京都dddギャラリーで開催中の鳥海修「もじのうみ:水のような、空気のような活字」展。アートディレクションをグラフィックデザイナーの廣田碧と三重野龍、イラストレーターの岡村優太、またキュレーションを堤拓也、空間デザインを加藤正基と大阪、関西拠点の若手クリエイターが手がけています。そんな本展を、編集者の伊藤ガビンさんに振り返ってもらいました。
書体設計士の鳥海修さんの「もじのうみ:水のような、空気のような活字」という展示をじろじろうろうろと見てきました。日本を代表する鳥海さんの来歴や書体ができるまで、そしてその書体が使われている本などが京都dddギャラリーにみっしりと(それでいて風通しよく)展示されておりました。見終わっての体感は、これは展示を見たときのものではないな、何かを見たときに似ている気がするが……と思いながら帰路についたのでした。
私の最近の鑑賞スタイルは「見たあとすぐに言葉にしない」というもの。誰かと一緒に見に行っても、その日は内容について口にしない。圧倒的なものを見たときにはさすがに「いやはや」「まいったね」なんてことは言葉にしますが、批評的な言葉を口にしないように、いや、考えないようにしているのですね。それがよい方法なのかわからないのですが、言葉にしてしまうと、その言葉で掬い取れるもの以外が通り抜けて落っこちてしまう感じがしてモッタイナイのです。言葉というザルで掬う前に、見たばかりの液状のものがもうちょっと塊になってくるまで待つ、みたいな感じでしょうか。
で、この展示も見て、2日ほど放っておいたらいい感じの塊になりまして、そのときに「なんか『胎内めぐり』から出てきたときみたいだったな」と思ったのでした。胎内めぐりについての説明は面倒なので、知らない人は適当に検索などしてください。寺なんかにある、菩薩の胎内に入って生まれ変わって出てくるみたいなやつです(雑で間違ってる説明ですいませんが)。宗教的な意味合いとか、暗闇のなかを手探りで、みたいなことは置いといて、つまり、誰かの身体のなかに入ってぐるっとまわって出てきたような感触があった、ということなのです。これは「展示」としてはなかなか得難い体験ですね。なぜ、そのように感じたかについて、少し考えてみたいと思います。
まずこの展示、のっけから鳥海さんの少年時代を描いたマンガからはじまるんですよ。書体の展示なのにですよ。つまりここでは単に書体を展示するのではなくて、鳥海さんをまるごと展示する腹づもりなんだな、ということが示されるわけですね。しかも、こうした「少年時代」の展示はその人の記憶にダイブすることになるわけだけれど、しかし脳内に入った感じはしないんですね。マンガの冒頭は、鳥海さんのデスクから、そこに貼られた故郷の山形県遊佐町から見た鳥海山の写真に視線が誘導され、そのなかにズボーッと入っていきます。つまり鳥海さんの目玉のなかに入り込んで、少年時代を見ることになる。このあたりで既に体に入り込んでしまっていたのかもしれません。
この「鳥海さんの目玉を通して」見ている感じは、展示のそこかしこで感じられます。たとえばヒラギノ(そうMac OSに搭載されているおなじみの書体も鳥海さんたちの仕事)の原字が並べられているコーナーは、庄内平野の田園に見立てられています。その向こうに鳥海山が見え、学生は自転車を漕ぎ、杭に稲わらの円形に掛ける杭掛けが並んで見えます(何を言ってるのかわからないでしょうが、そういう展示なんです)。原字を見ながら、同時にそれを育んだ山形県の風景が飛び込んできます。
マンガの次のコーナーでは書体ができるまでの工程をわかりやすく、丁寧に説明しています。鳥海さんの仕事のプロセスには、この時代にあっても最初に圧倒的なアナログ手作業があります。最初のデザイン設計のときから、その後の墨を磨っての墨入れ、ホワイトを使っての修整作業など、細かく丁寧な手作業があります。ここではそれが展示されているんですね。実物の修整の痕跡を見ると、目玉としての見る快楽に加えて、自分の手が修整作業をなぞるような手の快楽が加わります。目玉に続いて鳥海さんの手のなかに自分の手を潜り込ませるような感触。
そこから延々作業があり、デジタル化して、文字組みしてからも続く細かい赤入れ。今まで漠然と見ていた字形が急激に解像度高く見えてきます。たとえば「ろ」の文字の下の丸まったところの広さなどが、赤入れの指摘されることで急に気になってくる見えてくる。書体を見るド素人の僕の身体が、鳥海さんの身体を借りることでぐいぐいと解像度が上がっていく、これは楽しい……。
書体づくりのプロセスが身体にインストールされたところで、展示会場の奥の壁には鳥海さんが設計した「游ゴシック Pr6N R」の23,058グリフがずらりと並ぶ。ただ書体を眺めただけではわからなかった「時間」をここに発見することになる。さらに実際に書体が本のなかで、あるいはサイン計画のなかでどのように使われたかの例がこれでもかと展示される。游ゴシックで経験した「時間」がここでは掛け算になって体感させられることになる。気が遠くなるとはこのことですね。
最後には鳥海さんの作業デスクが再現されたコーナーがある。僕は、時々アニメ系の展示などにある作家の机再現コーナーをあまり好意的に見たことがなかったのだけど、今回は何か沁み入るものがあった。書体設計の時間の流れを次々と見せられた挙げ句、その一文字一文字つくっていった机を見ると、ズームアウトし続けたカメラが一瞬で等身大世界にまでズームインしたようなめまいを覚えた。ここで机に向かい、墨を磨り、アウトライン修整し、こつこつとこつこつと一文字ずつつくっているのか、と。
わかりやすく、しかし、複雑な展示だな、と思った。デザインを展示することは、実は非常に難しい。デザインは目的に向かって計画するものなので、展示しようとすると基本的にはメイキングかアーカイブにしかならない。あるいは展示自体をデザインすることによって成り立たせるか、の3つしかない。
今回のこの展示は、実はこの3つのデザインの展示のありようを巧妙に組み合わせてつくられている。書体のメイキングであり、書体をつくった鳥海さん自身のメイキングであり、これまでつくってこられたもののアーカイブであり、書体の設計をどう人にわかってもらうのか、という課題に対するデザインでもある。
さらに僕がうなったのは、このアートディレクションが、鳥海さんが京都精華大学で教鞭をとられていたときの教え子3人によってなされたということ。ここに至っては鳥海さんの身体からDNAが飛び出して未来へとつなぐ道筋を示しているといったら言い過ぎだろうか? ともあれ、このズームインとDNAが飛び出したことによって、書体胎内めぐりからやっと僕も外に出ることができた。ふう。やたらと褒めてしまったような気がするんだけど、僕がこの原稿を書いた目的は「会期は残り少ないけど、見たほうがいいよーん」ということなので、ぜひ見にいってくださいな。
伊藤ガビン / Gabin Ito
編集者/京都精華大学メディア表現学部教授 京都在住。先端映像を紹介するNEWREEL編集長。
会期:2022年1月15日(土)〜3月19日(土)
開館時間:11:00〜19:00(土曜は18:00まで)
会場:京都dddギャラリー
休館日:日曜、月曜、祝日
料金:無料
問合:075-871-1480
アートディレクション:三重野龍+岡村優太+廣田碧
キュレーション:堤拓也
空間デザイン:加藤正基協力:株式会社SCREENグラフィックソリューションズ、株式会社モリサワ、有限会社字游工房
主催:公益財団法人DNP文化振興財団