覚なのかもしれません。両者に優劣はないにしても、別のところから持ってきている感じがあるんですよね。
川瀬:エチオピアでは、カメラや三脚が武器と間違えられることがあるんですよ。それはしかし、ある意味で正しい。本来カメラを持った時点で、“狩猟行為”なんですね。山城さんの違和感もそこに関連しているのではないでしょうか。このジレンマを解消していくのは、やはり「時間」だと思います。僕の場合は1年、2年、3年と彼らと時間を過ごし、ほとんど家族や友人のようになって考え、研究の目的や調査の方向性を理解してもらうということに重きを置いていました。
山城:映像人類学では、フィルムの技術が生まれた当時からハンティングをしているわけですよね。そのジレンマに対して、これまでどんな議論が行われ、現在はどんな状況なのでしょうか?
川瀬:そうですね。さきほどお話したこととも重なりますが、20世紀中盤以降は一方的にハンティングするだけでなく、対象の人たちとじっくり時間をかけて共同作業的に映画をつくり、映像記録という目的を対象者と共有することの重要性について指摘されてきました。しかしそれでも、人類学者のかたどる文化のあり方に真っ向から抗うような映画制作の運動が、各地の先住民の活動家、アーティスト、学者を中心に盛り上がることもありました。文化の表象に究極の正しい姿がないと仮定するならば、ジレンマを抱えつつも、表象をめぐる多様な試みをいかに建設的な議論のプラットフォームに乗せていくかが大きな課題であると思います。
山城:川瀬さんご自身は、どのように作品を考えているのでしょう?
川瀬:僕は映像人類学者として研究に携わるとき、「文化の記録という仕事」と「表現者としての欲望」という相容れないものの間で常に揺れ動いています。他者を理解するツールとして記録を積み重ねていくと同時に、自分自身が魅了された点に重点を置きつつ、特定の映像の話法で表現していきたいという欲望が芽生えてきます。記録と表現、この異なる力の働きを、交わらないと知りつつも混じり合わせる。この力の動的な均衡を探っていくことが、僕は人類学における映像制作だと思っています。これは苦しい作業なのですが、この苦しみが深いほど、作品の深みは増してくるのだと思います。
不定量な価値や情報を受け入れ、 映像からはじまる議論を育む
川瀬:異文化に身を置いて対象をじっくりと観察するフィールドワークを中心に発展してきた人類学は、視覚を感覚の頂点として暗黙的にとらえ、聴覚や触覚、味覚をはじめ、そのほかの感覚については軽視する傾向がありました。そのような視覚偏重の態度への反省を踏まえ、人の感覚の複雑な働きをキーワードに、映像人類学は振り出しに戻った状態であると言えます。
山城:その話を初めてお会いしたときに聞いて、「それだ!」と思ったんです。よく「五感」と言いますが、感覚は何も5つだけではない。音楽は聴覚を通して聴いていますが、例えば、爆音で音楽がかかっているクラブでは、空気全体の振動を全身で感じる。それは、五感にしばられないある種の複合的な感覚であり、それを記録するメディアも同じく1つの感覚にしばられない手法が望ましい。
川瀬:そうなんです。私たちは、今「視覚偏重しない文化の記録、理解の形は可能か?」という問いを突きつけられています。昨今、視覚偏重型の流れを反省して、「センサリーメディア【8】」を用いたインスタレーション、つまり1つの空間に異なるメディアを配置し、相互参照的に見せるインスタレーションが盛り上がっています。単に映画をつくるだけでなく、 特定の空間において異なるメディアを駆使し、活用する文化の記録・表現の方法論の模索が世界各地の映像人類学の学派の中で行われているようです。同時に、このセンサリーメディアの試みは、コンテンポラリーアートの方法論も援用しつつ展開しています。
