和歌山県立近代美術館で、大阪を拠点に活動する現代美術作家・河野愛を招聘した展覧会「こともの、と」が、2024年7月13日(土)から9月23日(月)まで行われた。同館では、あらゆる世代に美術の楽しさを伝えることを目的に、コレクションによるシリーズ展「なつやすみの美術館」を毎年開催。近年は、コレクションに現代作家の作品を組み合わせた展示構成にも取り組み、今回はその14回目となる。
河野は2007年に京都市立芸術大学大学院美術研究科染織を修了後、2017年まで広告代理店でアートディレクターとしてキャリアを積み、その後作家活動に専念。染織やテキスタイルを制作の根幹に据え、陶、ガラス、布、収集した骨董、写真や映像などの多様な素材を用いながら、場所や人の記憶、時間、価値の変化を探究したインスタレーションを展開し、鑑賞者へ深い思索を促してきた。
また、近年は〈こともの〉と題した、乳児の肌のくぼみに真珠を挟んだ様子を撮影したシリーズに臨んでいる。「こともの」とは、古語で「異物/異者」を意味する言葉だ。真珠は、貝核という「異物」が貝のなかに入り、その表面が貝殻の真珠層という結晶に覆われることで生まれる。内側で成長しながらも、開くまでどんな姿をしているかわからない、言わば「得体の知れないもの」であり、この世とあの世をつなぐ意味合いをもつ宝石とも言われる。自らの体内に子を宿し、2019年に出産した河野は、こうした真珠の存在を自身に重ねた。そして、目に見えないコロナウイルスという「異物」を案じ、はじめて乳児という「異者」と過ごした体験を経て、作品をつくり出すに至った。
今回、同館が河野を招致した背景には、この〈こともの〉がある。展覧会のタイトルにある「こともの、と」は、河野の作品と美術館のコレクションとの出会いと、コレクション自体が時代やジャンルを超えて集う多様な「異物/異者」として存在していることを表した。河野の参加により、展示室に新たな作品との出会い、思いもよらなかった視点や解釈を生み出し、訪れる人々に新鮮な体験をしてほしいという期待を込めたという。
本展開催に際しては、参加型のプロジェクトである新作《100の母子と巡ることもの》も制作された。このプロジェクトは、乳児(1歳未満の子)をもつ母子に、河野の作品である「真珠が一粒入った箱」を贈り、母親が真珠と乳児の写真を撮影するというもので、筆者も我が子とともに参加した。その一枚がどのような作品となったのか、目の当たりにしたいという想いが、家族で本展を訪れた大きな動機だ。
最初の章「ことものⅠ:異物と遺物」は「異物」を読み替えた「遺物」がテーマだ。美術館に収蔵されるものは主に作者の存在する「作品」であり、「遺物」と呼ばれることはない。しかし、作品と向かい合ったとき、それらがもつ背景が鑑賞者の想像を広げ、個々の記憶を喚起することもある。こうした作品は、あらゆる過去への接点をもたらす「遺物」ととらえることができるかもしれない。
ここでは、河野の代表作のひとつである《I(アイ)》という縦長のネオン管の作品が登場する。今は亡き河野の祖父母が白浜町の入り江に建てた、かつて存在したホテルの名を示すネオン看板の一部がモチーフとなった作品だ。幼少期より、この入り江で夏を過ごすことが多かったという河野の記憶を宿した本作は、これまで場所を変えて設置され、その地域や人の記憶と共鳴してきた。展示空間の天井に届くほど高く積み上げられた、暗がりのなか輝くネオンの光は、いつかの旅先で見た夜景や車窓から流れる夜道の明かりを想い起こさせ、懐かしさと寂しさを心に広げた。
次の章「ことものⅡ:異物と異者」は、河野による作品シリーズ〈こともの〉が軸となる。展示された作品は、《こともの foreign object (clock)》と題された映像のインスタレーションだ。大きな扇形のスクリーンに、真珠を挟んだ乳児の肌をごく近くに写した写真が投影され、カチカチと鳴るおもちゃのカメラのシャッター音とともに画面が切り替わっていく。まるで静かな部屋に響く時計の音のようで、少し緊張感を覚えた。出産後、生まれたての乳児と過ごした、筆者自身の体験が思い起こされたからだ。外界と離れ、日々のほとんどをふたりきりで過ごす暮らしは、穏やかなようで、一時も目を離すことができない、生死に面する危うさと隣り合わせだった。寝ていても少しの物音で目を覚ましてしまう乳児の隣では、静かに過ごすのが当たり前になる。自分ではない「異者」と向き合うことは、互いの命、ともにある心地よさを確かめながら、コミュニケーションを育むことなのかもしれないと感じられた。
