戦後の高度経済成長期における地域開発が、古くから続く日本の風景に大きな変化をもたらしました。その動きに対して保存運動が起き、景観をつくり育てるための試みと生活景の再評価がなされた20世紀末。そして2000年代、さまざまな地域で開催される芸術祭や地域創生事業を機に、改めて地域を読み込む「方法」と専門分野を超えた「言葉」が求められています。今回のCO-DIALOGUEでは、「地域を見出し、伝える技術」をテーマに、文化的景観学研究を行う惠谷浩子氏、ベルリンを拠点に活動するアーティスト・雨宮庸介氏にお話しいただきました。
収録日:2016年11月23日(水)
場所:奈良文化財研究所[奈良県奈良市]
【2016年12月発行『paperC』no.013「CO-DIALOGUE」掲載】
文化的景観学がとらえる地域の可能性と揺らぎ
雨宮:僕は、歴史的背景や資料に重点を置くリサーチを主眼とした作品をあまりつくらないのですが、古墳を見学したり、盗掘の跡を分析したりすることが趣味で、いろんな場所を訪れています。惠谷さんの「文化的景観学」も興味深いのですが、どのような研究なんですか?
惠谷:実は「文化的景観学【1】【2】」というのは、この10年の間に体系立てられてきた若い学問なんですね。研究の対象は、景観の基盤となる自然と、その自然に寄り添う人の営み。例えば「棚田」の風景を思い出してみてください。傾斜地という地形を生かして稲作を行っています。ただ、自然だけではつくれない風景ですよね。脈々と続く、人の営みが景観に表れているというわかりやすい事例です。
雨宮:なるほど。都市部も対象になるのでしょうか?
惠谷:そうですね。例えば、大阪・鶴橋の駅前商店街も同じく、人の営みがその土地ならではの風景をつくっている事例だと思います。韓国の方々が何世代にもわたって大阪で暮らし、文化を育んできたバックグラウンドがまちに表れている。ここでポイントなのは、いずれも今、その瞬間も人の手が入り、変化の真っ只中にある不定形のものなんですね。人の営みは、時代によって変化していくものだという前提があります。
雨宮:「景観」と聞くと、なんとなく見た目の話かと思いがちですが、人がその地域でつくり上げてきた文化もその対象に入るのですね。
惠谷:私も奈良文化財研究所へ入所した当時は、目に見える景観だけを考えていましたね。そこから見た目だけではない「地域」をとらえる見方に気づき、風景の意味を語り伝えるための言葉を探し続けています。
雨宮:これまでの景観論とどう異なるのでしょうか?
惠谷:大きな特徴は、常に「時間」を内包していることですね。あとは目に見えている世界だけではなく、いろんな関係性のなかで地域が成り立っているということを大事に考えています。文化財の観点から言うと「守る=その状態のまま凍結させる」ことになるのですが、地域は、時代時代で変化していくので、地域と文化財の考え方は折り合わない。その打開策として新しい景観学が必要だと考え、はじめたのが文化的景観学。
雨宮:具体的に、新しい概念をつくらないといけなくなった行き止まりが、現場と制度上のレベルでも見えていたのですね。
惠谷:そうですね。文化財について取り組んでいると「何を守ればいいの?」とよく聞かれるんです。例えば、京都では町家やお寺だけを保護すれば、その風景の良さが維持されるかと言われれば、違いますよね。それを私たちは、人らしさ、場所らしさと同じく「地域らしさ【3】」と呼んでいます。でも、明快な答えになっていないようで、「わかりにくい」と言われることも少なくありません(笑)。
雨宮:少なくとも、もともと揺らぎがある「文化」みたいなものに対して、ある程度同じ量の揺らぎを未来に向けて見積もっておかないと、硬直してしまいますね。ただ、これまで続いてきたような、普遍的でわかりやすい、地域に根づく伝統、環境に合わせた暮らしの知恵などもすでにあると思います。
惠谷:そうなんです。地域は、“揺らぐ”んですよね。大切なのは、揺らぎの幅を決めておくことだと思います。近代の、特に戦後の技術は、その揺らぎから大幅に離れてしまいがちで。人が住むことができなかった場所を造成し、家を建て、不幸な災害にあってしまうということもひとつの例として考えられるでしょう。新しいことを取り込むにも、揺らぎから離れずあり続けることが重要です。
