足元に広がる「都市」というフィールドは、わたしたち自身の営みを鮮明に映し出しているに違いない。今回の対談では、ヨーロッパの市民運動の研究を通じて、都市の変動や社会情勢を観察してきた北川眞也さんに話を伺い、個人の労働から、社会運動、大規模な社会システムまで、ミクロとマクロな視点を往復しながら、人と都市の関係性を見つめていく。今まさに、急速に変化を遂げている都市の姿を俯瞰することで、次の時代にどんな働きかけができるかを考えてみたい。
収録:2020年10月5日(月)ZOOMにて
取材:永江大・羽生千晶(MUESUM)
2 自分本位であることの強さと可能性
家成:ここまでお話ししてきた社会運動と同様に、北川さんが研究されてきたイタリアの「社会センター」にも、都市が生み出したインフラの亀裂を見出して、都市を使い直していくような側面はありますか?
北川:いろんなとらえ方ができると思いますね。今ある社会センターの直接の系譜は、1970年代の運動のなかに求められます。ミラノであれば、郊外に住む10代の若者たちが廃工場や未使用の建物をスクウォット(占拠)したことが発端。イタリア南部から北部に職を求めて移住した労働者の子どもたちですね。彼らは工場で働き、搾取される父親を見て育ちました。労働の状況を改善しようと必死で労働運動に参加する親世代の姿を見て、ああはなりたくない、でも自分たちにはもっとひどい未来が待っていると、将来への期待を失っていく。同じような境遇にいる若者たちが、郊外には遊ぶところはないけど、都市の中心部で遊ぶお金もない。外でたむろしているうちに、使われていない建物に入り、自分たちの居心地のいい場所にしてしまおうと占拠したのがはじまりと言われています。
家成:外は寒いから廃屋を使って何か面白いことをしようという、ノリみたいな連携が生まれていって、それが一箇所で終わらずにいろんな地域に飛び火し、「社会センター」として機能を携えるようになるというのはすごいですよね。
北川:そうですね。当時、彼らが残した文章には、いわゆる政治的・イデオロギー的な物言いが見られます。でも、よく読むと本質はもっと実存的な部分、もっと言えば、日々の生活の問題が根底にあったのではないかと思います。親との関係、友人との関係、性的な問題など。思想的な文脈で言うと、ミラノの場合は、1970年代以降のイタリアの運動・思想でもある「アウトノミア(自律性)」の端緒に位置づけることができます。郊外に起こりではじまったのが、だんだんと都市の内部へ広がっていきました。住むためのスクウォットはすでにあったと思いますが、自分たちのスペースを求めて建物を占拠して、そこでいろんな活動を行うというのは、こうした展開だったと思います。当時は、パンクスたちもライブ会場や練習場を求めたりしていましたね。このような活動ではスペースを「自主管理」するわけですが、いずれも自分たちの手で触れられる空間であることが大切だったのかもしれません。書店や映画作品の上映、食堂やバー、ライブ会場、政治集会、保育所などなど。資本主義社会とは趣を異にする下からの社会の活動が、こうしたスペースでは生まれていきました。まさに「社会」センターですね。人がゆっくりいっしょにいれる場所です。占拠してからの建物の修理や改造も自分たちでやっていると思います。
家成:社会センターって、今も機能しているんですか?
北川:行政や警察に排除されるので変動は激しいですが、今もたくさんありますよ。ミラノ、トリノ、ローマのみならず、ナポリなど南部の街にも。新しいものもありますが、1990年代にできたものが多いですかね。あと、70年代から続くものもわずかに残っています。排除されても再度の占拠を繰り返しながらです。社会センターと一言で言っても、それぞれに政治的立場が異なっていることもしばしばで、都市部であればいろんな党派の社会センターから選択して通えますが、郊外の場合は選択肢の幅がないことも。歴史的な経緯や自主管理を基本とするため、左翼政党と言えども、政党との距離は基本的に遠いですね。敵対的なことも多いです。これも社会センターそれぞれに歴史や独自性があるので一概には言えませんが。
家成:「空間や場所を自分本位に使っていく」という思想は重要な点ですよね。僕は建築をやっているので、空間を設計する側。設計時は「こう使ってもらえたら」と、一応は使い方を想定しながら図面を描きます。ただ、それが使う側にとって「こう使わなあかん」っていう、チュートリアルみたいなものになってしまう場合がある。最近は、公園でも禁止事項がたくさんあったり、使い方の幅が狭い設計だったりと、残念なものがあります。「自分本位に都市を使用していく権利があるんだ」と思える空間と、実際に行動できること。それがいいなと思うんですよね。
北川:それですよね。僕はイタリアの都市空間をすみっこからわずかに見てきた程度ですが、彼らは、よくそこまでできるなと思うくらい……こういう表現でいいのかわかりませんが、自分本位に都市を使っています(笑)
家成:そのメンタリティって、どこからくるんですかね?
