彼らはまだ向こう岸を諦めていない。かつて、神戸アートビレッジセンターで行われた、川田知志と山城優摩の二人展「対岸に落とし穴」カタログへの寄稿文を、私はこのように結んでいたらしい。こう記したのは、この展覧会に、自らの表現を固定化させず、外部からの影響や変化に開かれていようとする作家たちの姿勢——“対岸へのまなざし”を見出したからだと記憶している。それも6年程前のことだが、そのときからすれば川田はずいぶん向こうまで行ったのだろう。今回のアートコートギャラリーでの個展は「彼方からの手紙」と題されていた。
川田がおもに扱うフレスコ画というメディアは、漆喰と顔料で描かれる壁面と一体化するため、サイト・スペシフィックであることが常である。彼の初期の作品は、展示空間の壁一面を絵画イメージが覆い尽くすインスタレーションだったが、ひとたび展示期間が終わるとそれらの作品は滅失を免れえなかった。
しかしある頃から彼は、壁画に必然づけられた、その運命に逆らう手段を模索しはじめたようだ。絵画イメージはさまざまな仕方で壁から引き剥がされ、各地へと持ち運ばれるようになる。その理由は、単に、近代以降の入れ替え可能な美術作品のために設えられた “ホワイトキューブ”という制度への適合というわけではない(もしそうなら、最初からタブローを選べばいいのだから)。それはさしずめ、漂泊する壁画のロードムービー、といったところだろうか。
今回の川田の作品は、フレスコ画の描画層を壁から剥がし取って別の支持体へ移す手法「ストラッポ」によって、大小のキャンバスに移し替えられたものだ。もともと、古い壁画の修復法だが、現在では、保全の観点からオリジナルの空間に残しておくことが望ましくない場合に限って、消極的に用いられるという。このように、修復における「現地保存」の原則が真正性に結びついているのなら、支持体移動がもたらす強引な固有性の剥奪は、むしろ川田が表してきた郊外のイメージに合致する。郊外化は、各々の地域に流れる固有の文脈を一度断ち切り、ニュートラルな同質空間を拡張していくことによって、血縁社会から切り離された都市の労働者世帯向けの住環境を供給してきた。川田は、支持体移動の制作行為そのものを、こうした郊外の表象手段に転化させたわけだ。
彼が描くイメージは、都市の周縁に広がる郊外の景色の集合体ということだが、もとのモチーフは変形・合成されることで抽象化され、それらが指示する対象は何やら判然としない。空き地に繁茂する植物のような、道端の雑多な廃棄物のような、幹線道路の看板文字のような……? だがやはり、それが何であるか、観る者には確信が得られそうにないのである。彼方から届いた、読めそうで読めない手紙。具体物(名)に結びつかないシニフィアンの匿名的イメージ群は、少しくすんだ対比色の独特の色調で、郊外らしさのモードをこそ伝えている。
根無草のイメージが漂着した先のキャンバスの、グレーともベージュともつかない微妙な地色もまた、切断を表す記号だ(修復の現場において、欠損部の補彩をあえて中間色で行うことは、修復士による介入行為を後世に明示する倫理的態度とされている)。川田は以前にも、ストラッポによって剥離させた絵画層を、てろてろとしたサテン地の布と木材フレームによる架構の支持体に乗せるインスタレーションを同ギャラリーで発表しているが、キャンバス上に移し替えられた今回のイメージも同様に、一時的な仮留めのような不安定さを強調する。持ち運びに適したキャンバスという支持体を仮の宿としながらも、決して終の住処としてそこに定着することはなく、あたかも、また浮き上がって、次なる支持体(もしかすると新たな壁面)へと漂流しはじめそうな態度が漂う。中間色の上には、そのような遊離の可能性が内在している。
こうした何重もの宙吊り操作によって、漂泊するイメージは表面を横滑りし続け、いずれの基礎にも根付くことがない。それはつまり、どのような場とも完全には紐づかないことによって、いかなる社会的象徴をも担わされることのない壁画だ。川田の原点となっているのは、郊外の風景の一部でもあるグラフィティへの憧れだという。雨風に侵食されたり、消されたりオーバーライトされたりするような、流転とともにあるあり方が彼の壁画の公共性なのだろうか。
美術館の壁に架けられたグラフィティには、もはや本質的なクリティークは残されていない。額縁や閾のなかに収まり、一定の安全状態に落ち着いてしまうことは、変化を止めることを意味する。空白地を一面の緑で覆い尽くしていく、驚くべき生命力を持つイタドリやクズ——郊外には、常に動き続けながら、場から場へと種を伝播していくダイナミズムも潜んでいる。壁画と旅する川田もまた、こうした植物のごとく、さらに遠くを希求して郊外の漂泊を続けるのだろう。
参考文献:
「1floor 2015 対岸に落とし穴」展覧会カタログ, 神戸アートビレッジセンター, 2015.
田口かおり『保存修復の技法と思想: 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで 』平凡社, 2015.
はがみちこ / Michiko Haga
アート・メディエーター。1985年岡山県生まれ。2011年京都大学大学院修士課程修了(人間・環境学)。『美術手帖』第16回芸術評論募集にて「『二人の耕平』における愛」が佳作入選。主な企画・コーディネーションとして「THE BOX OF MEMORY-Yukio Fujimoto」(kumagusuku、2015)、「國府理「水中エンジン」再制作プロジェクト」(2017〜)、菅かおる個展「光と海」(長性院、Gallery PARC、2019)など。京都市立芸術大学芸術資源研究センター非常勤研究員。浄土複合ライティング・スクール講師。
川田知志個展「彼方からの手紙」
会期:2022年2月26日(土)〜
3月26日(土)4月13日(水)まで会期延長会場:アートコートギャラリー
時間:11:00〜18:00、土曜は17:00まで
休廊:日・月曜、祝日
問合:info@artcourtgallery.com/ 06-6354-5444
※作家在廊日などの関連情報はギャラリーWebサイト、facebook、Instagramにて随時案内予定
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トーク
日時:2022年2月26日(土)14:00〜15:30
登壇:奥村一郎(和歌山県立近代美術館学芸員)、川田知志
※予約制(先着20名)info@artcourtgallery.com宛に要申し込み
※参加無料