雨宮:例えば、僕らから見たら200年前と220年前では比較的緩やかな揺らぎとの付き合いで良かったように思えるけれど、産業革命以降、根底にあったものを覆すような倍増する技術を手に入れたことで、急激に付き合わないといけないギャップが増えています。それとどう向き合うかがすごく大事ですよね。極端に言えば、新しいものばかりに偏っていたら、どうやってその流れを止めるか。それとも近代のジャンプ力に合わせてある程度破滅的なプログラムを内包させるのが正解なのか。
惠谷:新しいものをどう考えるかって実はすごく難しくて、文化財は基本的に現状維持なんです。ただそれだけでは衰退していく道しか残っていない。例えば京都は、循環・変化して新しい要素を取り込みながら、常に第一線の都市であり続けるというのが大切なことで、町家や寺社仏閣をそのまま維持していくだけでは、だめなんですよね。
雨宮:歌舞伎などの伝統芸能も一緒ですよね。そもそもは新しい態度が大事だったはずで、今も実際に見ると新しくあり「続ける」ことが形式のなかに残っている。そういう芸術や芸能などの表現に比べて、地域は文化的な価値のエッジを定めにくい分、方向性を決めるのが難しい。
惠谷:地域には、たくさんの新しい選択肢があって、どれを選ぶかはやはりその時代に生きている人たちに委ねられているように思います。そのときに「地域らしさ」や揺らぎの幅を気にすることができるかどうかで大きく違ってくるんじゃないでしょうか。
あらゆる場所・時間の重力を感じ取ること
惠谷:文化的景観学を研究しはじめたことで、新しくなにか取り組んだり、地縁のない場所へ移り住んだりすることが、ゼロからのスタートではないのだとわかってきました。自分が親や周囲の人の影響を受けて成り立っているように、地域もさまざまな要因によって成り立っている。先日、徳島県神山町で活動されているプランニング・ディレクターの西村佳哲さんと、それはまるで「重力みたいなもの」という話をしてすごく腑に落ちました。地域に飛び込んでいく若者が、その土地でなにをしたらいいか考えるとき、ずっと行われてきたこと、大切に引き継がれてきたことの背景まで調べると、その土地の「重力」が見えるはずなんです。
雨宮:具体的には、どういったことがありますか?
惠谷:例えば、四万十川流域ではソーラーパネルを川辺につくる計画が動いています。あの地域は台風の通り道でそんなことをしたら盛土ごと流されてしまう可能性が高い。でも関東の企業が企画しているから、重力=川の形と雨の量についての感覚が身体化できていないんです。
雨宮:そこでいうと重力とは基本的に、自然からの要件が多い?
惠谷:そうですね。力にもいろんなレベルがあって、自然からくるものが強い重力。別のものだと、親とか親戚といった血筋も重力のひとつだと思います。親戚付き合いはネガティヴにとらえると面倒くさい人間関係なんですけど、それもそもそも重力みたいなもの。自然と同じように付き合っていくものと思えば、無理なく付き合える気がします。
雨宮:僕はその重力を楽しみたいので、嫁の親父とサシ飲みしたりしていますよ(笑)。
惠谷:雨宮さんも大分県の国東半島で行われた芸術祭に参加されて、地域のいろんなものを見てこられたんじゃないかと思います。
雨宮:そうですね。「国東半島芸術祭【4】」に参加して、「1300年持ち歩かれた、なんでもない石【5】」プロジェクト(以下、1300石プロジェクト)を立ち上げました。このプロジェクトは、そこらへんにある小さな石6個を6人が1つずつ持って、5年1代として260代かけて1300年間持ち運びます。国東半島を起点に3314年まで続くプロジェクトです。
惠谷:すごく長い時間を見通したプロジェクトなんですね。2010年に奈良で平城京遷都1300年をうたっていましたが、同じ年月をつないでいくことの途方もなさを想像します。
雨宮:1300石プロジェクトの肝になるのは、実はかかる時間の大きさ、積み重ねではなくて、次に引き継ぐ人、過去に持ち歩いた人、同時期に違う場所で同じ経験をしている人、それぞれを想像し、今たしかに誰かが石を持ち歩いているんだという、「他者への想像力」なんです。
惠谷:1300石プロジェクトのWebサイトも拝見したのですが、書かれていた3314年の描写が特に魅力的でした。この風景はどこから、どのように生まれてきたのでしょうか?
