「世界には、私という穴があいている」。アーティストの土屋咲瑛が、さまざまな方法を駆使して、私たちに示そうと試みる世界は、この不思議な概念からはじまる。人間であるはずの“私”は、物性をもつ存在であり、空洞であろうはずがない。しかし、この奇妙な“存在の捩じれ”のような感覚の上に、そもそも土屋が生み出す芸術が成り立っている。自分が、世界にあいた穴であるとは、あなたはいったい何を言っているのか?
土屋咲瑛(1999年大阪生まれ)は、尼崎市が同市出身の具体美術協会の画家・白髪一雄にちなんで設けた白髪一雄現代美術賞の第3回の受賞者である。その受賞者には、尼崎市が運用する現代美術の展示施設A-LABでの個展開催が用意されており、同受賞に際して開催されたのが「→第4の壁」と名づけられた展覧会であった。
「第4の壁」とは、演劇などで使われる用語で、舞台の左右両側と背後の3つの壁が演劇の虚構空間を形づくるのに対し、観客と舞台との境目、つまり舞台正面にもうひとつ見えない壁があるとして、その透明の壁のことを「第4の壁」と呼ぶ。この第4の壁が、特に意味を帯びるのは、虚構を演じているはずの俳優がその壁を越えて、観客に声をかけるときだ。虚構の合意が崩れ、演劇の時空に大きな歪みが走る。
土屋は自画像を描くときの不可解さを語る。彼女によれば、自分で自分の顔を見ることができないのに、小学校の先生はなぜ自画像を描かせたがるのか疑問だったという。確かに、自分が眺める視界において、唯一見ることができないものが、自分の顔である。彼女は、自分の顔の前には第4の壁があり、自分が見ている世界のなかの視点では、自分は、その第4の壁によって消されている存在だと考える。自分は“穴”であると彼女が語るのは、そのためだ。
落語「あたま山」——自分が見ることができない頭の上の桜の木
今回の展覧会で最も大きなスペースを占めるルーム1において、土屋は、落語「あたま山」から着想を得た作品《そら音『あたま山』》を展示した。ガランとした空間の入口近くに三脚に設置された1台のテプラ機があり、そこから、テキストを印字した1本の長いテープが吐き出され、部屋全体を巡るように3面の壁に貼られている。その長さは、おそらく十数メートルにおよぶ。

落語の「あたま山」は、古典落語の奇想話としてよく知られている話である。サクランボの種を飲み込んだ男が、翌朝起きてみたら自分の頭の上に桜の木が生えており、その木を巡って奇想天外なストーリーが展開する。春になると大勢の人々が花見をしに彼の頭の上に押し寄せ、木を切り倒した跡の穴が池になると、人々は舟を浮かべて遊び、ついに男はその喧騒に耐えきれなくなって頭の上の池のなかに身を投じてしまう。よくもここまで荒唐無稽な話が古典落語の演目として語り継がれてきたものだと、感心させられてしまう。
土屋の自画像の話と同様、本人は頭上に生えた桜の木を目視できないし、また他人のように花見の宴に興じることもできない。まさに彼の頭上で展開する状況は、彼の認識のなかでは空洞のように欠落した存在だ。しかし土屋の作品は、さらなる認識の拡張へとつながっていく。
展覧会で配られたハンドアウトに、本人の言葉として下記のようなテキストが記載されている。
誰しも自分というものを持っているものですが、その端というのはどちらまででしょうか。手の端、足の指の端でしょうか。私は視界の端、無音の端、感覚の端、そこまでが自分であり、そこからどうしようもできない自分の内側の始まりこそが、手の端や足の端であると感じます。この考えにおける私とは、ぶよぶよぐるぐると内外すら毎秒更新される、不可分なもので、そのあり方は私にとってすごく自然に思えます。【1】
自分自身の存在の認識において、“私”は、視覚や聴覚などの感覚が感じとる事象にまで拡張されていると感じるという。そして、思考する自身の身体は、認識した状況の一部に過ぎない。このように“自分の範囲”をかなり特殊な意識でとらえる視点は、本人も認めるように、哲学者・西田幾多郎の主体/客体の関係を包含した“場”に関する論考を髣髴させる【2】。そうした認識の下での自分は、「ぶよぶよ」「ぐるぐる」と不確定な存在であり、他方、手や足といった肉体的な身体は「どうしようもできない」ほど確定的なものとなる。