山城:「センサリーメディア」という言葉を聞いて、今年3月に発表した作品《TALKING LIGHTS》【9】を、なぜ自分がつくったのか、腑に落ちました。今まで、四角いモニターの中で映像をつくってきましたが、実はとても窮屈なことをしているんじゃないかと思ったことがあって。モニターとその横にある物質がモンタージュされていくようなつくり方もあり得るなと思ったんです。今回の作品は、映像というメディアを超えて、物質がしゃべったり、空間全体で人々がうろうろしながら見たりする、ある種のシアターを参考にしたインスタレーションになっています。そう考えると、アーティストが作品をつくろうとするそのきっかけと、映像人類学が突きつけられている問いとが、重なる部分があっておもしろい。会期中には、自主企画で作品解説のイベントも開催したのですが、体験型の作品だからこそ、来場者の反応や感想を聞くことが重要だなと改めて感じました。
川瀬:僕の研究においても、作品に対するさまざまな声と向かい合うことはとても重要です。映像人類学は、映像が喚起するさまざまな声を排除してきた傾向があります。学問の文脈だけに活動の場を限定すれば、小綺麗な学術的議論に終始するだけでOKでした。しかし現在、アカデミアを超えて、さまざまな人や場所に我々の仕事の内実が届き得る。以前、僕の作品が、ユネスコの文化遺産保護の会議に乗せられたとき、日本で言うところの文化庁に属するエチオピアの役人たちが怒り出す、ということがありました。僕が研究してきた、被差別的な職能集団は、現地の役人からすると、エチオピア国外には決して見せたくない文化であったということです。最初は落ち込みこそしましたが、映像によって喚起される、文化表象をめぐる多様な意見、それらとの交渉過程も、対象を理解していく上での尊い営みであるのでは、と考えるようになりました。論文や本を書くだけでは、研究対象をめぐる現地の人々の感情の部分をなかなか探求でき得ない。映像には人の感情や感覚、記憶などいろんなものを引き出す可能性があるのではないでしょうか。それが時と場合によっては強烈で、拙作の上映後、嵐のようなリアクションを食らい、吹き飛ばされるようなことがこれまで多々あった(笑)。そういう点については、もう肉体労働ですよ、映像人類学は。
【1】映像人類学
写真、映画などの映像を利用して、民族や文化の研究を行う学問。フィルムが誕生した1930年代に人類学者が記録のためのツールとして映像を使いはじめ、時代を経るにつれて資料映像の撮影、分析から、映画的な話法を用いた民族や文化の表現へと発展してきた。その中心的な活動は民俗誌映画の制作。現代ではインターネット、スマートフォンにおける状況も含んで映像人類学とする場合がある。
【2】アズマリ
エチオピアの音楽職能(吟遊詩人)集団のひとつ。マシンコと呼ばれる単弦楽器を用いて、地域社会の結婚式や酒場、儀礼の場で聴衆を褒め称える内容のうたを歌い踊り、地域の芸能を司る。ゴンダール王朝時代から群雄割拠の時代にかけては王侯貴族や諸侯の「お抱え楽師」として活動した者もいる。また、川瀬氏が携わる、アズマリの少年少女が歩む人生の道程を映像記録していくプロジェクトにて、ドキュメンタリー『僕らの時代は』が公開されている。思春期の少年2人、タガブとイタイアに焦点をあて制作。彼らが演奏を生業としながら地域の人々とやりとりを行う日常と、家族について、アズマリを目指すきっかけについて語るシーンが交差していく構成になっている。
【3】ラリべロッチ
エチオピアの音楽職能(吟遊詩人)集団のひとつ。楽器を用いずに単独、もしくは男女のペアで一軒一軒の民家を歌いながら巡り、金や食べ物を受け取ると祝詞を与える。唄うことを止めるとコマタ(アムハラ語でハンセン病の意)を患うという差別的な言説が存在する。川瀬氏は2005年、ラリベロッチの老夫妻の活動を記録した映画『ラリベロッチー終わりなき祝福を生きるー』を発表している。
【4】『ドゥドゥイエ 禁断の夜』