雨宮:3314年10月15日11時に石を持ち歩く人=イシモチたちが国東半島へ再度集まったときの風景ですね。文章で描写をする際、どうしても登場するものをすべて注意深く考えないといけなかった。地域の図書館で郷土資料をリサーチしたり、半島のなかをぐるぐるとくまなくめぐることも、テキストの精度を上げる養分として必要でした。それこそ、地域に宿る重力を解析し、長く見通す作業。「これはいつから存在し、いつまで存在するか」を考えると、1300年後にまで残っている保証はないわけです。間違いなく1300年後にもあると思われる「地面」や「空」しかないような、基礎的なものだけを材料にすると、どんどん僕の愛する風景がなくなってしまい……。結局、一度白紙に戻して、自分が未来に「あってほしい」ものを足していったんです。田舎、コーヒー、イチジクや金木犀、小動物の気配。だからこれは、僕が望む未来の風景画なんです。
惠谷:未来に何を残すのか、残っているのか想像するプロセスは、文化的景観学の見方で地域を調査することと似ているのかもしれません。住んでいる方々の想いが未来へとつながるのか、この風景がきちんと受け継がれていくのか、想像しながら現在を見ていく。
雨宮:そうかもしれないですね。願望の風景画を描くには現在を規定しなくてはいけない。現在の重力を自分で勝手に規定し、クリエイトできるのは、もしかしたらアーティストの特権かもしれません。古いことを考えるのは未来のためだし、未来を設定するのは古いことを考えるためだと思います。1300石プロジェクトは重力や揺らぎ、新しさとどう付き合うかなど、すべて包摂しています。一応新しい切り口を提示しているけれど、ぐるっとまわって僕はとても普遍的なことをしている。
惠谷:歴史を研究することもまた、過去を振り返りながら未来につなぎ、未来を考えることなんですよね。私が所属する奈良文化財研究所【6】は歴史の研究が中心なので、もっとそれを意識することで研究の意義が深まるように思います。
雨宮:僕は、人間には未来を考える自由ではなく、責任があると考えています。「今から現在の話をしますよ」と言ったときの「い」から「よ」までだと「よ」が未来ですよね。だから僕らは時間という概念が発明されて以降、常に未来に生きている。そのくせ未来はわからないという呪いがかけられていて、そこには常にチャレンジしなきゃいけない責務があると思うんです。責務を果たしてこそマンネリ=普遍性に到達できる。
惠谷:生態学の研究者の方々と、研究や計画は「半熟」のほうがいいという話をしていたんです。未来に更新可能な部分を残したいという意味でしたが、多分その先にマンネリがあるように思いました。アーティストの方からマンネリという言葉を聞くのは違和感ありますね(笑)。
雨宮:普遍性を獲得しようとすると、ちょっとアバンギャルドな風体になるだけで、本当に新しいことを目指したら普遍的なものになると思います。学問も含め全部基本的にはそのバランスが違うだけで、等しく同じ未来を考える呪いのなかにいるのだから、良い呪いですけどね。
惠谷:なかなかそこに、気づいている人って少ないですよね。
雨宮:40歳までアーティストやっている人なら気づいています。「俺なにしているんだろう」ってみんな思わざるをえないから(笑)。研究もアートも、思考なんだけど技術じゃないですか。ただ、技術って一般的に言って思考ではなく物質に宿りやすい。「文化的景観学」という言葉が必要になったのは、思考を景観という物質に宿す技術が必要になったからだと思います。未来の呪いとうまく付き合っていく技術は、もちろんアーティストも学者もみんな考えています。もっと技術が体系化されて伝承できるといいですよね。
身体化してきた技術を手渡していくために
惠谷:昔は地域のルール、規範としてさまざまな重力が伝えられてきたのですが、今は伝えられる人が少なくなり、途絶えてしまうこともしばしば。一方で、その重力を知らない新しい住民が入ったり、開発が起こったりしています。だからこそ、誰もが共有できる技術にしたいんです。
雨宮:惠谷さんたちが地域に足を運ぶことは、暮らしている当事者が見えていないことを周りから教える状態なんじゃないですか。当たり前だけど外から見た方が見えやすい。ただ、それと「伝えていくこと」は別のことですよね。それは接続していった方がいいんですか?