北川:文化論的には、いろいろと面白いものもあると思います。ただ、今話している都市郊外の文脈に限って言うなら、1970年代にイタリア社会の一部の若者たちにあった、未来や人生への諦念や絶望する感覚が、大きな役割を果たしていたのではないでしょうか。当時の学生や若者の運動では「未来はもうよくならない」「未来なんてもうない」と謳われていました。「NO FUTURE」は、こうした若い労働者たちの鋭い時代感覚なんです。もうこんな社会はうんざりで、一生不安定労働を強いる世界には用はない、と。特筆すべきは、この拒否や逃亡が、80年代のヘロイン中毒や現在に至るような自殺といった生の否定ではなく、自分たちの生や存在をどこまでも肯定していたこと。「たむろする」って言葉がなんとなく適当な感じがするのですが、彼らの表現は、個人にとどまらず人との関係を求めるものでした。未来への諦念は、今もなお、ますます深まっていると言えますが、世の中を拒否したい気持ちが、一時的にでも自分たちが好き勝手できる場を生み出そうという原動力になっているのかもしれません。
家成:その「一時的にでも」というのは結構大切なことですよね。何事もやるからには継続せなあかんっていう強迫観念があるじゃないですか。僕は建築も、一回やってから考えて、うまくいかなかったらやり直すくらいの軽いノリでつくっていくのがいいと思っていて。体を使い、いろんなものを動員して。そういうテンポラリーな建築に、自分本位に使う空間の可能性もあると思うのですが、仮設的な建築は、記録でさえも残っていることが少ない。「仮設」であることをもっとポジティブにとらえて、記録をアーカイブし、紹介する活動もしていけたら面白いのになと思うんです。
北川:「一時的」をアウトノミアの文脈で換言するなら、既存の社会の流れ、進歩しようとする時間から離脱した「いま」であり、そのような社会空間から離脱した「ここ」をつくりだすことだと言えるでしょうか。この社会から離脱した外側を、ひとまずつくるということですね。最近は、この瞬間にやりたいと思うことをするのが、なかなか難しくなっていますよね。好きなことをできず、身体が硬直している感じというか……。社会や時間・空間の枠組みが設計されていて、スマホ以外のあらゆるものを剥奪されている気がします。よろこびとしての生を可能にするもっと多様なものがあったはずなのに。先述の郊外の若者にとっては、占拠した空間がそのような「武器」だったんですよ。今は空間も時間も奪われ、学生も奨学金という名の借金を抱えていたり、労働者も自分のみならず親の生活費まで稼がないといけなかったりで、ひどい環境でも真面目に労働せざるをえないような仕組みが用意されています。自分を“いい労働力”にしなくてはいけないというメンタリティが、生まれてこのかた植えつけられてしまう。
家成:一時的にでも、今、この瞬間にやりたいことをやるのが本来のよろこびであって、それが連続していくことを目指していきたいですよね。
北川:ええ。そのためにも物質的な空間が必要なのだと思います。そうですよね、人生、ほんまそうあるべきですよ。
家成:心底、そう思いますね。社会が“いい労働者”を育てる場になってしまっている。自分本位に行動するまでのハードルが多すぎるんですね。パフォーマンスでもなんでも勝手にやればいいのに、みんな大真面目に許可を取りに行くから、結局空間を使わせてもらえない。だまってやったらええのに(笑)
北川:僕がアウトノミアから一番学んだのはそれですよ。既存の枠組みの内側に「外側」をつくること。許可をとるのは、枠組みの内側に入っていく行為です。今はそれしか選択肢がないように感じさせる厳しい現実があるわけですが……。でも、目の前の空間は、社会の枠組みを介さずに自分の身体が触れているものであるはずです。触れ合っていると言うべきでしょうか。身体感覚で空間の微妙な変化を察知し、空間を変動させられるはずでなんです。許可や権利といった媒介を通して空間を見ていると、場所を自身から切り離された客体として見るようになっていく。それは、空間を支配・管理しようとする視点と変わりません。身体の感覚は痩せ細り、ますます与えられた使用法が「正しい」とされていくわけです。
家成:自分本位に空間を使うことはおろか、知らず知らずのうちに自分も枠組みの一部に取り込まれていくということですね。
