“「産む」から「死ぬ」まで、生きるをめぐる10日間”を掲げる「むぬフェス」が、2024年5月17日(土)から26日(日)まで開催された。主催・会場は、浄土宗の塔頭寺院である應典院、共催・企画パートナーは、一般社団法人Deep Care Lab。2023年に東京で開催された、産むことと産まないことをテーマにした作品展「産まみ(む)めも」の巡回に加え、5月18日(土)、19日(日)、25日(土)にはトークやワークショップも実施。人の生死をまるっと包括した問いの場が開かれた。
産むか産まないか?という選択は、女性である私自身にも他人事ではないし、子育てや介護、福祉に関しては、すでに日本全体が他人事ではいられない社会問題になっている。「むぬフェス」で考え深めるのは、そういった身近で重要な事柄だ。プログラムには、應典院のプロジェクトである「あそびの精舎」構想の企画第1弾として、義理の母親になってみる演劇ワークショップ、死後の世界の物語を考えるすごろくづくりなど、「産む」や「死ぬ」ことへの想像力を広げる合計13セッションが並んだ。
そのなかで、最終日に開催された「日常のなかの死や誕生をめぐるまち歩き」に参加した。ワークショップの内容は、「生と死」を意識しながら應典院から徒歩約15分圏内のまちあるきの最中に見つけたものを写真に撮影して、何を感じたかをシェアし合うというものだ。有志によって企画・運営されたというワークショップの参加者は約30人。4〜5人ずつくらいでグループに分かれたメンバーのなかには、神奈川県からこのために来た方もいた。
まちあるきから戻り、写真を見ながら見つけてきたものの共有会。「グラフィティは、人が生きている証かもしれない」「ガチャガチャの殻は、生を運んできた後の卵の殻のような存在。それが再利用されて、また循環されるのも面白い」「三角コーンに意志を感じた」「顔が描かれた遊具は表情があり、それだけで生きているように見える」「自分自身の歩く影は、自分を認識できる存在」「ここに人がいたんだなと、ポイ捨てされた吸い殻を見て思った」。参加者の発表も多種多様。これだけ新鮮に見つけられるということは、裏を返せば、日常生活のなかには「生」と「死」はあふれているということ。それにもかかわらずそれらを見つける視点、感じる心を失っているのかもしれないと感じた。
実はこの「むぬフェス」、当初からこうしたイベント形態を企画していたのではなく、元々は應典院を会場とした「産まみ(む)めも」展の巡回のみを予定していたという。しかし1年の構想期間のなかで、巡っていく命全体そのものをとらえながら、周囲と考えるきっかけをつくりたいと方向転換し、トークイベントやワークショップが加わった。そして「生まれてから死ぬまで」をコンセプトに扱う企画「むぬフェス」へと育っていった。
クロージングセッションでは、開催3日間を通して湧き上がってきた問いを振り返った。
「食・供養・産むというテーマや、トークやワークショップ、まちあるきなどの手法など、さまざま用意すれば、みんなで考えたり、つながれたりするきっかけになるかもしれないと感じて企画した」と話すのは、Deep Care Labの川地真史さん。そして、「私自身ももやもやを抱えています。だからこそ、こういう問いかけの場が必要だとあらためて感じた。もやもやがすべて解決できなくてもいい。分かち合える場所があること自体が救いであると、自分自身がひしひしと感じています」と同社の田島瑞希さんが続ける。
「産むとか産めない、というのは、主体的な『私』が真ん中に強く置かれるイメージがある。でも『私』は、誰かから生まれてきた『私』だと考えると、今まで連綿とつながってきた命なのだと気づかされたんです。産む、産まない、じゃなくて、生まれてきた、を主語にしたいと考えられたことで、生と死まで射程を広げたイベントに展開できたことがとても良かったです」と田島さん。
これに対して應典院の浄土宗僧侶・秋田光軌さんは、「何かが正解、何かが不正解ということはありません。全部大丈夫なのです。どういう決断になるとしてもそれこそがあなたの人生。過去の人がつないでくれた偶然の生命なので、どこかに落ち着くのです」と答えた。
今後も継続して、應典院では催しを開催していく。「イベントは、ハレの場。こういう場所で分かち合った自分の救いや心の豊かさを感じられる経験を、どう日常につなげていくかがこれからの課題や目標ですね」と川地さんが語るのに応じて、秋田さんも「お寺は常に開かれている場所でありたい」と語り、会は締めくくられた。
むぬフェスに参加して、いろいろな問いかけをもらいつつ、自分のなかで疑問が解消されていく感覚もあった。終わりを考えることが、はじまりにつながるのかもしれない。日常的に効率よく答えを選びやすいツールが揃った現代は、不確実なものを選ぶチャンスが減っているとも言える。生と死というキーワードで考えると、それは多様性の宝庫だ。そして、不確実性のかたまりである。日常のなかでも、すべてのことを自分の意志で選択できると思いすぎないほうがいいのかもしれない。ある程度偶然に身を委ねることが、「答え探しの生き方」から抜け出すためのヒントになりそうだ。