作品《そら音『あたま山』》が示す壁の上を延々と続く1本の長いテプラのテキストは、カフカの《変身》を思わせる主人公の独白によって、朝起きたら頭に木が生えたことや、それを抜いてできた穴に水が溜まっていることなどを淡々と語っていく。その主観的な経験の延長として、主人公はどうやらまちに出て散策をはじめたらしく、次第にテキストは、まちのなかのさまざまな出会いに対する視覚的な感応の、とりとめのないダラダラとした記述となっていく。つまり物語の“私”が景色のなかへ「ぶよぶよ」と拡張していくのだ。主人公は主観と客観が「ぐるぐる」循環するループに嵌り、最後は頭の上の池に身投げして、自身を消滅させてしまう。主観から客観への変異と混合。それは、主観に客観の“肉”を与えようとする“究極的に無駄”であることを承知の上での試みなのかもしれない。
土屋の芸術において、“不在”は極めて大きな意味をもつ。自身の顔の“不在”。第4の壁の“不在”。落語「あたま山」の自己消滅という“不在”。“不在”は、存在の裏返しとして、存在を理解するための重要な手がかりとなる。しかしここで確認しておきたいのは、そうした“不在”に惹かれる彼女の意識が、単なる関心のありかで終わってしまわず、芸術へと転化させる意志となっていることだ。本展のタイトルは、「→第4の壁」と記述するのが正しいが、この「→」は、まさに思考を芸術へと転化させるベクトルとしての意味を帯びる。
“不在性”の美術、そしてその視覚性
“美術“において“作品”を成立させるには、どうしても視覚的な表現が必要となる。一方、“不在”とは、存在しないことであり、つまり不在そのものを視覚化することはできない。
土屋の作品の全体には、こうした“不在性”が、絶妙な風合いで漂う。まず、色がほとんどない。展示全体を見渡せば、ほぼモノクロの世界で、時折、緑がアクセント的に使われるのみだ。また、何かを表象するようなイメージもほぼ現れない。展示全体において、視覚的に意味をもつ形象は、文字と記号のみだ。この視覚における、徹底した抑制は、何かが“無いこと”の表現であることと間違いなく連動しているだろう。その上で、場を“美術”として成立させるための、極めて興味深い仕掛けが随所に施されている。

まず注意が向いたのは、受付前のロビー空間に天井から吊り下げられた手描きの館内地図のパネルである。天井から床へとテンションをかけたテグスで中空に吊られ、パネルの表面と裏面の両側に地図が記されているのだが、その一方が鏡面反転されていて面としての視覚性が強く意識される。そしてそれが吊られている位置が、ちょうど天井と床の構造的な区切りと一致しているため、その空間に、まさに「第4の壁」を想起させる“透明な”間仕切りのような壁が浮かび上がる。
また、壁面に貼られた1本の長いテプラのテープは、特に意味もなく直角に折れ曲がったりするのだが、その直角の折れ曲がり方が、この部屋の扉にもともと意匠として施されているクロームメッキの線の装飾とどうも呼応しているようなのだ。こうした周辺との微細な呼応は、作品のディテールにまで及ぶ土屋の意識のありかを示す証左となる。
しかし最も驚いたのは、テプラから吐き出されるテキストの向きである。展示では、テプラから打ち出されたテキストを読む方向が、テープの最後の部分(つまりテプラから端が出ている部分)を先頭に、左へと進んでいく。いや、何かがおかしい。本来テプラで打ち出されたテキストのはじまりは、機械から一番遠い地点であるはずだ。つまりここで土屋は、十数メートルにおよぶテプラのテキストを、最初の1文字から最後の文字へとすべて逆打ちしているのだ。それは目で見ることができないテプラの操作手順の“ルール”を、可視化するものでもあった。
ルールあるいはシステム——“個”を“無”へと向かわせるもの
ルール、あるいはシステムは、土屋の芸術において、もうひとつの重要なテーマとなる。