北川:もちろん、身体が空間と一体化しているなんていう「純粋な」現実を言いたいわけではないですが。当然、権利を主張することは、とても重要なことです。ただ、スクウォットが典型ですが、空間は権利を得てから「使う」ものではなく、むしろ空間を「使う」ことで権利が生まれてくるのだと思います。もっと言うなら、権利の枠組みは、既存の社会の「外側」に逃れようとする空間を、「内側」へと引き戻すための政治的妥協の産物とすら言えるかもしれません。陳腐な物言いかもしれませんが、このような空間をともにし、身体と身体、人と人とが触れ合うなかでわかっていくこと、ゆっくりと読み解き合い、築き上げていくものが重要であって、僕はそれらがかつてのアウトノミアの土台になっていると勝手に思っています。ただ、イタリアのアウトノミアもさまざまで、党派性が強い部分もけっこうありますけどね。
家成:以前、イタリアの精神病院廃絶運動の研究をされている広島大学の松嶋健先生と、「こわれものの哲学」についてお話する機会がありました。哲学者のジョルジョ・アガンベンの『裸性』という本で語られていることですが、ざっくり言うと、ナポリ人はすべてが予定どおりスムーズに進んでいる状態がめちゃめちゃ嫌で、壊れている状態、不完全な状態でないとだめなんだという。日本のようにきっちりオンタイムで電車が来たら、面白くないわけです。1分の遅れにも厳しい日本とは真逆のメンタリティですよね。
北川:電車の話は、イタリアと比較すると特に感じますね。日本だと少し遅延しただけで「申し訳ありません」ってアナウンスが流れる。ちょっと異常な感じですよね。申し訳ないと思ってなくて全然いいわけですが、アナウンスを入れるのが普通になってる時点で、そこに労働者側に立った視点はない。なんなら、アナウンスがあることで、乗客も駅で待っている人も、わずかな遅延でイラつく状況が生まれるわけですよ。「次の乗り換えが〜」ってなってしまう。
家成:アナウンスの間に駅に着いてることさえありますからね(笑)
北川:個人的にわかりやすい比較にはいつも警戒しますが、あえて、車の運転を取り上げると、日本では運転中に周囲にいる人よりも信号をよく見ますよね。既存の交通ルールやシステムを遵守することが一番の目的です。そうすれば「安全」に運転できるからというよりも、それが「正しい」からという意味合いが強いように思えます。だから、事故が起きた際に、「正しくない」行動をしたかどうかという論理が前に出てきてしまう。他者を「大丈夫か」と気にかける前に。対して、イタリアやナポリがそうじゃないとは当然言い切れませんが、運転中に信号以上に人や車の動き、道路の状況を本当によく見ているとは思います。もちろん信号を守らないという意味ではありませんが、たえず動いている周りの状況にかまわずというか、そこから切り離されているかのように、ルール守って運転してればよいという感じはしません。よく、ナポリの交通は「混沌」と評されますが、運転する人たちの観察力、柔軟性や機敏さで成り立っているんでしょうね。僕の経験では、状況をよく見てくれる分、歩行者にはとても優しいものだと感じます。信号も歩道もない道でも歩行者が横断しようとしたら、車は当然のように止まってくれます。日本全体、ナポリ全体の話として一般化はできませんし、美化もできませんが。ただね、やっぱり日本に限らず、資本主義のもとで、流通のスムーズさを担うことが一番の目的になってきているのはたしかなんですよ……。
家成:そうですね。目的がスライドしていく感じは日常のさまざまな場所で目にします。昔は、街に高架下のような何の用途もない、隙間のような空間がありましたよね。そこでは、立ち飲み屋やグラフィティなどのコミュニティーと文化が育ち、自分なりの表現をする場所になっていた。今の日本では、高速道路や鉄道の高架下すらも商業的に回収されてしまいました。さきほどの公園の例でも、遊び方が限定的で、もはや押しつけがましいと感じられるケースもあって。誰のための街なのか。これは、都市空間の使い手を信頼していないから起きることだと思いますね。設計って気をつけないとあかんなと、つくづく思います……。
北川:ジョルジョ・アガンベンは、「建築設計者は主権者だ」と言っていましたからね……(笑)。公園の話は本当にそう。空間や時間、物事に余白があれば、すべて埋めてしまい、遊びさえも形式化してしまう。思い返せば、子どもの頃は近所の道路でよく遊んでいました。道は交通の場じゃなく、遊び場なんですよね。というのも、子どもの身体からすると、ちょうどいい広さというか、むしろちょうどいい狭さの道だったからです。この感じは公園にはないんですよ。サッカーとか野球、ドッジボール。あと、道に空いていた小さな穴を使ってゴルフの真似事とかしてました。ストリート・ゴルフかな(笑)。ボールとパターだけは友達がたぶん親に内緒で持ってきた本物で。下手なので、近所の家々の壁にぶつけまくっていましたが、ボールがどこに転がるかわからないのが楽しかったんでしょうね。けっこう「長距離コース」を設定していたし、強く打つとたしかに危ないんですけど。
