ゆうめいでは、過去に経験した出来事や事実をもとに、現在の身体や声を脚本に織りまぜ、物語を構築していく創作をします。その理由のひとつにあるのが、自身や題材のもととなる本人たちの現実への視点の変化を与えるためのアプローチです。これは正直、おこがましくもあるような、当の本人にとって、実は必要なかったと感じることもあるのではないかと度々考えてきました。その上で、両親の離婚をモチーフとした『姿』(2019年初演、2021年再演)という舞台作品では、家族という仕組みに対する意識の変化を、本人と親子関係である作・演出の筆者が第一に望んだことで、創作がはじまりました。
変化を望んだ理由として、相互に大きな影響を与える家族の仕組みによって苦しいと感じた経験があります。国家公務員として激務だった母が、深夜に酔っ払って帰ってきて父や自分を叩き起こし、怒鳴り散らしては勝手に爆睡し、次の日スッキリした気分で「おはよう!」と何事もなかったかのように出社していく。父は「しょうがないから」と朝なのに疲れた顔で申し訳なさそうにする。当時の自分にとって母は嵐のような存在かつ最上級と言えるような恐怖だったので、次第に母から距離を置くようになりました。
しかし現在は、なにがどうして「しょうがないから」なのか、母が家に帰るまでになにがあったのか、どういう仕事だったのか、母として見ていたが家の外ではどう見えるのか、子から見た母、父から見た妻、祖父母から見た娘、仕事仲間から見た仕事仲間、本人から見た本人と、多岐にわたる視点を知っていくことが、自分の受けた恐怖と理不尽の理由を分析できるかもしれないという考えに至るようになりました。話が少し逸れるかもしれませんが、それにはインターネットの影響も大きいかと思います。
家庭にインターネットが普及され、2000年代から特に発展・流行した「2ちゃんねる」をはじめとする匿名掲示板。当時小学生だった自分は、ネットユーザーがメタバース的に「名無しさん」を名乗りながら、さまざまな視点や意見を話していく様子を見て、「良くも悪くも多様な視点」という観点に影響を受けました。たとえば「既婚女性板」という掲示板には、既婚女性以外が書き込みをしてはいけないというルールがありますが、書き込むまでの手順は厳密ではなく、かつ匿名であるということもあり、既婚女性を偽って書き込むことも当然可能です。そのなかで、目の前に書かれているものは嘘でフィクションなのか、それとも実話でノンフィクションなのかと疑問を抱きます。ただ、内容の正誤はあれど、書き込んだという事実は残されていました。「名無しさん」である共働きの女性が、深夜3時に耐えられない仕事や生まれたばかりの子どもへのストレス、夫への不満を吐き出すように書き込んでいる。それは嘘で創作かもしれないけれど、書き込みを誰かがしたということは事実であり、その「名無しさん」本人の様子をどこか自分なりに想像することはできる。「名無しさん」の人となりをイメージしつつ、匿名だからこそ書きたかっただろう言葉を読み、なぜ書いたか、「名無しさん」の生きている現実を想像し続ける。それを繰り返すうちに、真偽も含めて他人を想像していくためには、文字や情報だけでなく、声を交わし、お互いを認識した上で、目の前で人と話してみなければわからないこともあると感じるようになりました。母にもそんな背景があったのかもしれない。逆に、文字にできないような現実でしか言えない声もあるかもしれない。人の話を読み聞いていくなかで、ネットと現実の両方を行き来しながら真実を探っていくことに興味をもった瞬間でした。そういったネットでの体験などをもとに、実際の人々に取材する仕事や、ドラマやアニメといった、現実を比較し非現実への想像を広げるフィクション作品を描いていくなかでたどり着いたのが、本人が本人を演じるということでした。
舞台に本人が出演するという表現方法には、前述したように、現在において過去を語り直しながら演じることによって、その場で生まれるフィクションと今は「演じている」という新たな事実の境界が次第に溶けてゆく効果がある。そして、その瞬間の劇場でしか体験しえない「役割」が演者と観客双方にあると感じます。過去を語る現在の本人にとって、当時の制度や仕組みによってもたらされた出来事も語り直すわけですから、本人にも過去と現在、両方の視点が何度も発生しています。父は『姿』にて全16ステージ、16回分の離婚届を記入しました。書き上げる数を重ねるごとに「そうかあのとき、こうしていれば……」という感情とともに、「……これ、観てる人にもっと上手く伝えた方がいいよなぁ」という、今俳優として舞台に立っている表現者としての感情がより芽生えていったと言っていました。また、そのさまざまな感情が芽生えている本人を見つめる観客にとっても、一方的な物語ではなく個々の立場の考え方や体験を照らし合わせ、日常での関係において役割を演じている自身を想起させるのではないかとも思いました。
