印刷物の制作プロセスやそれを取り巻く環境は、時代や社会状況に合わせて大きく変化してきた。
こと昨今のコロナ渦は、紙メディアのあり方を考え直す契機となったが、かねてより新聞や雑誌などの発行部数は減少傾向にあったように、もう少しゆっくりと進むかもしれなかった変化のスピードが速くなったととらえることもできる。
そういった状況のなかで、紙かWebかという二項対立ではなく、それぞれの特性を踏まえた上で、プロジェクトにとってふさわしいメディア・形態を模索すること、印刷物なら手に触れられるものとして、いかに物質性を生かしながらモノへ定着させられるかを考える必要がある。
また、現在の印刷物はプロセスもよりシンプルに、かつ高精細・高精度である。紙やインキといった素材、印刷・製本方法に関する情報も容易に手に入り、PCとアプリケーションがあればデザインも容易にはじめられる。その恩恵を受けて私もスタートラインに立つことができたわけだが、一方で、そうした技術の発達・プロセスの簡略化に伴い、失ってきたことも多いのではないかと感じてきた。
それはこれまで過去の印刷物を見るたびに、モノとして魅力的に感じることが多かったからだ。過去に実践されたプロセスやモノづくりの姿勢に触れ、現代のモノづくりへ生かしていくことは、印刷物の未来にとっても大切なことだと感じている。
そこで本稿では、1937年にはじまり、少なくとも1977年まで約40年間継続して発行された『プレスアルト』という異色の雑誌について取り上げたい。
『プレスアルト』とは、広告印刷物やパッケージ、包装紙などの「実物」と、その批評や印刷仕様を掲載した冊子とともに綴じ込んだ雑誌である。発行元は、当時京都の古書店・ワキヤ書房店主であった脇清吉氏が創設した事業「プレスアルト研究会」だ。
戦前発行分はすでに研究が進んでいたものの、戦後発行分はいつ終わったのか、どこに残されているか、などが謎に包まれた状態であったという。しかし、2015年に大阪中之島美術館(今年2月開館、当時は準備室)の収蔵庫にそのほぼ全号収蔵されていることがわかり、そこから4年をかけて調査・研究が進められた。
2018年には、その成果として、大阪府立江之子島文化芸術創造センター(以下、enoco)にて、展覧会「プレスアルト誌と戦後関西の広告」が開催。また2020年には、各分野の研究者による論考をもとに『開封・戦後日本の印刷広告:「プレスアルト」同梱広告傑作選〈1949-1977〉』が創元社より発行された。
ここでは書籍の執筆者のひとりでもあり、前述のとおり『プレスアルト』を収蔵している大阪中之島美術館の学芸員・北廣麻貴さんにインタビューを行い、収蔵に至る経緯や制作方法などのお話を伺った。
Q1.まずは、大阪中之島美術館に収蔵された経緯、また「開梱」することになったきっかけについて教えてください。
北廣:『プレスアルト』は複数年度にわたる購入により収集しました。大阪中之島美術館開館前にも、個々の作品を展示する機会はあったものの、まとまった研究には至っていませんでした。その後、2016年に同志社大学社会学部の竹内幸絵教授らのチームにより、本格的に整理・研究が開始されましたが、不明点も多く、まずは基本的な整理作業から着手することに。全体像を把握するためにも、どのような広告が収録されているか調査が必要ということで、『プレスアルト』が収められた箱が、あらためてひらかれることになりました。
Q2. enocoでの展覧会では、どのような反響や発見がありましたか?
北廣:幅広い層の方にご来場いただきました。特に印象的だったのは、世代によって、広告を懐かしいと感じる方、生まれる前の時代に存在した広告のデザインが新鮮で面白かったと感じる方がいらっしゃったこと。また、「ほかの広告も含めて、細かく内容を見たかった!」というご意見も多く、『プレスアルト』を研究することへの可能性を感じましたね。
Q3. 広告印刷物やパッケージ、包装紙などの「実物」を綴じ込むという『プレスアルト』の制作方法は、ほかに類を見ない特徴だと思います。事例集としてなら印刷物を複写して頒布することも可能だったかと思いますが、「実物」にこだわった理由はなんだったと思われますか?
