Fujimura Family(以下、FF)が写真集『PROOF OF LIVING』を自費出版したのは2020年のことだった。詩人の味果丹(あじかたん)とそのひとり娘、愛猫を、アーティスト・Dai Fujimuraが撮影。10年にもおよぶ生活の一場面の蓄積を束ねたこの本は、2021年にマージナルプレスより再出版・全国流通される。
FFの現在を知るために、まずこの1冊の成り立ちから紐解いていきたい。2022年9月、兵庫・加西voidで開催された『PROOF OF LIVING』出版記念展示ツアー第2弾「Futrure Self」を訪れ、ふたりにインタビューを行った。目まぐるしく変化していくFFの、2022年の記録その3。
「何があっても希望そのもの」を思い出す
――ふたりで制作するとき、どのようにお互いの感覚を共有したり、方向性をすり合わせたりしているんですか?
DF:「こんなふうにしたい」というイメージ、好きな写真集のテイストや質感、そのあたりはほんまに、むっちゃ一緒なんですよ。それが一緒になるように、今までずーっと話してきたり、いろいろやってきたりしたということもあるけれど、もともとのイメージするものが一緒やったから、全部が早い。だから、本来のお互いのあり方が一番いい状態にあれば、軽やかにものをつくれる。
味果丹:役割分担。アーティスト云々と名乗る前の時代から積み重ねてきたものがあって、はっきり分かれている。やっぱり相手を尊重して、信頼して、投げるっていう感じやんな。
――イメージが一緒になるようにというのは、FFの活動につながるからというのもあるし、ファミリーで一緒にいるためにそうしている?
DF:一緒にいるため……。一緒にいたいって思うんやったら、毎日(相手と)合わさな、一緒にいたいことにはならない(笑)。
味果丹:ヘビーな話(笑)。言葉でうまく言うのが難しいね。「何やってんねやろ」って思う瞬間の方が多いけれど、報われる瞬間もめっちゃあるし。結構、命懸けというか、表現も命に近いなと思ってる。(お互いの)関係性の面でも、そういうのはすごく感じる。
DF:そうだね。こういう(表現)活動とか展示のためっていうより、日々どう思っているか、何を考えているかを話し合う。何食べたいかもそう。
味果丹:どう生きるかとか、何がしたいか、なんでこんな悩むんかを、常に話してる。
DF:一緒やね、つくることと同じサイクル。
味果丹:制作も、(その日の)ごはんを決めるのと同じノリ。ごはん1食も真剣ってことなんやなって今思ったわ。じゃない?
DF:そうやな。
――そういった日常の一つひとつをDFさんが撮影している。
DF:そう。だいたい毎日、こういうふうに(カメラを首に)掛けるところからはじまる(笑)。もう皮膚みたい。
味果丹:もうこれは執念やねんなぁ。絶対逃したくない。「目がカメラにならんかなぁ」とか言ってるよな。ずーっと。
DF:常に(カメラを)持っておきたい。そういう性質なんでしょうね。「今日はピザを買ってきてくれたから、記念に撮ります」みたいな。
味果丹:おばあちゃんや(笑)。
――そうした膨大な量の写真のなかから選んで、本になっているんですよね。一方、オンラインファミリーでは、それまで公開していなかった写真を見せたというお話もありましたけど、どんなものだったんですか?
DF:写真集に入っている写真は、「1枚の写真らしい写真」という感じ。その前後も撮っているんですけど、(それを見比べながら)「こっちよりこっちのほうが作品」みたいなイメージを選んでいるんです。でも、オンラインファミリーでは、それを選ばない。ただ、やっぱり最初は、娘の写真を誰彼構わず見せることに抵抗があったし、すごくプライベートな写真は、人に見せるものではないと思っていた。
味果丹:バランスとかいろいろ考えたときに、きつすぎたり。
DF:そう。だけど時間が経って見返すと「なんでこれ嫌やったんやろう。めっちゃ面白いやん!」って見方も変わってきて。そういった、写真集とかには入れなかった前後の写真も見せていこうとなりましたね。
味果丹:だから写真新世紀のときも、写真集だけではなく映像作品も一緒に出したんだよね。
――写真新世紀のWebサイトでも公開されていますね。
DF:本だけ見ても、その(生活の)前後が見えないから、「10年の積み重ねです」と説明してもわかりづらいやろうなと思って。
味果丹:そうやし、本当に表現として見せたいのは映像作品のほうって感じがある。映像をつくるまでは、そこまではっきりとした実感はなかったけど、やりながら導かれるように(そう思った)というか。「本体、こっちやったか」「こっちがなんやったら見せたいし、メインやんな」って。
DF:閉じる・ひらくことのバランスが、映像はすごくちょうどいい感じがしたんよね。
味果丹:どっちでもないし、どっちでもあるしな。
DF:持っているカメラに映像を撮れる機能があると知ってからというもの(笑)、写真を撮る前後で、映像も撮るんですよ。でも映像こそ、見せる機会とかどうやってまとめたらいいんかがわからへんから、家族3人で寝る前に、「何年前の今日」とひとつずつ再生して。
味果丹:楽しむ用のホームビデオやな。
DF:ホームビデオとして撮っていた動画を編集して、写真新世紀に出したんです。
――具体的な話になりますが、写真や映像には、味果丹さんと娘さんが多く写っていますけど、ほかにも蛇やカエル、ごはんなども。これは“決定的な瞬間”を撮っているのか、セッティングしているのか。あるいはそれらが混ざっている?