惠谷:伝えるのと見出すのは確かに違うんですけど、いま私たちが見出しているのは伝え方も含めて見出している。例えば、都市部であっても高齢化で後継者がいないとなると、伝わっていかないんです。その場所でずっと暮らして地域を見てきた人は無意識に地域らしさや揺らぎの幅を伝えているから、受け継ぐ人がいないと途絶えてしまう。それをまずは言語化して、次の新しい人へ渡す必要があるんです。一昔前までは、私たち「見出し屋さん」の役割は必要なかったはずなのですが。
雨宮:昔は「見出さなくなり屋さん」がいなかったからですよね。しかも今、「見出しにくくなり屋さん」がすごく多い。見出し屋さんが同じ数いたって、端的にいうとインターネットがあれば、おじいさんや自然の言うことを聞かなくてもいいわけだから。もっと強くて新しい概念が出ないと、見出しにくくする屋さんが勝ってしまう。スケーリング含め、地域をカウンセリングできる技術を持った人が必要なんですね。
惠谷:たしかに私たちの役割は町医者やホームドクターみたいなもので、ただ、継続してできるかと言われると難しい。
雨宮:実は、僕も技術との付き合い方や継承について興味があって。天皇の存在と技術について研究してみたいんですよね。欧州の王族とは違って、日本という国の形態をかたどる祭司としての技術を2600年ほど担ってきた人たち。具体的に実践して、その精神と技術の付き合い方を保存している人たちは、彼らなんだろうと思っています。
惠谷:なるほど。そのとらえ方はおもしろいですね。
雨宮:なにかを引き継いだり拡散していったりすることは、人間がこれまでずっとやってきたことだったりしますよね。だから、本当に普遍的なことを、もう1回言い直しているだけかもしれない。
惠谷:引き継いでいくことって、過去に固着させているんじゃないかと時々思ってしまうんです。でも気持ち的には一生懸命「そうじゃないよ。でもちょっと気にしようね」と言いながら活動しているのが現状。植物はその環境に適応し遷移していきますが、地域も変化ではなく植物のように遷移していく。そうなると答えは1つではなく、どのスケールで、どの角度から見るか、未来の設定の仕方しだいです。どんなに悪い状況の地域であろうと、遷移の途中だと思えば、愛せるなって。
雨宮:自分自身も揺らぎの存在だと思うので、その都度変わっていくんですよ。自分も、他者も、社会も、未来も揺らぎの存在。僕は、その揺らぎ同士の解を自分なりの確かな技術を使い、その時々のとりあえずの答えを出そうとしているんだろうなと思います。
【1】文化的景観
2004年の文化財保護法の改正により、文化財の類型に「文化的景観」が加わった。「文化的景観」とは、人間の営みに根ざして形成される、人間の共同体と環境が一体化した領域のまとまりをさす。重要文化的景観に選定された地域は50件を超えるが、まだまだ若い概念であり、それを支える考え方の基盤(「学」)が求められている。http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/keikan/
【2】文化的景観学
地理学や生態学、建築学、景観工学、造園学など、さまざまな分野を横断して文化的景観の論じる視点を体系化し、「文化的景観学」として理解することを目的として、奈良文化財研究所文化遺産部景観研究室が「文化的景観学検討会」を立ち上げた。これまでの研究・実践の内容を専門分野外の人にも幅広く伝えるメディア「文化的景観スタディーズ」シリーズを2015年度より刊行。https://www.nabunken.go.jp/
【3】地域らしさ