ルーム1の壁面には、横長の白いテント地でできた作品《回路・プラスティック30×5(1)》が、屋外に掲出される宣伝バナーのように四隅を紐で引っ張られた形で展示されている。その上には、細かく区分けされたマス目の中に〇や十字などの記号が書き込まれた迷路のようなものが印刷されている。そこに書かれている謎めいた記号の集合は、土屋によれば、彼女が考案したペンシルパズルなのだという。ペンシルパズルとは、鉛筆などで数字を書き込んだり線でつないだりして解いていくパズルのことで、数独やクロスワードパズルも含まれる。パズルということなので、ルールが存在し、正しい解を得ることができるらしい。
ルールが自分におよぼす作用について、土屋はとても興味深いことを言っている。
私が想定されていない何かのルールの気配は、私を無視し、私の形を模(かたど)らない。そのような時には、自分の存在が心地よく薄れていくのを感じる。【3】
パズルやゲームのルールは、“私”にお構いなく存在する。“私”に合わせてくれることもない。どこまでも無機質で、また誰にも等しく作用する。土屋は、そうしたパズルのルールを受け入れ、それに没頭し、意識を委ねることで自分の存在が「薄れて」いくのを感じるのだという。そしてそれが心地よいのだとも。
何かに集中しているときの、心の充足とその心地よさは誰もが容易に思い浮かぶ。しかし、土屋がここで言っている感覚は、それとは少しズレがあるようだ。
たとえば土屋は、ニュータウンと呼ばれる大きな団地のなかを歩いているときの経験を例としてあげる。団地は限られた土地に人間を最も効率良く、またできるだけ幸せに住まわせることを目的に計画され、建てられている。住居として同じ規格の箱が最も合理的な形で並べられ、人の導線や交通の利便性も最大化されて考案される。個性は優先されず、人は、集中的にコントロールされる集合物として想定される。それを人間性の疎外と言うこともできよう。しかしどうも、土屋にとって、それは逆に、既存の関係性から解放されたリミナル(境界的)な場として感じられているようなのだ。ニュータウンを歩いていると「身に覚えのない郷愁、浮遊感、迷路のような感覚」を感じるという。一見殺伐としたニュータウンの佇まいは、身を委ねることの“安寧”を許容するシステムの体系であり、そこで人は個であることを辞め、無へと向かう。
システムやルールは、無機質にかつ絶対的に人の個性を包含し、それを無効化あるいは不在化させるものであるからこそ、逆にその人の存在の輪郭を浮かび上がらせる。こうしたパラドックス的な思考が、土屋の作品制作のテーマとなって示される。具体的にそれらは、編み物とビデオゲームだ。
システムとしての編み物、メディアとしてのゲーム
編み物は、まさに規則性によって毛糸を編み込んでいくルールとシステムの産物だ。そして編み物をする行為に没頭すること自体が、その目的となっている場合が多々ある。そうしたリズムのある単純作業に没頭することを「フロー状態」と言うらしい。土屋にとっても編み物は「自分の存在が薄まっていくことの心地よさの瞬間」が感じられるものとし【4】、“私”の消失が、その輪郭を意識させる瞬間を生み出すのだろう。
土屋はシステムとしての編み物の考察をさらに深化させる。その試みは、今回和室に展示した、非常口のマークをテーマに制作された一連の作品群《網膜》で示された。
まず、作品が展示された和室の入口には、非常口のマークを10×10のドットで表現した小さな編み物が掲げられる。室内には、その10×10の各升目を別の位置へ移し替える指示を示した6つの「ルール」が、額装されて展示されている。この行と列に適用される升目を移動させるルールは、かなり複雑なものらしいが、土屋はその6つのルールを10×10のドットでできた非常口マークの編み物の行と列にランダムに適用し、その結果出来上がった編み物を、和室の床の間に飾った(《網膜(非常口誘導灯)》)。床の間の編み物は、オリジナルの10×10のドットの部分が消失して四角い穴となり、代わりに周囲の上下左右に、無慈悲に引き延ばされた手や足のような恰好で升目が追加されている。それは、システムとして生み出される編み物の様態を、過剰なまでに極大化したものであった。また同時に、手作業の身体性を色濃く残したまま、まるで磔刑のような形状を帯びて壁に貼り付けられていた。