2006年に制作された川瀬氏の映像作品。2014年恵比寿映像祭で上映。アズマリは国際情勢から国内の政治、さらには諸民族の生活習慣や男女の恋愛に至るまでユーモラスに唄にする。中でも性に関する話題は格好の題材である。この作品は、川瀬氏が日本の友人とエチオピアの首都アジスアベバにある「ドゥドゥイエ」ことテグスト・アサファの店をれたときの、男女による性を話題とした唄の掛け合いの記録である。
【5】原一男
山口県出身の映画監督。1972年に小林佐智子と「疾走プロダクション」を結成。脳性麻痺の障がい者自立運動家を描いた『さようなら』(1972年)、フェミニストである元同棲相手を追った『極私的エロス 恋歌』(1974年)など、異色のドキュメンタリー作品を監督・撮影し、世界的に高い評価を得た。現在は大阪芸術大学映像学科客員教授、シューレ大学アドバイザーとしても活動を行っている。
【6】『ゆきゆきて、神軍』
1987年に公開された、原一男監督によるドキュメンタリー映画。たった1人の“神軍平等兵”を名乗るアナーキスト奥崎謙三は、終戦23日目にして2人の兵士が敵前逃亡の罪で射殺された事実を知る。奥崎は殺害された兵士の親族と共に処刑に関与した元上官たちを訪ね、ときに過激な方法を用いて真相を追及していく。超問題作としてヒット。ベルリン映画祭カリガリ映画賞、日本映画監督協会新人賞など国内外で多数の賞を受賞している。
【7】アウトサイダーアート/アールブリュット
アールブリュット(art brut)はフランスの画家ジャン・デュビュッフェによって考案された言葉で、「生の芸術」という意味のフランス語。アウトサイダーアート(outsider art)はそれに対応する英語表現である。広義では、正規の美術教育を受けていないつくり手による、既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によって制作された芸術作品のこと。狭義では障害のある人の作品を指すことが多い。日本では近年、アート作品として認められつつあるだけでなく、障害のある人と社会とを結びつける表現(活動)として評価されている。
【8】センサリーメディア
人の感覚をキーワードにした、オルタナティブな文化の記録と表象の方法。参与観察をベースに発展してきた人類学は、暗黙のうちに視覚を感覚の最上位に定め、その他の感覚を軽視してきた。そのような態度への反省を踏まえ、現在では各国の主要な映像人類学の研究機関で探求されている。その実践には、特定のスペースにおける音、テクスト、写真、もののインスタレーションや人の心象を軸にしたマッピング、身体のパフォーマンス、あるいはこれらのいくつかを組み合わせる方法が挙げられる。
【9】《TALKING LIGHTS》
2016年3月に森美術館で開催された「六本木クロッシング2016<僕の身体、あなたのこえ>」で発表されたインスタレーション作品。東日本大震災の際に感じた拠り所のない気持ちや、震災後に生まれた子どもたちから感じたことを、光、音、映像、オブジェクトを複合的に用い、演劇的な手法でエモーショナルに具現化させた。
川瀬慈[映像人類学者]
1977年生まれ、岐阜県出身。国立民族学博物館助教、博士(京都大学)。マンチェスター大学グラナダ映像人類学センター研究員、SoundImageCulture(ベルギー)客員講師などを歴任。アフリカ、主にエチオピアの音楽職能集団の人類学研究および民族誌映画の制作を行う。
山城大督[美術家/映像ディレクター/ドキュメントコーディネーター]
1983年生まれ、大阪府出身。岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)修了、京都造形芸術大学卒業、山口情報芸術センター[YCAM]エデュケーターを経て、東京藝術大学で映像を学ぶ。映像の時間概念を空間やプロジェクトへ展開し、その場でしか体験できない「時間」を作品として制作。
参考文献:
・『文化人類学』(第80巻第1号/日本文化人類学会/2015年)
・『文化人類学辞典』(弘文堂/1994年)