赤鹿麻耶。大阪に生まれ、現在も大阪を拠点に活動を続ける写真家。2011年、『風を食べる』で「第34回写真新世紀グランプリ」を受賞し、気鋭の写真家としてその名が知られるようになる。
以来、大阪・桃谷の空き地や東京・新宿区の銭湯を会場に大胆な展示方法で独自の空間をつくり上げた「Did you sleep well?」(2015年)や、夢をテーマにした「大きくて軽い、小さくて重い」(2017年)、アーティスト・イン・レジデンスとして台湾で制作された「Be my landscape」(2017年)、ドイツ・フランクフルトのカフェが展示会場となった「Sweet Rainy City」(2019年)など、国内外での個展の開催や、コロナ禍に東京都写真美術館で開催された「あしたのひかり 日本の新進作家 vol.17」(2020年)といったグループ展への参加など、多様なテーマ、展示形態で作品を発表し続けている。
その赤鹿さんは、大阪・梅田にあるショッピングビル「HEP FIVE」に併設された観覧車で乗客の記念撮影を行う仕事を約15年に渡って続けてきたという。新型コロナウイルスの感染拡大によって観光客が激減したこともあり、長年続いたその仕事を2020年の中頃に辞めることになった。
まずはその写真撮影の仕事の話から、自分の作品制作と観光写真との距離感、写真を撮る上での自分の出し方や手放し方、赤鹿さんが写真(時には絵画や言葉)を通じて探ろうとしているものについてなど、たっぷりとお話を伺った。
インタビューは大阪駅前第1ビル地下1階にある老舗「マヅラ喫茶店」で行われた。赤鹿さんが梅田に来るたびに一休みしに来ていたという馴染みの店だ。
収録:2020年12月19日(土)
場所:大阪市 マヅラ喫茶店
HEP FIVEで記念写真を撮り続けた赤鹿麻耶の“青春”
赤鹿:(マヅラ喫茶店のメニュー表を手に取り)新しくなってる! 一時期はここにもよく来ていたんですよ。今日も本当は近くのアトリエ(※)に来てもらえたらと思ったんですけどね……。あ、アトリエって私が勝手に思い込んでるだけで誰も許可してない場所ですが(笑)。今コロナであんまり入ったらダメなんですよ。万が一のことがあったらというので。
※赤鹿さんは、大阪市北区にあるアート系の専門学校「ビジュアルアーツ専門学校」の写真学科で講師を勤めており、学内を勝手にアトリエ化している(許可を受けておらず、それでも作品や関連するものを置いていたりするため、いつも怒られているのだとか……)
――学校の授業はコロナの影響を受けていますか?
赤鹿:(2020年の)4月頃、授業をオンラインにしてみたこともあったけど、やっぱり写真は難しいんですよね。だから対面に戻して。特に私の授業は対面で相談に乗ったりしていたから。生徒は35人ぐらいなんですけど、みんなといろんなおしゃべりをして、もはやカウンセラーみたいな感じです(笑)。なので梅田は本当によく来ていて。人が多いからそんなに好きでもないんやけどね。「HEP FIVE」にももうずっと、15年になるかな。
――HEP FIVEでのお仕事について詳しくお聞きしたいんですけど、赤鹿さんがしていたのは、観覧車に乗りに来るお客さんを撮影するという仕事なんですか?
赤鹿:観光スポットで写真を撮る観光写真の会社で働いてたんですよ。東京タワーとかスカイツリーとか台北101とか、記念写真を撮って販売してるとこ見つけたら、たいていうちの会社かなって感じの大きいところで。私はそのHEP FIVE店のとこやったんですけど、インバウンドが多かったから、コロナの影響が大きくて一旦撤退。一応、お客さんが戻ってきたらまたやるっていうことにはなってるんですけど、まあしばらくは難しいんじゃないかなと思って、スタッフもみんな解散となりました。思えば、大学1年か2年あたりからずっとやってましたね。
――そこで15年働かれていたと。観覧車に乗る人をどういうタイミングで撮るんですか?
赤鹿:観覧車の乗り場の前にブースがあるんですけど、そこでお客さんが乗る前に「こういうお写真をお撮りしてるんですけども、よかったら1枚撮影されませんか」って声をかけて。撮るのは自由で、「いやや」って言われたらもうそのまま乗っていただいて、「いいよ」っていう人だけその場で撮る。観覧車から降りてくるまでに写真をプリントして、「もしよかったら買えますよ」みたいな感じで。
――確かに、観光地にそういうのありますね。それがコロナでお休みになったのはいつだったんですか?
