国立国際美術館で「ノー・バウンダリーズ」と名づけられた展覧会が開催された。同美術館の収蔵作品で構成された企画展である。
ノー・バウンダリー、つまり“境界がない状態”。会場内で歩みを進めるうちに、そのテーマの奥深さが意味を増していく。“境界がない”ことを想定するには、当然ながら“境界のありか”を意識しなければならない。この展覧会は、芸術を芸術として形づくる境界(バウンダリー)について語り、その文脈を浮かび上がらせ、ひいてはアーティストとは何か、美術館とは何かを前景化する。私たちは、そうしたすべての芸術に共通する“当たり前”について、あまりにも無自覚的であり過ぎはしまいか。“境界”という概念を念頭に置けば、本展の至るところからさまざまなバウンダリーがめくるめく立ち現れ、芸術の輪郭について思い巡らされた。

本展の冒頭には、森村泰昌がゴッホに扮した自画像など、彼の最初期の“成りすまし”の作品が掛けられていた。ほかの作家を擬態する作家性の越境と、描く主体と描かれる客体との逆転という複数のバウンダリー。彼の芸術の根拠は、まさにそうした境界性への言及にある。その横に、森村よりもずっと前から他者に扮する自身を撮影してきたシンディ・シャーマンの作品が置かれる。後発の森村とシャーマンの間には、両者の比較をいざなう補助線的な境界が、常に暗黙のうちに引かれてきた。続いてやなぎみわの〈My Grandmothers〉シリーズが並ぶ。作家のモデル募集に応じた女性たちが思い描く、老婆となった自身の妄想的未来図を精緻な写真につくり込んだこれら作品を観るに及び、ここでは写真の“再現性”が問題とされていることに気づく。レンズ越しに写し取られたイメージは、作為のない自然なのか、それとも芸術として創出された想像の産物なのか。写真はその両者のバウンダリーを往還し続ける。
最初の見どころは、米国在住の作家・田島美加の作品である。今回は2023年に新たに収蔵された平面や立体作品5点が展示されていた。田島は「テクノキャピタリズム」に言及する。人類の進化を信じ、テクノロジーをその資本と考えるSFチックなその思想は、イーロン・マスクやピーター・ティールなどシリコンバレーの寵児たるグローバル経済のプラットフォーマーたちによって、今、現実世界への落とし込みが大真面目に為されはじめている。彼らのトランプ政権への浸透は広く知られるところだ。問題は、そのテクノロジーの文脈が、人の想像や思考能力を超え、すさまじい速度と規模で進化し続けていることにある。田島の作品は、その未知なる領域へと膨張し続けるテクノロジーのバウンダリーを、人知の及ばぬ存在のまま、芸術の手法で示唆するかのようだ。
《ネガティブ・エントロピー(ディープ・ブレイン・スティミュレーション、ペール・グリーン、ダブル)》は、脳の深層に加えられた何らかの刺激に対する脳波の反応を絵画として写し取ったもの、と題名通りの解釈がまず表層的に可能だろう。しかし、そこで用いられた“科学的”な方法の根拠も、目的もいっさい不明であるばかりか、キャンバスのように見える作品表面は、機械的なメトリクスを使って織り込まれた無機質な生地のようでもあり、描かれた対象も、描くメディアも、私たちの認識の枠組みをいっさい受け付けない。芸術において、芸術を形づくる領域の境界が永遠なる謎であることの特殊性が、膨張し続けるテクノロジーの不気味さと、田島の芸術のなかで奇妙に符合し合う。

また、本展には山城知佳子の《BORDER》や〈オキナワTOURIST〉シリーズなど、彼女の最初期の映像作品数点が、数台のモニターを使って展示された。鑑賞者はヘッドフォンをつけて音声を聴くため、見るかスキップするか、能動的なコミットが求められる。米軍基地の金網に寄りかかってアイスクリームをなめ続ける女、国会議事堂の前でオキナワにまつわる言説をなぞるようにアジテートする女など、作家自身が自ら設定した役を演じるこれらのパフォーマンスベースの作品は、沖縄をめぐる歴史的、文化的、社会的な境界を赤裸々に語る。たゆまぬ手ブレで不安定に揺らぐ画面や、ところどころに織り込まれた意図的なサウンドと画面のフリーズが喚起するのは、ものごとが“噛み合わない”ことへの山城の苛立ちと怒りだ。それは、ずるずると差別的な視点へと傾斜していくことへの彼女なりの抗いでもあるだろう。山城はまさにボーダーのなかに取り込まれた自身を通して、問題の核心をあぶり出す。
芸術において心象の領域は格別の意味をもつ。芸術は、本質的に鑑賞者の心象作用にほかならないからだ。フェリックス・ゴンザレス=トレス《無題(ラスト・ライト)》は、天井から一筋にぶら下がる複数の裸電球からなる作品で、ヤン・ヴォーの作品の一部を成す部屋の壁面を覆う大きなミラーの前で、おだやかな光を放ちながら静かにたたずむ。電球のフィラメントはいずれ摩滅し、光を放たなくなる。作家はその電球の生命を、亡くなった恋人に捧げるオマージュとした。実は、本展は、この時期に開催が予定されていたフェリックス・ゴンザレス=トレス展が諸事情により中止となったために、その代替として開催された背景をもつ。この作品は、喪失への憧憬を包み込むある種の感傷とともに、実現が叶わなかった展覧会への“名残り”として、特別な意味を帯びてその場所に置かれていたように映った。

