国立国際美術館で2024年10月6日(日)まで開催されている梅津庸一の個展「クリスタルパレス」を観た。展示されている作品数は569点。作品リストに掲載されていない壁紙のようなテキストの展示も合わせれば、600点は超えるだろう。映像は端折りながら観たが、全部で4時間半かかった。その体験は、展覧会として用意された何かを知覚するのでなく、そこに身を置くその実時間を、作家の“生”と共時的に接続できるか否かを迫る、長大な「問い」であったように思う。
この展覧会はまず、タイトルからしてその立ち位置がおぼつかない。「クリスタルパレス」とは、1851年のロンドン万国博覧会の会場としてお目見えした鉄とガラスでつくられた巨大な建築物で、その近代的な素材とイベント会場という目的からして合理性を追求する近代建築の祖とも言うべき建物である。しかし所詮、空間を鉄骨とガラスで仕切っただけの温室のような構造であり、学校や駅のように建築的な内部はない。美術館の周辺から入り口に向かって歩いて行くと、ステンレスの巨大な棒を組み合わせた、外観としては温室にも似たスケルトン構造の建物をバックに、風ではためく「クリスタルパレス」とプリントされたのぼりが視界に入ってきた。そこから、あえてこの虚ろなタイトルを持ち出して展覧会を「やろう」とした作家の意図の総体が、不穏に立ち上がってくる。
この展覧会はさまざまな点で異質である。「梅津庸一とは誰か?」。これは本展のプレスリリースの出だしだ。そもそもなぜ1982年生まれの若い梅津庸一が、この国立美術館で個展を開催することになったのか。興味がそそられるのはそこだが、それについて説明らしいものはない。その一方、果たして彼をどうとらえればいいのか、美術館側の戸惑いのようなものが展覧会の随所に感じられた。本展において美術館がどこまで内容をコントロールしたのか、その作家との境界のあり方にもいささか危うさが漂う。展示作業を圧迫する膨大な作品点数にはじまり、作品キャプションのかなりの量が、追加的に直接壁へ手書きされていた。
既存の土俵でものを考えざるをえない美術館と、美術史や美大、陶芸、版画といった「制度」を混ぜ返し、そのなかに一筋の希望のように自らを貫き通してきた作家との間に、意識やコミュニケーションのズレがあったのか? 美術館の説明では、この展覧会が意図したものは、いわゆる回顧展ではなく、「人がものをつくる」行為の意味を考えてもらうことだったという。狂気のような振る舞いで「つくる」ことに突き進む梅津の姿を念頭においてのことなのだろう。しかし、この展覧会が実際に美術館の空間で解き放っていたものは、どうしてもそこに収まらない。いや、実はこの違和感こそが、梅津の狙いだったのかもしれない。彼は、強固な“制度”の内部に入り込み、個の創造性をぶちまけるようにして、それを臨界まで膨張させ、別の存在へと変異させようとした。結局彼は、この展覧会でも“再び”それを試みた。つまり、そういうことではなかったか。
展覧会の冒頭に、彼が小学校6年生のときに描いた一枚の風景画《校庭から見える風景》が掛けられている。そこに見られる卓越した色彩や、色を点として置くことで畑や畝の形象を表していく造形的な感覚が、その隣にある鶏の死骸を描いた完璧なまでに写実的な静物画の超絶的な技法へとつながっていく。その流れのなかから、梅津の名を広く知らしめることになるラファエル・コランの作品に依拠して制作された《フロレアル(わたし)》が生まれたことが容易に理解される。
ラファエル・コランは、19世紀フランスのアカデミズム絵画を日本の洋画の礎・黒田清輝に授けた画家として知られる。いわば日本の洋画の遺伝子そのものである。梅津は、《フロレアル(わたし)》のなかで、床面におだやかに寝そべる自らの美しい裸身をコランの絵画の化身として描いた。そうすることで、黒田から現代の画家に至る日本の絵画史を形成してきたある種の“ゲーム”のキープレイヤーになりうることを示そうとした。そして実際に彼は、この作品によってそれを見事に実現した。そこには小学生時代から自身に備わる画家としての卓越した才能への自覚があっただろうし、その才覚がこの国の“美術制度”において彼の正統性を裏づける担保となって機能した。