「然るべきものが、然るべきあり方で、然るべきところにある状態(the right thing in the right place)」とも言い換えられる。人々が暮らし続けてきた地域には、風土との付き合いのなかで生まれた営みの作法があり、時にはそれが日々の暮らしのあり方として続けられ、またある時にはどこに住むかという場所の選択や、建物のかたちとなって表れる。
【4】国東半島芸術祭
2012年から国東半島で開催されていた「国東半島アートプロジェクト」の集大成として、2014年に大分県国東半島各所で開催された芸術祭。総合ディレクターは山出淳也。同半島の海岸線や山間部、集落などに作品を設置する「サイトスペシフィックプロジェクト」をはじめ、「パフォーマンスプロジェクト」、「レジデンスプロジェクト」を中心に展開した。
【5】「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」プロジェクト
雨宮氏が2013年に、「国東半島アートプロジェクト」へ参加したことをきっかけにはじまったプロジェクト。小さな石6個を「イシモチ」と呼ばれる6人が1つずつ持ち、5年ごとに引き継ぎながら1300年間にわたって持ち運ぶ。あえて、落とせば見分けもつかなくなるなんでもない石を選んだことで、次に引き継ぐ人や過去に持ち歩いた人、現時点で石を持っている人への水平方向にはたらく「他者への想像力」に焦点をあてた。また、石の劣化を防ぎ、かつイシモチ自身の想像力を助長させるため、石は金属製のカバーに入れられ、その日が来るまで開けないようにしている。1300年後まで「開けようと思えば開けられて、開けないようにすれば問題なく存続できる」技術を、1300年前である奈良時代の研究者などに指南を受けて制作した。雨宮氏は「セワヤク」という名前で、作品が完成する3314年まで代々、石とイシモチを見守る役目を担っている。http://ishimochi.com/
【6】奈良文化財研究所
1952年、奈良に残る古建築や古美術品を総合的に研究する目的で設置された国立の研究機関。1960年代からは平城地区と飛鳥・藤原地区で宮跡等の発掘調査と研究を進めているほか、国内外の貴重な遺跡や遺物を守り、活用していくために、文化財の保存・修復・整備に関する研究にも力を入れている。2006年度からは、新たな文化財類型である文化的景観も調査・研究領域として取り扱っている。https://www.nabunken.go.jp/
惠谷浩子[文化的景観学研究者]
2007年より奈良文化財研究所の研究員として文化的景観の研究に携わる。造園学を専門としつつ、文化的景観の基礎的かつ体系的な研究に従事する。また、四万十川流域や宇治、京都岡崎をはじめとする全国各地の文化的景観の調査査研究に携わり、価値や保全の方策を探求している。
雨宮庸介[アーティスト]
1975年生まれ。1999年より作品発表をはじめ、彫刻、ドローイング、ビデオインスタレーション、パフォーマンスなどを媒体に国内外で作品を制作・発表。2014年「国東半島芸術祭」に参加し「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」プロジェクトを開始。2016年、梅田哲也らとの作品《7つの船》発表。
参考文献:
・『文化的景観スタディーズ01 地域のみかた-文化的景観学のすすめ-』(独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所/2016年)
・『美術手帖2014年9月号増刊 国東半島芸術祭公式ガイドブック』(美術出版社/2014年)
・『四万十川流域文化的景観研究』(独立行政法人国立文化機構 奈良文化財研究所/2011年)