DF:そう、混ざってる。偶然撮るにしても、セッティングするにしても、なんかイメージがありますね。たまたま撮れたというよりは、そのイメージに合わせていくというか。「ここに蛇が飛び出してきたらいいな」と思ったら、来たりするんですよ。
味果丹:「こんなん見たいな〜」って言ってたら、そのイメージがバッて現れるというか。
DF:そういう感じやなぁって、最近思った。
味果丹:がっつりセッティングはないよな。ほんまにナチュラル。つくり込んでもない。
――さきほど「撮り逃したくない」という感覚についても話してくれましたが、撮影することで、対象のふるまいが変わってしまう部分もある。そのなかで、生活の生々しさとか、迫力みたいなものを、どうやったら写せるのかなと。
味果丹:FFのつくり方は、逆算的というか。撮り重ねた先に写真集ができるわけではない。もちろん時間をかけているから、そういった側面もあるんやけど、未来にあるもの、未来のイメージがすでに決まっていて、それが段階的に見えたり、形になったり、形にならなかったけどまた別の形で現れたり。だから、未来ありきな感じが私はしてる。それが、写真を撮ることで変わるかもっていうのももちろんわかるし、怖いやん? 写真が持つ暴力性もふまえて。でも、ここ(未来)をもう完全に信じてるから、それを変える可能性があるとは全然思わない。だから(FFを)やれているんやろうなって。
DF:「残しておきたい」というのは、もうめっちゃ根っこの根っこ。昔に遡るほど、1カ月に何万枚とか撮影している。そのときに比べて今は、「こういうの残したいね」と厳選する感覚が、家族のなかではっきりある。ただこれまでだと、自分だけが撮りたいと思って、自我を押し通して撮って、後から「なんで撮んねん」ってなることも。
味果丹:生活にも支障きたしてな。
DF:子どもに「もっとこうして」と言って、それを撮影したら、あとあと見ても良くなかったり。そのときの嫌な思い出のほうが覚えていたりするから気が悪い。やっぱりみんなの気持ちが、気が合ったやつだけが残っていますね。お互いに「やろう」ってなったものを、ちゃんと撮って残したい。
味果丹:うちらは、みんなやりたいようにやってるよな。我慢して、合わせて、やらされて、削れて、とかではなく。共有してるし、尊重できるし、信頼してるからその域まで行けるみたいな。
――2022年の記録の最後に、言い残したことがあれば。
味果丹:思い残しがないように。
DF:「何があっても希望そのもの」っていう言葉を、Fujimura Familyのキャッチフレーズにしているんです。写真集をつくったときに、味果丹が書いた文章の一節で、本の冒頭にも載せているんですけど。そこに(僕らが)凝縮されているというか。今まであったこと含めて、すごいしっくりと「希望そのもの」って言えたから。
味果丹:私もあれを書いたくらいに、自分のあり方として、「私がポエムや」みたいに思えて。自分のなかでもそういう気づきがあったタイミングで、写真集の文章にもつながった。
DF:軽さを忘れたときは、あれを思い出す。軽く生きるための言葉やなと思ってる。
味果丹:夏に体調崩したときも、洒落にならんくらいしんどかったけど、あれ思い出したら笑けたもんな。そやな〜とか(笑)。重宝してる。全部ひもづいているというか、全部がそれやから。
Dai Fujimura(芸術家)と味果丹(詩人)によるアーティストペア。
写真、映像、詩、陶芸などを軸に様々な要素を用いて生きる証明をそのままに表現する。今だけがここにある。”何があっても希望そのもの”instagram ID: ff_fujimurafamily