しかし突如、そこに亀裂が生まれる。美術制度に“乗る”ことへの懐疑として浮かび上がる亀裂だ。展覧会には、梅津が黒田清輝の《智・感・情》を踏み台のようにして制作した、東京都現代美術館が収蔵する彼の代表作のひとつ《智・感・情・A》が展示されている。そして、その背後の壁面に、「黒田清輝」という言葉を中心に「ヌード」「西洋」「あなた」「権威」といった言葉がちりばめられ、空間全体を威圧する不穏な影のように、制作と同時期に秘かに描き続けていた自己セラピー的なドローイングが、拡大されて壁紙のように貼られていた。それは、彼のタブロー作品が醸し出す印象とは真逆の、混乱した心境を暗示するものであった。
これらドローイングの原画は、《智・感・情・A》が展示された場所のすぐ直前の壁面に、丁寧に額装され整然と展示されている。“誰かに見せることを意図して描かれたものではない”ドローイング群は、思いついた言葉やイメージ、あるいは不安や葛藤をそのときの渦巻く感情のまま描き出したような、明らかに自己参照的なもので、鏡を見ながら自身を描くセルフポートレートに近いものであっただろう。そこから、梅津にとって絵を描くこととは、自らが自身に寄り添い言葉をかける癒しやセラピーのような意味をもつものであったことが想起される。それは画面に横たわる彼の身体の美しさへと意識が引きつけられていく微弱なナルシスムとも呼応するものだ。
そうした自己参照的な営みが、美術制度によって支えられていたはずの彼の自我からあふれ出していく。次第にコランのアカデミズムの応用性がさまざまな箇所で破綻しはじめ、ついに否定へと転じていく。その転換点を最も象徴的に示す作品が、《不詳》と題された小さな正方形の水彩画による一連の作品群だ。
これらは、2013年から介護施設の夜勤職員として働きはじめた梅津が、わずかな休憩時間中に、鞄へ忍ばせた小さな板やスケッチブックなどに描いたものだという。1辺が数十センチの画面に、軽やかな筆致で線描が為され、その上に水彩で色が加えられていく。何かを描写するのではなく、何かに導かれるように生まれる線。そこに、内面の心の襞(ひだ)に呼応するかのような、複雑で深い趣を湛えた色彩が重ねられ、画面に命が吹き込まれていく。たぶんそこには、計算も戦略もなく、ただ描くことで提示される生の軌跡のみが存在する。自由で解放的に描かれた同じような作品はほかにいくらでもあるのに、なぜこれらが見る者を惹きつけて止まないのか。まさに珠玉と呼ぶにふさわしい、梅津の新たな境地を象徴する作品であった。
ここから一気にすべてが逆転する。梅津は、自らを制度から離脱させ、創造の淵の底なしの深みへと降りていく。ゼロ地点に立ち、制度の高みを仰ぎ見ながら自らの存在の証として表現活動に驀進していく。それはある意味究極の自己参照によるセルフポートレートでもあったのだろう。細かな点を集積し、長い時間をかけて一つひとつの形や色を浮かび上がらせるように、入念に作品を仕上げていく従来の手法は姿を消す。代わりに、身体的な筆の運びや滴るような色面によって、即興的に、素早く、そして大量に作品を生み出していく方法へとドラスティックにシフトしていく。
そのゼロ地点で梅津が取り組んだ活動のひとつが、教育的な趣向を孕んだ美術の私塾的な予備校「パープルーム」の活動であった。美術の制度のなかで生きることを考えれば、当然、その生き方、あるいは方法が問題となる。その方法論とは、つまり教育のことだ。彼は自宅に美術と関わろうとする(あるいはそれを受け入れる)若者たちを招き寄せ、主宰としての役目を担いながら共同体として彼らとともに作品制作や展覧会などを行っていく。そこで試みられたのは、美術の“別の可能性”だ。新たに生まれる思考、実践、制度もしくは生態系。それを引き起こす起点のメタファーとして彼は自身を「花粉」に例えた。受粉によって分布を広げる植物の生命連鎖のイメージだ。
