2024年4月、paperC編集部であたためていたシリーズ企画の初回記事が公開された。「PLAYBACK|フェスティバルゲート」と題し、2000年代大阪のあるシーンにおける重要な活動を振り返る企画だ。本編集録では、この企画の裏側ともいえる編集動機から参考文献、取材後の展開まで、ぽつぽつと紹介していきたい。
2007年7月に閉業した、大阪・新今宮駅前の大型アミューズメントパーク+商業施設「フェスティバルゲート」。1997年にオープンしたものの集客はふるわず、大阪市が有効活用のためテナント料を負担し、2002年より「新世界アーツパーク事業」をスタート。大阪市内を拠点とする4つのアートNPO「Bridge」「cocoroom」「remo」「DANCE BOX」とともに事業運営を行っていた。
新世界という場所性もありながら、ある種のおおらかさと手厳しさが入り混じる場が育む、実験性や人との関係性、個人の活動のあり方が、現在に至るまで大阪・関西のさまざまなつくり手に(細かく、弱くも)影響しているのではないか。そんな仮説をもとに、そこにどんな活動があり、どんな人たちが集まっていたのかをつかむべく、まずは「Bridge」に出入りしていた音楽家やアーティスト、エンジニア、観客、写真家などの言葉や資料から当時を振り返る本シリーズ企画。
——引用:paperC「PLAYBACK|フェスティバルゲート『Bridge』第1回:井上嘉和さんの記録写真をみんなで見る」
「paperC」が機関誌からWebメディアに転換して5年、日々大阪で開催されるイベントや展覧会の情報、アーティストの活動を拾い上げていくなかで、特に現在30代~40代以降のつくり手にとって、「新世界アーツパーク事業」が大きなポイントだったのではないか、そんな仮説がじんわり見えてきた。
初回、写真家の井上嘉和に声をかけたのは、新世界Bridgeで2007年に開催された「Festival Beyond Innocense」(以下、FBI)の記録写真をSNSで見かけたのがきっかけだ。いまでこそ、関西のライブやパフォーマンス公演の撮影などで大活躍する写真家のひとりだが、Bridgeの記録を仕事でもなくひとり撮り続け、それを糧に現在の写真家としての姿勢を確立していったことは、あまり知られていない。
そもそも「Bridge」はどんな場所だったのか。外から見れば、ライブハウスやホール、カフェのような機能を持っていたのだと感じられるが、そう断定してしまうと味気ない。母体であるアートNPO「ビヨンド・イノセンス」を主宰するアーティスト・内橋和久は、2つのメディアのインタビュー記事で以下のように語っている。
もちろん意見交換もするし、若い連中がいっぱいいるから、いまどんな人が面白いのん?っていう交流の場でもあったし、そういう場にもしたいと思っていたから、「ブリッヂ」は開放していたんです。だから、みんな別に何もないけど集まって飲みにくるとか、最近どうなん?とか、こんなんが面白いねん?みたいな、そういう意見交換とか情報交換ができるような場所であって、もちろん若い子たちと年配の人たちが混じったりできるような場でもあったんです。そういう意味で面白い空間ができていたなとは思う。で、あそこから出てきた人たちいっぱいいるしね。
今は、普段からいろんな企画やってるんですけど・・・。毎週水曜日はカフェだけの企画とか、ちっちゃいスペースだけで、この大きいスペースを使わないで毎週、いろんな企画をやってみたりとか。そういう、みんないろいろアイディアを出してくれて、個人個人が出したアイディアで面白そうなものをどんどんやっていこうねっていう話なんです。みんなが自主的にいろんな企画を出してくれるようになると、すごくやっぱり面白くなってくるし、それでお互いに、やってるもん同士がお互いに「ちょっとこの企画くっつけて何かやろうか」とかね。そういうふうになってくるから。それで、F.B.I.は、ここの看板のイベントではありますけど、そうじゃないこともどんどん起こっているし、この広いスペースを利用してね、もっとできることはあると思う。
前者は2022年、後者はBridge運営最中の2004年のもの。それぞれの記事全文を読み進めていくと、2002年にスタートしたBridgeではあるが、まったくのゼロからはじまったわけではなく、内橋が1996年より神戸ビッグアップルにてスタートしたワークショップ「ニュー・ミュージック・アクション」(以下、NMA)そしてその展開としての「FBI」が地盤となっているのがわかる。
NMAは、素人からプロまで関係なく募集し、即興的な音楽手法や実験的な音楽に興味があり、演奏しなくても聴きたいという人たちも受け入れ、同時に発掘もしていたという。その根っこにあるのは、現状を変えたいというある種の苛立ちだったとlog osakaの同記事内で内橋は語っている。ワークショップ参加者が多数出演し、毎年開催されていたFBIは(オールナイト開催もあったのだとか)、1996〜2000年に神戸ジーベックホール、2002〜2007年はBridgeが会場となった。
人の前で演奏してお客さんからリアクションもらって、そこで多分、自分で分かることとか発見することとかがある。演奏しててね。やっぱり、即興やってる人ってみんなそうだと思うんですけど、やっぱりそのかけひきとか、現場で起こったこととか発見したことって、やっぱり財産になるから。そういう経験っていうのは、みんなしないとダメだと思う。そういう意味で、お客さんの前で演奏するっていう機会をみんなに持ってもらいたいと思ったし、それもちゃんと、そこそこの数のお客さんにね、そういうところで演奏すると、演奏が変わるんですよ。ほんとに。だから、普段セッションしたりなんかしてるのと、例えば、同じ組み合わせをF.B.I.もってきて、「これやってね、面白かったからやってね」っていっても、やっぱりね、普段やってるよりも面白いことが起こってる。やっぱりそれは、それだけの人を巻き込んで、お客さんからもすごく何かをもらって、そこで自分もいろんなことを吸収してっていう、そういう何か、くり返しが重要なんだと思う。
途方もなく「くり返されていた時間」が、当時のBridgeという空間、ビヨンド・イノセンスというある種のコレクティブをかたちづくっている。ワークショップやフェスティバルとしての一時的な場を経て、参加者が自分自身でやりたいと思うこと、実験をできる場としてある「Bridge」。そのようにとらえていったとき、関わった人たちそれぞれの、個人的な視点で語る「Bridge」、あるいは「フェスティバルゲート」は、文化やシーンが育っていくための土壌を考えるにあたって、重要な証言となるだろう。
今後、コンテンツシリーズを2回3回と続けていくなかで、編集の立場から見えてきたものはこちらの編集録で共有したい。ひとまず、「PLAYBACK|フェスティバルゲート」の初回記事を読んで興味をもった方は、以下の参考記事を読破していってほしい。