北廣:それは、『プレスアルト』が広告印刷物の最新の見本帳としての役割を担っていたからだと思います。『プレスアルト』は一般販売されておらず、会員限定で配布されていたんですね。主な会員は、企業の宣伝部員、印刷会社の企画部に所属の企業内デザイナー、独立事務所を構えるデザイナー。当時は、現在と比較しても、他社の広告を研究することは簡単なことではなかったと思います。デザインや印刷技法の情報がまとめられ、さらには、現物が付くことで当時としては重要な役割を果たしていました。
Q4. 本誌のために製作されたサンプルではなく、流通する印刷物そのものというのが「生きた広告」としてのリアリティがあり、それゆえに当時の広告・デザイン・印刷、そして社会の変遷を知る上で貴重な資料になっていると思います。ただ第三者がまとまった数量を確保することは、当時においても相当難しかったのではないかと想像しました。私は印刷会社に所属していますが、クライアントや関係者以外の方に多くを渡すことはハードルの高いことのようにも思います。実際にどのように収集されていたのでしょうか?
北廣:広告印刷物は、「プレスアルト研究会」を主宰する脇氏が、実際に広告主を訪ね歩いて収集していました。しかし、事業を開始した当初からスムーズに広告印刷物を集められたわけではなかったようです。ただ事業を継続するなかで、次第に、印刷会社ではなく、会員である製作者本人から積極的に提供されるようになりました。脇氏から提供の依頼があった場合と、自発的に提供された場合がありましたが、会員の互助制度が成立していたと言われています。また、のちに脇氏を回顧する文章のなかで、東京でも『プレスアルト』を参考に同じような事業を試みた方がいたが上手くいかなかったという話が出てきます。『プレスアルト』は脇氏だからこそ賛同者を獲得して、広告の収集につながったとも言えるでしょう。
Q5. 私もenocoでの展覧会ではじめて『プレスアルト』の存在を知りましたが、展覧会を鑑賞した後、大阪中之島美術館が開館したらもっと多くの方々に知っていただける機会があればいいなと感じました。今後そういった機会や場を持たれることはありますでしょうか?
北廣:2018年の展覧会では、「医薬品」「百貨店」「家電」など分野を切り口にして、『プレスアルト』をご紹介しました。しかし、『プレスアルト』はさまざまな角度から研究できる資料だと感じています。これまでにも、特定のデザイナーに関する作品についての調査依頼をいただいたこともありました。『プレスアルト』に収録された広告は、当館にて3月21日まで開催していた「⼤阪中之島美術館 開館記念 Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―」もですが、4月9日から開催する「開館記念展 みんなのまち大阪の肖像」展で一部展示する予定です。今後も『プレスアルト』や同時代の広告文化を幅広くご紹介していきたいと思っています。
脇氏はグラフィックデザイナー・山名文夫氏に宛てた手紙に、さりげなく「プレスアルトは生活のためなのです」(『開封・戦後日本の印刷広告:「プレスアルト」同梱広告傑作選〈1949-1977〉』[創元社、2020年]p.24)と書いたそうだが、当然ながら実現するには発行者の強い使命感や熱意と、多くの同士や協力者が不可欠であり、さらにそれが関西を拠点とした取り組みだったことには勇気づけられた次第であった。
終刊から半世紀近く経た今も、私たちがその活動の軌跡を知ることができるのは、40年もの間継続して発行し続けられてきたという事実と、それを収蔵してきた施設、そして調査・研究が進められたからこそである。
当時の印刷物はどの工程においても、現在よりも多くの時間や労力をかけてつくっていたことは想像に難くない。一方で、現在は過去と比べてはるかに便利に、より自由になったようでいて、創造性や表現がアプリケーションなど環境のなかでできることに限定されていないだろうか。また、分業が進んだ結果として、自分が受け持つプロセス以外が見えなくなり、その前後のプロセスの知識や関心、そこに従事する人への配慮や想像力が不足していないだろうか。自身への問いかけとして、そのようなことをあらためて考えさせられる機会であった。
『プレスアルト』が体現しているように、印刷物は先人がつくってきたものを今生きる私たちが参照することができ、人の一生よりも長く、時代を超えて残る可能性があるプロダクトである。
今まさにつくっているものがソフト・ハードの両側面において、そういった時間に耐えうるものなのか、私たちは今一度足下を見つめ直して、生きている人のためであることはもちろん、まだ見ぬ未来へも投げかける射程を持ちながらつくっていきたいと感じた次第である。
参考:『開封・戦後日本の印刷広告:「プレスアルト」同梱広告傑作選〈1949-1977〉』(創元社、2020年)
※書籍の正式な表記は以下
開封・戦後日本の印刷広告 『プレスアルト』同梱広告傑作選〈1949-1977〉
芝野健太 / Kenta Shibano
グラフィックデザイナー、印刷設計者。1988年大阪生まれ、2010年立命館大学理工学部建築都市デザイン学科卒業。ノマルを経て、現在、株式会社ライブアートブックスに所属。美術や建築にまつわる広報物や作品集・アートブックなど、印刷物のデザインから印刷設計・工程監理までを一貫して手がける。
http://www.kentashibano.com/