いろんな縁が重なって、数年前に「左手のピアノ」というクラシック音楽のジャンルに出会った。「左手のピアノ」は、文字通り左手だけで演奏するピアノ曲だ。
2001年に国立国際美術館で行われたフルクサスのパフォーマンス。学生時代、サックスをやっていた僕は、アルトサックス片手にオーディションに挑戦した。懐かしくも瑞々しい思い出だ。以来フルクサスのメンバー、塩見允枝子さんと親しくさせてもらい、パフォーマンスに参加したり、一緒に作品を制作したりと、楽しい時間を過ごしている。そんななか、作曲家でもある塩見さんの作品に、左手だけで弾くピアノ曲があることを知り、そこから大阪・箕面市に住んでいる左手のピアニスト智内威雄さんに出会うに至る。ちなみに、僕と塩見さん、智内さんは、自転車で10分圏内のご近所さんだ。そうした縁あって、今では箕面で開催されている世界でもめずらしい左手のピアノ国際コンクールの実行委員となり、「左手のピアノ」に触れている。
ところで、僕は今、美術活動をはじめて20年ほどが経ち、週一くらいのペースで大学で教鞭をとらせてもらっている。多事多端な日々のなか、立ち止まって物事を考えるのに、大学での授業はいい機会になる。
昨年度は、美術の方法、それ自体を材料として扱う現代美術を紹介する講義のなかで、学生たちに筒井康隆の代表作「残像に口紅を」についてのレポートを書いてもらった。学期末の課題で、文中にルネマグリットの言葉「これはパイプではない」を用いるというルール付き。
「残像に口紅を」は、筒井康隆の作品のなかでも著者の力量が存分に発揮された名著だ。簡単に説明すると、文中で使われる文字が順番に消え、消える文字と連動して、その文字が表していた存在も小説内の世界から消えていくというもの。さらに、小説を書く著者自身が主人公という設定も面白い。前半は、使われる文字が減っても、小説として何の違和感も感じることなく読むことができ、筒井の凄みが伝わってくる。対して後半は、使用される文字が減っていくことで新たな文体を獲得し、少ない音だからこそ、より豊かな印象を与えてくれる。10で10を表現することから離れ、1で10にも、100にもする表現を可能とした、その手腕には感服だ。
一方、美術にも欠如の美が存在する。古代の彫刻には、一部が欠損したり、あるいは、断片しか残されていないものが多数ある。誰しもが知るところの《ミロのヴィーナス》も、顔と手があれば、ここまで有名になっていなかっただろう。彫刻の欠損が、ありうる姿への想像をかきたてるのだ。
さて、話を戻すと、「左手のピアノ」には、これらに似た、限定された手法だからこそ想像力を増幅させる豊かな世界がある。行間を読ませるような独特の響きと多彩な音色は、新たなクラシックジャンルと言えるのかもしれない。
はじめてコンサートホールで智内さんの演奏を聞いたとき、僕は演奏が終わった瞬間に、「このピアニストの“両手”が聞きたい」と素直にこぼした。それは、今思うと両手の音を聞きたいという渇望ではなく、想像の境界を越えて広がる世界と左手が紡ぎ出す音の関係が、これまでに経験したことのない体験であったが故の、いい意味での違和感の表れだったのではないかと考えている。
「左手のピアノ」は、戦後、片腕となった兵士らのために書かれ、多くの楽曲が残された。その演奏家の一人が、第1次世界大戦への従軍で右手を失ったオーストリア生まれのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインだ。自身での編曲はもちろん、多くの有名な作曲家に左手だけで演奏可能な作品を委嘱し、それらは今日でも多くのピアニストによって演奏されている。ちなみに彼は美術関係者が思い浮かべる哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの兄にあたる。幼少の頃過ごした、ヴィトゲンシュタイン家には、ブラームスなどの作曲家をはじめ、ロダンやクリムトなど、多くの芸術家が出入りしていた。
クリムト没後100年を迎えた2018年、僕はウィーンに渡り、現在ブルガリア文化研究所として利用されているヴィトケンシュタインハウスを訪れた。音楽とは聞く街によってまったく異なる印象を与えるものだと常々思う。いつか、ヴィトケンシュタインが演奏した街で「左手のピアノ」に出会い、引き算の美がもたらす想像の果てに浸ってみたいと思うのだ。
ウィトゲンシュタイン記念 左手のピアノ国際コンクール
http://lefthandpianocompetition.com/「左手のアーカイブ」
http://www.lefthandpianomusic.jp/
植松琢麿 / Takuma UEMATSU
1977年石川県金沢市生まれ。2000年関西大学卒業。2001年以降、国内外の美術館やギャラリーで作品を発表。自然科学や哲学における興味から、生命や社会への新たな視点をさまざまなメディアと手法で表現する。
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