土屋にとってビデオゲームは、まぎれもない“第4の壁”であるゲーム画面を通し、自身を“無”へと転化させてくれる手段、いや“場”であるに違いなく、本人も非常によくプレイすると語っている【5】。武器を持つ自分の手が画面に見えるシューティングに至っては、第4の壁は、まさに網膜そのものとなる。土屋の芸術の文脈において、ビデオゲーム機は、“向こう側”のシステムと“こちら側”の自分の領域とをつなぐ、最も身近で手軽な接点であるのだろう。本展において土屋は、そうしたゲーム機を、システムを暗喩するメディアとして用いている。
倉庫と呼ばれている少し階段を上がった屋根裏のような狭い部屋の壁に、5台の小さなポータブルゲーム機が設置され、その小さな画面のなかでそれぞれ位相が異なる映像が映し出されている。映像は3種類あり、1台は土屋が考案したペンシルパズルが解かれていく画面、もう1台は映像が合わせ鏡のように奥へと無限にループしていく画面、そして残り3台は線のドローイングによるアニメーションである。線のアニメーションは、画面にRPGゲームのプレイ中に出てくるナレーション・ウィンドウと同じ仕様で、リズミカルな電子音とともに字幕が打ち出され、大まかな場面描写が行われる。描かれるのは、展覧会の会場に座る監視員の姿や、パーティでの立ち話中に自分がその場の話題から消えていく状況などだ。ここでも、“存在しているのに、あたかも存在していないこと”とされる不在性への、土屋の強い関心が示される。展示に使われたゲーム機は、かなり古い世代のモデルをあえて探し出してきて使用しており、ゲームと接してきた鑑賞者の個人史と向き合わせ、内省を促すような、さりげない仕掛けがなされていた。
地図の3つのレイヤー “私”を見ている“私”に見られている自分
土屋が試みる芸術において、“地図”は、特別な意味を帯びる。
土屋は、地図を、非常に不思議なものだという。一般的に地図は、地面の場所を図に移し直したものとして理解され、何ら不思議なことはない。しかし、彼女は、地図上で目的地を見つけようとのぞき込んでいる“私”と、その地図で示されている場所にいることになっている“私”、そしてその地図を見ている自分を背後の上空から見つめている“私”の、3つの“私”の視点を考えざるを得ないという。地図を見る主体の視点は、その3つのレイヤー間を絶えず循環し、無限のループに陥っているというのだ。一見、荒唐無稽にも思えるが、冷静に考えれば、地図上の視点と、地図をのぞき込む視点、そして広大な地面を俯瞰的して地図を成立させる視点の3つは確かに存在する。それは普段は別々の文脈でとらえられているがために、お互いが連関し合って不思議なループを形成しているとは、誰も思わないだけだ。
本展で展示された作品《地図を見る私に見られている》は、地図にまつわるこうした土屋の独特の視点を、立体的に構造化した興味深い作品である。作品は、透明の引き出しが10段ほどついた事務キャビネットと、複雑に入り組んだ線からなる迷路のような縦長のドローイングで構成される。この迷路のような大きなドローイングは、テント地に印刷されて天井から吊り下げられたもののほか、サイズも配置も全く同じドローイングが、部屋の背後、正面、さらに外の廊下の3つの壁面に直接描かれ、それらがレイヤーとして存在していることが強調される。

キャビネットの透明な引き出しは、バラバラな位置に無造作に引き出されていて、よく見るとそれら複数の透明の引き出しの上下の間を、黒く太い一本の紐が、引き出しに開けられた穴を通って縦横無尽に這っている。上からのぞき込めば、透明な引き出しのレイヤーを通して、紐が幾層にも重なった形状を示す。一方、正面から見ると、1本の線がうねうねとレイヤーを自在に通過している様子がわかる。実は、周囲に掲示された大きなドローイングはキャビネットを真正面から見た図なのだ。この床置きのキャビネットを真正面から見るというある意味希少な視点が、周囲の大きなドローイングと接合することで、地図を複数のレイヤーから構成される視点の無限ループととらえる土屋の思考が、形となって現れてくる。