観客は今まさにその場で演じている本人を目撃する当事者になりえることもあり、本作の観劇後には、さまざまな視点からの意見を幅広い年代の方々からいただきました。ある方々からは「実話と作品を切り離しており、昭和から平成における夫婦間の時代背景をモチーフとした優れた作品として観れた」「実話と公表する必要も、実父が出演しているということも言う必要はないのではないか。それよりもフィクションとして提示することがよりリアルを想像できるのではないか」と、またある方々からは「実の父が出演していることに、物語として観れなかった」「母の背景は理解できたが、作品にしたと言えど、過去の暴力はどうしても許されないと思う」「自分の家の家庭環境に似ているとともに、家族でこんなことができて羨ましい」「自分だったら本人を演じたくない」と。これらの言葉には、作品の内容だけではなく、自身や家族、さらには創作や表現を行うことに対しての視点も含まれており、父が「しょうがないから」と言った言葉の裏側や背景に存在していたものを、より深く探る手がかりにもなる気がしています。
現実とフィクションを同時に含んだ視点が存在できるという状態を保ちつつ、それが決められた事実を事実としてだけではない、個々の記憶や想像に基づく感触の体験であること。そして、つくるものとつくるに至った環境を見据えた上でイメージを拡大していくこと。このふたつが、自分たちが舞台にて探し続ける表現でもあります。
2021年の5月31日(月)に再演を終え、実際にその後の自分たちの関係はどう変わったのかというと、大きくは、創作を通して仕事の関係者同士の会話をするようになりました。作品化によって家族が共同制作者になったという感覚があります。日常会話をしていたと思ったら作品の話になったりして、ずっと行き来する。現実と地続きの舞台をつくることで、それを物語として楽しむ面と、作品を通して今までの関係を考えるふたつの面が生まれました。家族としては遠くなったかもしれないけど、人として近くなったみたいな感覚があります。
ただ、きっとこれは自分の主観もあるので、最後に、公演を終えた父へのインタビューを掲載します。インタビューしたのは2021年の9月7日(火)で、ちなみに父の芸名は「五島ケンノ介」さんです。
──公演を終えて3カ月経ちましたが、振り返っていかがでしょうか?
五島:まぁ、自分の役を演じるんじゃなくて、この脚本に書かれている父役を演じるというつもりでやりましたね。そうしないといろんな部分で舞台に立って動けなくなるかもしれないと思っていて。
──動けなくなるというのはどんな感じ?
五島:真実の部分とそうじゃない部分があったときに、人間は気持ち良くその間を歩いていくことは難しいような気がしていて。これは作品でもあるから、父役を演じるということを重視した感じかな。ある感情を俳優として出さなければならないけど、実在する出来事について感情はもう出せないと思っていても、出すことが表現する上で必要だと思ったなら、出さなければと思ったね。あるシーンで、本人としてはこの場から消え失せたいんだけど、役としてはその場に居なくちゃならないと思うし、そういうときに、脚本に書かれた父役を演じるということを客観的に考えたことによって、その場に居られたりとかできたなって気がするね。
──ありがとうございますと同時に、少し、申し訳ございません。それは俳優としての立場を重視してでしょうか?
五島:ですね。「ああ、このシーンのときは、酒飲んで酔っ払ってどっか行っちゃいたいなーと思ってて、実際どっか行っちゃおうとしてたなー」とか思い返して。その場所に自分がいない場所を選びたい瞬間ってあるから。でも脚本読んでて、これはやはり、居続けることが父役だから居続けたかな。
──俳優として「これはできない」ということをお父さん側・五島さん側から出したいとなったことはあったということでしょうか。
五島:それは本を読んだときに、本人としては悩んだけど、俳優としてはできると思ったかな。
──俳優としての目線に五島さん自身が重きを置いていたのは、自分も演出しながらとても信頼していました。五島さんは自分でも小説を執筆するし、大学の頃に私小説に関しての卒論を出して教授からものすごい評価をもらったと聞かされて育ったので。父親の目線としてはどうでしたか?
五島:今回は、妻との話が中心だから、特に意識はしなかったな。一緒にソファーに座って、テレビを見ているときに、ああ、息子が横に居るって感じてましたね。息子役の中村君(俳優:中村亮太)が、自分に向ける表情や言葉を受け止めて、返す。それが今回の芝居における父親からの目線ですね。
──ナレーターとして出演してくれた実母こと「小谷浜ルナ」さんには、事前に脚本を読んでもらったときには「ここは違う!」としっかり検閲をいただき改稿していきました。小谷浜さんからは物語の完成度についてと、個人としての視点両方を言葉としていただき、反映させて本番に臨みました。本人たちとともになにかをつくるということについて、どう思いますか?
