前記事で福尾匠は、「ミームからスパムへの生成変化」による越境の可能性を語った。ドキュメンタリー映画におけるカメラとは、まさに被写体と作者の境界を越えていくスパムだと言えはしないだろうか。
本稿では、文筆家・五所純子が本特集の共同編集者である小田香の作品『ノイズが言うには』を題材に、作品に潜む作為と無作為、ドキュメンタリーとフィクションの関係性をあぶり出す。そして、なぜ私たちは他者にカメラを向け続けるのかという問いに、ひとつの回答を見出していく。
「なんも言葉思いつかんけど、負けたらあかんで」
「でもさ、なにに? なにに負けたらあかんのかな」
「いやいや……、ううん、その、偏見とか差別とかいろいろあるやん」
「……」
「うん、ごめん」
ふたりして言葉を失った合図のように、首をぐらりと垂れる。
対話劇だ。「なにも言葉が思いつかない」というメッセージは善意からくる断念と拘束であり、もっと別の言葉で思いやりたいのに、あいにく「勝ち負け」や「偏見」「差別」といった貧しい語彙を並べるテーブルくらいしかなく、社会ってつまらない。それよりも頭部の重たさだ。人間の頭の重量は5キロほどで、首が前に傾くほど頚椎にかかる負荷は増えて10キロにも20キロにもなるという。言葉は沈黙へと流れていったが、ふたりの頭がそろって重たく垂れることで尊厳のようなものが生じている。それを芸術はとらえる。対話で起こった効用を映し出す。これは小田香監督『ノイズが言うには』の一場面で、自分が同性愛者であることを家族にカミングアウトしようと思う、と主人公カッチが友人に話したところだ。
「言葉が思いつかない」ほどの体験は再演を待ちわびて、言葉が思いつかないほどの体験は再演の失敗をくりかえすことでしか伝えられない。
再演とは「ふたたび/あらたに」の契機である。
『ノイズが言うには』において、「ふたたび/あらたに」は「フィクション/ドキュメンタリー」だと、ひとまず名指して語ってみる。
主人公を作者が演じる。主人公の家族を作者の家族が演じる。自伝的要素が強く、私小説的な叙述で、家族を巻き込んだ自作自演の形式がとられる。当初は一家族を追ったドキュメンタリーの様相で進んでいくが、実は台本ありきで演技されていたフィクションであることが徐々に明らかにされ、別のアングルとテイクによって撮影された同じ場面が「ふたたび/あらたに」映し出される。
「ふたたび/あらたに」が起こるのは主にカミングアウトの場面であり、この作品以前にあっただろう現実のカミングアウトの体験が、主人公=作者にとって、いかに緊張を持って臨まれ、いかに亀裂を残し、いかに省察を要するものになったかが推察される。これらの体験は、作者個人にとって、作者を含む家族にとって、自ら再演することで密度を増し、現実の体験そのものよりも整合性の高い記憶となるのだろうか、あるいは再演されることで消耗し、より断片化した記憶となるのだろうか。これは、あらゆる歴史的証言、土地の口承文芸、実在の人物をモデルにした芸術作品などが、もれなく抱える問いである。そこで『ノイズが言うには』の場合は、問いを完結させないがごとく、「ふたたび/あらたに」を分離し、「あらたに」出来事を起こして、それに対する相手の反応を撮影するほうへと踏み出す。手紙を読んで母が泣きすする場面がそれだが、カメラは純然たる不作為の現象に居合わせるものではなく、作家の作為によって位置し機能することが明確にされてもいるだろう。〈手紙=作為=フィクション〉の仕掛けによって、〈涙=不作為=ドキュメンタリー〉が引き出された格好だ。
しかしながら、このように書くのは構図的すぎるのではないかとも感じている。というのは、『ノイズが言うには』は前述した「私小説的」という日本独特の考え方が逆作用していて、主人公=作者が家族に自己を語って理解を求めるという筋書きを家族とともに自作自演をしたからこそ、作家が家族を素材として私有化し、主人公=作者に対して理解を示しきれなかった家族を再演によって裁くという欲求が隠されたようにもみえる。言いかえれば、〈涙〉は予期された可能性のひとつだが、〈手紙〉とはなにか、である。人を泣かせるための罠か、二者を和解に導こうとする鍵か、他者を求めた声の囁きか。このドキュメンタリーとフィクションとを転位させる〈手紙〉がなにであるか、作家は自覚的でなければならない。本作は、作品内に語られ描かれるカミングアウトの追体験があると同時に、この作品自体が決して語られず描かれず「言葉が思いつかない」ほどの体験の跡である。〈手紙〉とはなにかという作家自身への問いは、とても厳しい葛藤となる。
作家は打ちのめされる。〈手紙〉は鍵であり囁きであるが、原理的に罠であることを免れないということに、打たれ、脅え、危ぶむ。そして、自分は罠など張っていないとうそぶくのではなく、どのような罠なら欺きでなく誘いとしてありうるかを追求しなくてはならない。生者であれ、死者であれ、自分の体験であれ、他人の体験であれ、「言葉が思いつかない」ほどのことを語り描くとは、「ふたたび/あらたに」という断絶の瞬間を生じさせ、現実を多重化し、現実を多言語化するということだ。なぜなら、「言葉が思いつかない」ほどの体験は、非現実的なイメージや言葉でしか表れない。そのために作家は、罠を誘い、鍵を探し、囁きを広げていく。
こういった思索が、『ノイズが言うには』から7年後、『あの優しさへ』で省察され自己言及されていて驚いた。おずおずとした口調で、水平に移動していく多重風景とともに、過去の作品について描き語られていた。かつて、泣きすする母はカメラを拒絶し、カメラはそんな母の顔を横から後方から撮っていた。作家は、あれは罠か鍵か囁きだったかと述懐しながら、自らが「搾取」の手をもつことを震えて認め、それから「カメラは正直だ」という宣言をする。カメラがいいのは、ふたりの頭部の重たさを、コミュニケーションの試行錯誤を撮ることがあっても、自らの頭部の重たさにうなだれることがないところだ。いよいよ作家は、生者であれ、死者であれ、自分の体験であれ、他人の体験であれ、顔を真正面から撮ることができる。
「なんも言葉思いつかんけど」と言っても言葉を費やさずにはいられなかった友人に、作家の姿をみてしまう。あの友人は、目の前にいる人の語りをなんとなく身に沁みこませていた。相手が貸していたことすら忘れていた本をふいに持って来たりした。理由もなく迎えに来ていて、因果を含めることなく送っていった。ふたりの間には空になったビールジョッキが置かれていて、アルコール成分は数時間も経てば体内で分解されるけれど、顔や語りの分解速度はもっともっと遅い。何日も、何年も、何十年も、何百年も、人間が生まれて死ぬよりずっと長い時間がかかって、だから人間は作品化をやめられないのだろう。
五所純子 / Junko Gosho
1979年生まれ。大分県宇佐市出身。単著に『薬を食う女たち』(河出書房新社、2021年)。共著に『虐殺ソングブックremix』(河出書房新社、2019年)、『1990年代論』(河出書房新社、2017年)、『心が疲れたときに観る映画』(立東舎、2017年)など、映画・文芸を中心に多数執筆。