そして、「ことものⅢ:こどもとことば」。この章では、言葉を発する前の乳児が、幼児となる成長のなかで、言葉を獲得し世界を発見していく過程が表される。河野の新作《100の母子と巡ることもの》も、ここで登場した。
プロジェクトに参加した乳児の母親は72人。展示空間には、参加者に贈られた「真珠が一粒入った箱」と同サイズのライトボックスに仕立てられた写真が均等に並んでいる。そのなかに、我が子の写真を探した。表情が写っているわけでもなく、柔らかくしわの寄った、乳児の肌の一部だけをとらえた写真群だ。すぐには見つけられないのではないかと思っていたが、意外にも難なく目に留めることができた。おそらくこれだろうと、イニシャルのみが書かれたキャプションを見て答え合わせをすると合致していた。最初に気づいたのは夫で、「肌の質感がそうだった」と言う。なぜ私たちはこの写真が“自分たちの娘だ”と認識できるのだろう。日々の触れ合いを通して見ているからなのか、ともに似た距離感で娘を感じているからなのか、他者と感覚が重なる神秘的な体験だった。
思えば、物事が“それだ”とわかるということを、大人になって顧みることはさほどなく、いつ“わかった”のかも思い出せない。同じく会場に展示されていたコレクション作品のひとつ、高松次郎による《英語の単語》は、「THESE」「THREE」「WORDS」という単語が、画面の中央に整然と並んだ版画作品だ。当たり前のように筆者は「これら」「3つの」「言葉」と読んでしまうが、この単語に意味があることを知らず、またアルファベットという概念をもっていない子どもの目には、どう映るだろう。文字の形状を指差し、発生を聞きながら、単語と意味との重なりを確かめていた感覚と、現在の認知が、シンプルな画面の上でせめぎ合うような感覚が湧いた。
最終章は「ことものⅣ:ものとこと」だ。目にするもの、手に触れるもの。それらが私たちに作用する間にはなんらかのはたらきがある。美術作品も形のある「もの」だが、形づくられるまでには、作家が自身の記憶や経験を辿り、造形を導く営みとしての「こと」がある。それは表現が、世界の片鱗とそのありようを、顕在化させる手段であることを示していると言えるだろう。前章では、幼児が言葉とともに世界を知ることに着目したが、ここではさらに、「もの」「こと」に触れることで想像を広げ、また自らも「もの」「こと」を生み出す存在であるという、認知をもつ人間の深まりに迫ったようにも思う。
こちらは、太田三郎の《Seed Project Mixture》。拾い集めた植物の種子を和紙に封じ込めて郵便切手に見立て、シャーレに収納した作品だ。シャーレという用具のなかに重なる種子は、それが植物であるという事実をとどめながらも、切手という様相をもつことで新たな文脈を付与される。まるで遠くの土地へ運ばれ、そこで根を張る未来をも想像させるようだ。
また、河野の作品《loupe》は、複数のガラス瓶を模した樹脂のなかに真珠を閉じ込めた作品だ。真珠が水にぽとりと落ち、沈んでいくようなさまは、時が止まっているかのような、はたまたスローモーションで真珠を眺めているかのような不思議な感覚を芽生えさせる。それは、私たちが“時間の流れ”という概念や、それにともなって経験してきた無数の記憶をもっているからこそ感じ得るのだろう。
終盤に展示されていた河野による《O》は、《I》と同じくホテルのネオン看板の一部を今回新たに再現制作したものだ。章のテキストボードには、この「O」という字の丸いフォルムに、「さまざまな『こともの』や相反するものを含めて、物事が循環し、さらに続いていくというイメージ」が象徴されているとある。
振り返ってみると、記憶や認知、そしてそれらと連関する個の思考やアクションをまなざす本展は、人間の生や根源的な歩みを辿るような体験だった。そしてそこに、母親でもある河野の視点が色濃く反映されることで、母と子という存在のつながり、そしてあらゆる他者や事物と影響し合いながら、個の人間が成長していく過程がさまざまなかたちで可視化されていたとも思う。過去からずっと歩んできて今に至る、自分自身の立ち位置や環境も、ひとりでにできたものでは当然ない。生き継がれる命と、見出される世界は常に循環しているのだと、はっとさせられた。
会期:2024年7月13日(土)~9月23日(月)
時間:9:30~17:00(入場は~16:30)
休館:月曜
※7月15日(月・祝)、8月12日(月・休)、9月16日(月・祝)、9月23日(月・休)は開館、7月16日(火)、8月13日(火)、9月17日(火)は休館
会場:和歌山県立近代美術館 2階展示室
料金:一般520円、大学生300円