おそらく、その表象や形態がことごとく一般を逸脱したものであるがゆえに、「パープルーム」の展示では、テキストや活動風景などをシートに出力して直接床や壁に貼りつける番外編的な手法がとられた。鑑賞者が靴で踏みつけるフロアには、制度の“外の人”としてのポジションをとる梅津によるSNSのテキストなどが、さりげなく、しかしかなりの分量で配置される。そこには「アートの現場では学閥やキャリアがことさら重要視され」、「美術大学出身でないものを『独学』で、と強調する習慣」を持ち、「自らの既得権益を守るためにほとんど無自覚的にアートシーンを狭め、部外者の流入を制限し、抑圧し続けてきた」【1】制度の既得権者たちの振る舞いと歪みを辛辣に指摘するテキストがちりばめられる。展示において、見過ごされること、踏みつけられることを想定したその状態そのものが、梅津が見ている美術制度の眺めを象徴的に示しているかのようだ。
そして突然、梅津は陶芸に身を置くことになる。次の展示セクションは、いきなりこのようなテキストではじまる。「2021年の5月、梅津は滋賀県に位置する六古窯のひとつ、信楽へと移住した。作陶へと『逃避』するためだ」。テキストではその移住の理由として、コロナの閉塞感と当時「作る意欲を失っていた」ことを挙げているが、それは梅津に起こった変容においてほぼ意味をもたない。これ以降、展覧会の風景はがらりと変わる。それまで壁面に沿って水平方向にリニアに進行していた展覧会の流れは、一気に空間的、時間的なものとなり、目の前には、個々の作品の代わりに、梅津が取り組んだ“こと”が広大に続いていく。展示台が置かれ、その上に、どっぷりと釉薬がかけられた奇妙な形態の用途不明な陶器がところ狭し並ぶ。壁面は、陶器の表面に釉薬をかけるような感覚で、たっぷりと水気を含んだ溶液を画面に流したような平面作品により全体が覆い尽くされている。
展覧会内のところどころに掲出されたテキストや映像を見ていくと、梅津は何ら陶芸の予備知識がないまま、陶芸に身を投じたことがわかる。現代美術アーティストの振る舞いのひとつとして、陶芸もやってみる、というスタンスが今や当たり前となりつつあるが、梅津の場合、滋賀に生活の基盤を移しており、それによって放棄することになった活動は決して少なくなくなかったはずだ。「パープルーム」もその主宰が不在となる。
ここで梅津は、陶芸を形づくる原初の領域を探り当てるべくその内部へと沈降していく。陶芸は地域の経済を支えるものであり、作陶を担う工房や職人のみならず、材料、物流、販売などが有機的に絡み合いながら営まれる。それはつまり、創造的行為の結果生み出される陶芸が、いかに経済的な価値を帯びて社会へ還元されるかという問題であり、それはそのまま現代美術の作家たちが、美術制度という既得権益的な構造をもつ“ゲーム”のなかでいかに健全に生きていけるかという問題とも直結する。
つまり陶芸に自らを没入させることは、梅津にとって、自身が存在していることを確かめ、その実感を成立させるために必要なセルフポートレートであったのではないか。作品が“個”ではなく“群”となって迫ってくる展示を眺めながら、どうしてもそう感じてしまう。そのことを梅津は、ある時点から芸術の“実践”を通して獲得することを理解し、その実践を相当な覚悟とともに自らに課すようになった。洋画を志す上でその原点であるラファエル・コランや黒田清輝に立ち返り、畏れ多くもそれらを直接踏み台にし、美術制度を考えるにあたり、制度の影響を受ける前の若者たちと一緒に制度の外側での美術の可能性に取り組んだのも、結局は同じ理由ではなかろうか。そして梅津が行う実践は、常軌を逸した苛烈な形をとる。
それは版画においても起こった。2023年4月に梅津は初の版画による個展「遅すぎた青春、版画物語(転写、自己模倣、変奏曲)」を開く。本展に掲出された同展チラシのテキストによれば、その1ヵ月少し前まで、彼は版画を手がけたことがなかった。彼は版画工房のスタッフの手助けを得ながら、銅版画、リトグラフ、アクアチント、モノタイプといった技法をいちから学び、そして約250点の版画を展示するという離れ業を成し遂げる。
その間彼は、文字通り版画工房のなかで暮らし、制作に明け暮れた。版画を自分なりに内面化するため「版画というメディウムを一時的であれ全面的に信頼し身を預けなければならない」【2】との切迫感に駆られてのことだった。窯で焼かれて生まれる陶器と同様、プレス機で刷られたものはすべて作品となった。シンナーでインクが落とされた版もユニークプリントとして再利用された。そして驚くべきことに、梅津は、その1ヵ月後にその続編的な個展「プレス機の前で会いましょう 版画物語 作家と工人のランデヴー」をその勢いのまま開催する。本展の展示は、細長いコリドーのような空間全体の壁に、すべて工房で刷られた明るく瀟洒なタイル模様のリトグラフが壁紙として貼られ、そこに見る者の意識を圧倒する量の版画が並べられた。それはまさに”版画”にすべてを委ねた梅津が生きた時間そのものへと、共時的な移入を迫るものであった。