公共の施設に館内マップはほぼ必ずある。このA-LABでも館内に掲示されている。地図をレイヤーととらえる土屋が、この施設で自身の芸術を物理的な面として展開するにあたり、実際の展示と館内マップのレイヤーの連関が生み出す入れ子構造を見逃すはずがない。
展覧会の冒頭で吊られていた館内マップは手描きのものであったが、土屋は、A-LABの館内マップを実際の仕様のまま16枚複製し、それを10メートル以上におよぶA-LABの廊下に一列に連ねて貼り付けた。館内マップであるから、そこには現在地を示す赤い三角マークが記載されている。そのマークは、正確にその地図の場所を示すものであるため、連続した16枚のなかで少しずつ前に進む。それはまるで、廊下を歩く鑑賞者を追ってくるようだ。土屋の地図に向けられた意識が、見る者の経験となる。壁面に延々とリフレインし続ける地図は、マルチプルな形で多次元化した存在の“指差し”によって、感覚の端まで「ぶよぶよ」と拡張しきった“私”を、 “私”として留めるためにそこに掲げられていたのかもしれない。
掴もうとしても別にどこにもない自分の形をイメージするために、何かがないことでそのものたり得ているものや(中略)、決まった形ではない自分の形状が意識できる瞬間(中略)に関連するものをいろいろと巻き込んで、その中央を指し示そうとしました。【6】
土屋がハンドアウトに寄せた、本展を的確に物語る言葉である。この展覧会については、賛否があるのかもしれない。美術の展覧会であるのに、イメージがない。色彩もない。見たところ簡略化されたメモのような線描と、文字と記号からなる集合体だ。しかし、土屋が作品を通して“指し示そう”と試みるものは、私たちの日常の裏側に貼り付いた普段気にもとめない事象や概念の特殊性だ。それを探り当てるのは、彼女の卓越した感性である。向き合うものが“日常的なる非日常性”という矛盾であるからこそ、日常の手垢にまみれた既存の展覧会のフォーマットは、彼女の芸術にはまったくそぐわない。土屋はそれを実現するために、美術を文字の世界へと還元させる試みに取り組みはじめているようにも思える。土屋の展示の白さは、間違いなく文字の余白の白さでもあるのだ。本展は、そうした可能性を十分感じさせるほどの独創性と芸術の高みを示すアーティストの存在を、私たちに知らしめるものであった。
【1】土屋咲瑛「→第4の壁」展(会場:A-LAB 会期2026年5月2日~6月28日)で配布されたハンドアウト「ステートメント」より
【2】展覧会に際して行われた「作品解説会」(2026年6月7日)での本人の発言より。西田幾多郎の関連しうる論考については『行為的直観』(1935年)などがあげられよう。西田は、これらの論考を通して、環境が自己の身体となり、自己の身体が環境となる(環境の身体化)といった概念を示している。「我々が世界の中にあり、世界が我々の中にある、我々の自己限定が世界の自己限定であり、世界の自己限定が我々の自己限定である」(『行為的直観』)など。
【3】上記ハンドアウト「ステートメント」より
【4】上記「作品解説会」での本人の発言より
【5】上記「作品解説会」での本人の発言より
【6】上記ハンドアウト「ステートメント」より
大島賛都/Santo Oshima
1964年、栃木県生まれ。英国イーストアングリア大学卒業。東京オペラシティアートギャラリー、サントリーミュージアム[天保山]にて学芸員として現代美術の展覧会を多数企画。現在、サントリーホールディングス株式会社所属。(公財)関西・大阪21世紀協会に出向し「アーツサポート関西」の運営を行う。
A-LAB Exhibition Vol.51
第3回白髪一雄現代美術賞受賞者個展
土屋咲瑛「→第4の壁」会期:2026年5月2日(土)〜6月28日(日)
会場:A-LAB
時間:10:00〜18:00
休館:火曜 ※5月5日(火・祝)は開館し、5月7日(木)は休館
料金:入場無料