田中功起の映像作品《誰かのガラクタは、誰かの宝物》は、アメリカのフリーマーケットにて、田中自身が行った枯れた大きなパーム樹の葉を集めて実際に販売する行為を撮影したもの。題名通り価値をもたないゴミのような「ガラクタ」を商品として販売し、貨幣価値との交換を試みる様子を描く。フリマで田中と言葉を交わした通りすがりの人々は、みな「ありえない」と首を振りながら苦笑いして立ち去っていく。一方で、本展の来場者の大多数が、この作品が美術館に収まっている事実を特に否定もせずに受け入れるという現実がある。大真面目にゴミを商品として販売する奇異さと非日常性が、芸術としての認知を得る。アーティストは、ゴミとアートのバウンダリーを無効にし、ゴミから芸術という「宝」を生み出す特殊な能力を有するのだ。デュシャンの便器と同様、その魔法のような特殊性は、アーティストや美術館に特権的な権力をもたらす。しかし田中は、その権力を謳歌しているのではない。逆に、自覚的に、その看過されがちなアートと美術館が抱える矛盾へと人々の意識を向けさせる。

そして、本展ではかなり大きな場所を割いて、ヴォルフガング・ティルマンスの作品を紹介していた。出品数全53点のうち、その1/4以上となる14点がティルマンスの作品となる。最初期のレーザー・コピー機を使った1990年代の作品から、よく知られた〈フライシュヴィマー(自由な泳ぎ手)〉シリーズや、発色現象方式印画によるオーヴァーオールな色面をもつ〈シルバー〉シリーズなど、これまでティルマンスが多種多様な方法によって試みてきた独自の表現の領域が姿を現す。
それらは「バウンダリー」というテーマの下で何を意味するのか。そこから立ち上がってくるのは、ティルマンスが頑なに固執する写真メディアのフィデリティ(忠実性)であり、それが規定する写真の領域である。作者の意図を表現の最終形に落とし込む際、絵画やドローイングであれば介入してくる感覚や手わざの揺らぎが排除された、写真が特権的に有するメディアとしての透明度。そうした「写真であること」の純度が、作家の意識が世界と接するところで生まれる創造性に高い精度で自由を保証するのだ。それは表現の領域を広げ、奥行きを深める。《シルバー69》(2000年)において、印画紙そのものの化学的変性で生まれた抽象表現的な絵画性が、絵画と写真のあわいで概念的な複層性を帯びつつ、ひとつの視覚として観る者を魅惑してやまない事実が、それが写真であり続けることの深遠を物語る。
つまり芸術は自由なのだ。芸術は、バウンダリーを自在に越境し、別々の領域を接続するさまざまな回路を開く。「ノー・バウンダリー」とは、まさにそのことに言及する。それが可能となるのは、芸術家たちが自ら扱う領域において、その文脈や状況を深く思考し、特殊性を分析し、また理解し、それらを特徴的な視覚として提示することに大きな意味を見出しているからにほかならない。私たちが芸術を必要とする理由に、芸術が、領域間の深い層において新たな関係性を創出する機能を有するものであると見て、間違いないだろう。
大島賛都 / Santo Oshima
1964年、栃木県生まれ。英国イーストアングリア大学卒業。東京オペラシティアートギャラリー、サントリーミュージアム[天保山]にて学芸員として現代美術の展覧会を多数企画。現在、サントリーホールディングス株式会社所属。(公財)関西・大阪21世紀協会に出向し「アーツサポート関西」の運営を行う。
会期:2025年2月22日(土)〜6月1日(日)
会場:国立国際美術館 地下3階展示室
時間:10:00〜17:00、金・土曜は20:00 まで ※入場は閉館の30分前まで
休館:月曜(ただし2月24日、5月5日は開館)、2月25日(火)、5月7日(水)
観覧料:一般1,200円、大学生700円
※高校生以下・18歳未満無料(要証明)・心身に障がいのある方とその付添者1名無料(要証明)
※本展料金で、同時開催のコレクション展も鑑賞可能