家成:そうそう、路上で遊んでましたね。サッカーも野球もゴルフも、下手な奴ほどものを壊したりするから大人に怒られたりしてね。
北川:その「下手さ」を理由にやめろと言われるのはつらいものですよね。本当に遊びでしかないものさえ、ある価値基準・形式に当てはめて、上手くないと人前に出してはいけないと考えてしまうことがある。話を戻すと、都市の隙間で生まれたグラフィティにさえ、そういう側面があるのでしょうか。壁や電車など目立つところには上手なものが多いし。なまじ「上手い」とディベロッパーがエリア一帯を捕獲しにきてしまうかもしれません。個人的には「落書き」という響きが好きですね。下手でも描いている、表現しているっていうのは、とても健全なことで、同時に都市の懐の深さが表れるべきはずのところです。こんなところに書いたのか!と驚くようなものもありますよね。でも、今やイタリアでも都市の「品」という道徳や特定の美的基準を理由としてグラフィティなどを禁止しています。「都市の品格」が保たれない、と。
家成:そうですね。下手でも好きなように表現していける都市であってほしい。そういえば、スケボーも同じく、上手いやつ以外は街なかで滑ってはいけない、という雰囲気がありそうです(笑)。もちろん交通ルールで禁止されている道路もありますけどね。
北川:たしかに(笑)。下手なスケーターが豪快に転けて、血塗れになったら、それを見た周りの人たちが、きちんと助けられるような社会があればなと思います。今は「それみたことか」と、間違って“警察”が呼ばれそうですけど。何にせよ、出来事が起きた際に、まるで観客のようにスマホで写真に撮ってSNSに投稿するのではなくて、人と感情や空間をちゃんと共有すること。僕は、そのためには、もっとゆっくりとした別の時間の流れとその堆積が必要なのではないかと思うことがあります。クリックすればすぐに届くようなロジスティクスや、誰とでもオンラインでつながれるデジタルの速度の付き合いではなく、人の体感できる速度に合わせた関係性の築き方が大切だと感じます。だから、労働は嫌で、SNSは苦手なんです。早いレスポンス、早いやりとり、短いやりとり。仕事で余裕がなくてイラつくのみならず、さっきの電車の話ではないですが、こうした装置が余裕や隙間のない社会関係、せちがらい社会や政治のありようをつくっている気がします。だから、すぐイラついてしまい、その流れを乱すもの、あるいは乱しそうなものには容赦がない。
家成:同感ですね。都市、社会はゆっくり醸成していかなければいけないのかもしれません。
北川:そうですね。そうした動きは、現状の枠組みに収まらず、あふれ出ていくような欲望や行動、表現からしか、つくっていけないでしょう。おそらく、それはまだはっきりとした形や言葉になって現れていない動き、運動かもしれません。あるいは、そうとは気づかれないような表現で現れ、名指されているのかもしれません。いずれにせよ、可能性のひとつは、今のロジスティクスを一度遮断してみることにあると思っています。
家成:ありがとうございます。今日は、都市のあり方を考えるためのいろんな視点やヒントをもらった気がします。またぜひお話しする機会を持ちましょう。
北川眞也 / Shinya Kitagawa
三重大学人文学部准教授。1979年生まれ、博士(地理学)。主な論文に「惑星都市化、インフラストラクチャー、ロジスティクスをめぐる11の地理的断章」(『惑星都市理論』以文社、2021(近刊)所収)、「地図学的理性を超える地球の潜勢力――地政学を根源的に問題化するために」(『現代思想』45-18、2017)など。
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『逃走の権利 移民、シティズンシップ、グローバル化』
サンドロ・メッザードラ 著、北川眞也 訳 人文書院(2015)
現代移民研究の第一人者であるサンドロ・メッザードラが、世界各地で起こる多様な問題を「移民」という角度からクリティカルに読み換えた、現代社会論の重要作。本対談の北川眞也さんによる翻訳です。数年前に著者のお話を直接聞く機会があり、イタリアの移民事情を聞きながら、いろいろなことを考えさせられました。一筋縄ではないですね。当たり前ですが。(家成俊勝)