五島:これは、つくるのは楽しいよね、非常にね。だからやっているんであって。はっきり言って、毎回毎回父親としてやりたくない役ばかりくるので、それは辛いんですが。でも自分の子どもが表現としてやりたいっていうんだったらやりたいかなって。家族じゃなかったら、やらない。それはやっぱり、作品のことも含めて家族だからってことも考えたかな。そんな気がします。
──家族ということと、そしてそれはもともとお父さん自身がつくることや表現することに興味があるということも関係してるのですか?
五島:それはあるね。クリエイションに参加できたら嬉しいし、演劇はその場その場でつくっていくと思っているから、そういったものに関われるのが嬉しかった。それを偉そうにする父側じゃなくて、子側から描く家族というのも面白いと思ったな。なかなか経験できないしね。こういうつくることに興味をもったのは大学の友だちからの影響も大きかった。文学が好きな人と集まって同人誌をつくるとかっていうことを大学時代にやっていて、それをまったく知らない人とやるようになって、知らない人とつながっていって、また同人誌つくったりとか。そういう文章や表現でつながっていく面白さを経験したのが大きいかも。つくる物語は嘘なんだけど、嘘でも表現は自分を出すことだから。表現していく場所を見つけていきたいなと思ってたら、今回はたまたま演劇だったけど、小説や写真も、もちろん俳優もやりたいなって思うね。そういえばそういうのを家族でもやりたかったなって、今は思ってる。
──『姿』が終わった後に考えたこと、意識が変わったことはありましたか?
五島:緊急事態宣言のなかで舞台ができたことは嬉しかったけども、同時に、今までは観る側と演じる側がそこまで規制されていなかったのに、規制が強くなったなって。でも密度が上がる気はした。自分の健康管理は徹底的にやったし、舞台から捌けた後はもう一度登場するまでに何度もうがいとアルコール消毒をしていた。さっきまでは自身が揺れ動く父役を演じてたのに、さっさと消毒しなきゃって。お客さんも、劇場にいる自分たちも、人によってはどこか恐怖に怯えながらも表現するっていうことが前提にある気がして。その状況で過去を演じるのは、今思い返せば何重にも不思議な感覚だった。
──五島さんの対策の徹底さに自分も影響されたし、俳優としてもさまざまな知らない姿を魅せていただきました。お父さんにとって、フィクションとノンフィクションの違いとはなんでしょうか?
五島:自分にとって、その境界線はあまりないかもね。ほぼ同じかなって。回転ドアっていうか、クルって変わっちゃう部分があって。事実だけども、その事実って本当にそうなのかなっていうか、目に見えた事実と裏側にある本心は別だから。本心は別っていうか、友人の結婚式に行って「おめでとー」って言うけど、心のなかではいろいろ思う部分がある、みたいな。そういった部分はフィクションとノンフィクションに通ずるものがあるなって自分は思ってて。その境界線を行き来しながら、自分の思ってる真実みたいなのを追求できるんじゃないかなと。出来事によってはフィクションとノンフィクションは違うとも思うけど、ノンフィクションとして描いた方が伝わるものも存在するかもなっていうのは考える。
──『姿』はどちらだと思いましたか?
五島:自分はフィクションと思ってやってる。だからこそやれたんだけど、お客さまにはノンフィクションとして伝わってしまうシーンがある。それは本人としては悩むところなんだけれど、俳優としてはちょっと面白く感じてしまう部分もあって、それが舞台で自分を冷静にさせてくれたな。
──最後に、小谷浜ルナさんこと、お母さんとの関係はどう変わりましたか?
五島:変わってないな、特になにも。相変わらず、彼女は、絶好調だし、言うことはビシバシ、言ってくるし。
──変わらないのはちょっと残念な気もしますが、でも、自分も母とは作品についての話が増えた気がします。僭越ながら、自分から見たふたりは変わったような気も少ししますが……どうも、ありがとうございました。
池田亮 / Ryo Ikeda
脚本家・演出家。1992年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻卒業。
舞台・美術・映像をつくる団体「ゆうめい」代表。舞台作品『姿』 がTV Bros.ステージ・オブ・ザ・イヤー2019、テアトロ2019年舞台ベストワンに選出、2021年芸劇eyesに選出され東京芸術劇場にて再演。2021年12月22日〜29日に下北沢スズナリにて新作『娘』を上演予定。