「正直に言えば作れば作るほど己の美術家という主体も、拠って立つ美術自体への信頼も揺らいで崩れていくのを日々実感している」【3】。版画に紛れて掲出された版画展のチラシのなかで梅津はこのような心境を吐露している。生活の基盤を含め全霊を傾けて美術家としての生き方を全うしようとする梅津には、常にこうした自己言及的な苦悩や疑念がまとわりつく。それは本展で至るところに見て取れた。内省的な感覚においても、美術家としての社会的な立ち位置的にも、それは自己の存在を”実践”の感触によって確認しようとする希求の現れにほかならない。
密やかに描き貯められてきたドローイングによる展示の一角で、彼がヴィジュアル系バンドを聞き続けてきた人間であることが、本人所有の大量のCDとともに明かされる。傍らのドローイングが自己セラピー的な様相を感じさせると同様、ヴィジュアル系の音楽もまた”救い”もしくは”居場所”として彼の傍(そば)にあったことが想起される。それは、イヤホンを通して大音量で聴くといった内省的な密やかさとともに成立する類のものだ。
展示の最後では、ヴィジュアル系バンド・DIAURAがこの「クリスタルパレス」展に際して作詞・作曲した楽曲「unknown teller」が、梅津自身が手がけたMVとともに大音量で響き渡る。それは「クリスタルパレス」という大袈裟で壊れやすそうな言葉と共鳴しながら、実践の危うさに向けた”懐疑”のカミングアウトとなって脳裏に響いた。本展は本人とって、国立美術館という強固な制度を超えた実践となったのだろうか。美術家として生きるその創造の喜びと現実との狭間の苦悩や葛藤から、何らかの解放や救いがもたらされたことを願いたい。少なくとも、そう感じることが、彼の生きた軌跡に触れた私たちの救いにもなる。なぜなら、彼の荒唐無稽とも思える熾烈な生きざまが、すぐれた芸術として価値を帯びはじめているように感じるからだ。
【1】梅津庸一が企画したグループ展「表現者は街に潜伏している。それはあなたのことであり、わたしのことでもある。」(2019年、パープルームギャラリー、相模原)に梅津が寄せたステートメント「本展について」より一部抜粋。このグループ展のチラシは「クリスタルパレス」展示内でも掲出された
【2】梅津庸一個展「遅すぎた青春、版画物語(転写、自己模倣、変奏曲)」(2023年、銀座 蔦屋書店)(2023年、NADiff a/p/a/r/t、東京)に寄せて梅津がつづった「本展について」より
【3】梅津庸一個展「プレス機の前で会いましょう 版画物語 作家と工人のランデヴー」(2023年、NADiff a/p/a/r/t、東京)に寄せた「本展について」より
大島賛都 / Santo Oshima
1964年、栃木県生まれ。英国イーストアングリア大学卒業。東京オペラシティアートギャラリー、サントリーミュージアム[天保山]にて学芸員として現代美術の展覧会を多数企画。現在、サントリーホールディングス株式会社所属。(公財)関西・大阪21世紀協会に出向し「アーツサポート関西」の運営を行う。
会期:2024年6月4日(火)〜10月6日(日)
会場:国立国際美術館 地下3階展示室
時間:火〜木曜10:00〜17:00、金・土曜10:00〜20:00
※入場は閉館の30分前まで休館:月曜
※ただし7月15日(月・祝)、8月12日(月・休)、9月16日(月・祝)、9月23日(月・休)は開館、7月16日(火)、8月13日(火)、9月17日(火)、9月24日(火)は休館観覧料:一般1,200円、大学生700円、高校生以下・18歳未満無料(要証明)、心身に障がいのある方とその付添者1名無料(要証明)
問合:06-6447-4680
※本展覧会会期中は、展示室の整備・修繕のためコレクション展は開催なし