2021年11月3日(水)から21日(日)まで、+1artで開催されていた「CON・CERT walking from +1art to +2」に足を運んだ。
本展の参加作家は、「音」に着目した作品を手がける藤本由紀夫をはじめ、小寺未知留、佐藤雄飛、林葵衣、山本雄教、カワラギ、野口ちとせの7名。事前に見たギャラリーWebサイトの展覧会ページには、下記のステートメント、参加作家のプロフィール、作家の名前が作曲者のように記された楽譜(スコア)の表紙を模したアイコンが並ぶ。アイコンの下部にある「scores for CON・CERT」と書かれたボタンをクリックすると、「〜しながら+1artから+2へ歩いてください」といった指示のようなものが現れる。
「コンサート concert」。イタリア語の「コンチェルト concerto」に由来する語である。さらにはラテン語にまで遡ることができ、「争い・議論 concertātiō」や「絆・協力consortiō」といった語と同根だと考えられている。英語でも「演奏会」だけでなく、「一致」「協力」「調和」といった意味を有し、動詞の場合には「合意のもとに調整する・協定する」といった意味になる。英和辞書の中には、「共に con」「努力する cert」と解説しているものもある。
音楽を演奏するというのは常に専門家だけに許された行為だったのだろうか。そうではない。商業的な演奏会が登場する以前から、音楽愛好家たちは私的に音楽を楽しんでいた。「コンサート」という言葉が意味するとおり、複数の人が集まり、共に自らの手で音楽を奏でていたのである。
+1 artは舞台袖になる。反対側の舞台袖は+2だ。二つの舞台袖の間にある街が、この「コン・サート」のステージである。
コンサートとは、観客や出演者といった役割に関わらず、複数の人々が集まって(ときに争いながらも)共に何かをすることなのである。
一体ここでなにが行われているのだろう。私はなにを行うことになるのだろう。ぼんやりとしたイメージのまま会場の+1artの扉を開けると、そこにはたくさんの譜面台が並んでいた。譜面台の隣には、ヘッドフォンや水が入ったペットボトル、手鏡、砂時計、お菓子の「グリコ」……とさまざまなものが置かれている。その光景を目にしたとき、「ここでは単なる『鑑賞者』でいることはできないな」と直感的に思った。譜面台も、隣に置かれたさまざまなものたちも、私がなにか行為をなすのを静かに待っている。
近づいて譜面台に載っている紙をのぞくと、そこに書いてあるのは音符ではなく言葉だった。「聴診器で自分の心音を聞きながら、そのビートに合わせて+1artから+2まで歩きなさい。」「アレッポでつくられた石鹸を持ち、+1と+2の間でアレッポを知っている人を探してください。できればその人の声を録音して+2で再生してください。」「コンサートのチケットを差し上げます。一枚手にとって+1artから+2まで歩いてください。」
やっぱりだ。私はここでなにかをなさなければならない。わずかな緊張感が走る。それは決して嫌なものではなく、むしろ少し心地いい、「巻き込まれてしまった」という感覚。普段ギャラリーに行って、「ふんふん、なるほど」と絵を眺めている自分とはまったく違うモードにいつのまにか切り替わっている。
この体験はつまり、普段自分は「ふんふん、なるほど」という受動的な態度で作品を見ていたのだなということに気づかされる体験でもあった。「コンサートとは、観客や出演者といった役割に関わらず、複数の人々が集まって(ときに争いながらも)共に何かをすることなのである。」というステートメントの言葉を思い出す。私はここで「観客」でいることはできない。一緒にコンサートをつくり出す一員に「なってしまった」のだ。
私は「1988年3月 ニューヨーク、マンハッタンで録音した音を聴きながら+1artから+2まで歩く」というものを選んだ。(後でわかったことだが、これは展覧会の中心的存在である藤本由紀夫による「スコア」だった)まったく異なる時間と場所の音を聞きながら、今ここにあるまちを歩く。そのとき想起されるのはどんなイメージだろうか。
そんなことを考えながら、肩に掛けるタイプのスピーカーを装着して+1artを出る。もうひとつの会場+2は、ここから歩いて5分程度だ。地図を受け取り、スピーカーのスイッチをONにし、歩き出す。
最初に通るのは、住宅地の細い路地。18時過ぎの路地は、静かで暗い。すぐ脇に他人の生活がある狭い空間は、普段であれば恐る恐る歩くことになっただろう。しかし、耳元から流れる大通りの音を聞いていると、不思議と大胆になれた。歩いていると急に車の音がして、とっさに立ち止まる。でもこんな路地に車がいるわけもなく、それは言うまでもなくスピーカーからの音だった。「1988年3月 ニューヨーク、マンハッタン」の車の音に驚いて立ち止まる、自分の身にそんなことが起こったのが可笑しかった。
少し歩くと、アーケードのある商店街に出る。人はまばらだったが、ここにきて急にスピーカーの音量が気になりだす。甲高い電子音が自分の首元から流れ、周りの視線が気になる。もう「1988年3月 ニューヨーク、マンハッタン」どころではない。恥ずかしさに足を早めながらも、スピーカーをOFFにしてはいけない、私は今コンサートの一員なのだからという使命感のようなものを感じていた。+2の少し手前で音を止め、なかに入る。
+2には、参加者がここまで歩いてきた感想を書くためのノートが置いてあった。書きながら振り返ると、出発前に予想していたのとはまったく違う道中だったことに少し照れを感じる。出発前の自分はやっぱりまだのんきな「観客」だったのだ。実際に作品に取り込まれてみないと、自分がなにかをなさないと、わからないことってこんなにあるんだと、目が覚めるような想いだった。私が選ばなかった「スコア」にも、それぞれにこんな鮮やかな体験の種があって、そしてこの現実の世界のなかにもそんな種は無数に散らばっている。種を種のまま眺めているのはもったいない。これからもいろいろな作品に触れるとき、この感覚をいつも忘れないで持っておきたいと思った。
帰り道、今度はスピーカーなしで商店街を歩く。なんだかまちと共同作業をしたような気になっていて、はじめて来たはずなのに愛着を感じている。+1artに入ったときの緊張感がもはや懐かしい。このステージと離れるのがなんだか名残惜しくて、目についた店に入り1杯飲んで帰った。
CON・CERT walking from +1art to +2
会期:2021年11月3日(水)〜11月21日(日)
会場:+1art、+2
参加作家:藤本由紀夫、小寺未知留、佐藤雄飛、林 葵衣、山本雄教、カワラギ、野口ちとせ