赤鹿:(2020年の)9月で退職になってますね。でももう、5月ぐらいから働いてはなくて、ずっと“待ち”みたいになっていたので。
――結局そのまま一度辞めることになったと。
赤鹿:そうです。(同じ職場には)ほかの現場にまわる社員さんとかもおったんかな。でも私はなんか「これってタイミングなんかな」と思って。こんなことがなければ自ら辞めるってことはなかったはずなんで。私自身、いつもは制作とかで、1年の4分の1ぐらい海外に行ってたりして、ずっとウロウロしまくってるから、「1ヶ月半ぐらい休みたいー」とか言って上司にも融通きかせてもらいまくってて(笑)。みんなめっちゃ優しくしてくれて、楽しい職場でしたけどね。
――観覧車の乗客を淡々と撮るっていうのは、赤鹿さん自身の作品とはまた全然違うように聞こえますが、自分のなかで関連性はあったりするんでしょうか?
赤鹿:うーん。前に都築響一さんにインタビューしてもらった時に、その仕事のことを話したら「自分のカメラでもお客さん撮ったりしないんですかあ? 僕だったらやるなあ」みたいな感じで「小型のスパイカメラどう?(笑)」とか言ってくださったりしたんですけど……、本当にロボットに近い感じで撮ってたんですよ(笑)。もちろん感情はあって撮影してるんですけど、自分の作品とは本当にまったく別もの。「自分の作品になんにも還元されへんな」と思っていました。でも、そこに来る人を15年ずっと観察していたっていうことでもあるから、何か(自分の作品とのつがなりが)あるのかもしれないですけど。あと10年ぐらい経ったら大事なことになりそうな感じ。ここで見たことがまた作品に移っていったり。でもまあ今思い返せば、青春そのものです(笑)。
――15年のなかで、観覧車に乗りに来るお客さんの変化ってなにかありましたか? 客層とか。
赤鹿:ありましたね。働き始めた大学生の時は、30分に1組乗りに来るか来おへんかぐらいやから、スタッフのみんなで手紙交換したりしてたんですけど(笑)。だんだん忙しなってきて。最初の頃はまず家族連れとか、普通に買い物で来た若い子たちが多くて。それがちょっと減る時期があったんですよね。みんなJR大阪駅の方で買い物するようになったんかな。そうして、2014年あたりからインバウンドでまた客足も増えていって。けっこういろんな人が来るんですよ。芸能人の方から、プライベートの方から、私が働いてるのを知ってる友人たちまで幅広く。気まずいこともいっぱいありましたもん。疎遠っていうか「この人、最近会ってなかったな」っていう人が来て、私も下向きながら「お写真お撮りしてます」って言ったり。「たぶん中学の時の同級生なんやけど、名前忘れた!」とか。うちの弟が彼女と来て、私がいるのに気づいて観覧車乗らずに帰っていくとか(笑)。
――誰に会うかわからないですもんね。海外からの方も多かったですか?
赤鹿:LCCが飛び始めてからはすごかったですね。多い日だと1日3,000~4,000人とか来てましたもん。並んで並んで。スタッフみんなぐったりして。私らの商売の仕方も変わったっていうか、インバウンドに向けてやるようになったから、みんな3ヵ国語とか話せるように頑張ったり。主に韓国語と中国語ですね。写真を売るときの言葉を覚えたりして。
――すごい。しゃべれるようになったんですね。
赤鹿:本当に決まったフレーズだけですけどね。でも海外の人たちとは結構コミュニケーション取ってましたね。すごい要望されたりするんですよ。「フォトショップでアゴ細くして」とか(笑)。特に韓国の女の子は、みんな美意識が高くて。
――その場でアゴをシュッと加工したりとかもできるんですか?
赤鹿:できない(笑)。うちは撮ったものそのまんまやから、だから「こんな写りならいらんわ」って嫌がられたこともあるんですけど。逆に中国の人たちは家族の思い出を大事にするみたいで、買う人が多かったです。写真の価値というものが国によってあって、時代でもどんどん変わっていって、それがわかったのは大きかったかもしれません。
――“写真の価値”も15年のなかで変わっていったことのひとつだと。
赤鹿:プリクラが出て、ケータイが出てきたのがやっぱり大きかったですね。そして、iPhoneが登場して、明らかに私たちの(観光サービスとして)撮る写真がいらなくなっちゃって。今の女の子たちにとっては、なんならブサイクに写りすぎると(笑)。「これやったらプリクラの方が500倍可愛いわ」みたいな感じで、自分たちで撮る方が可愛く撮れますからね。そういう子たちには一気に売れなくなった。けれど、家族で来た人は相変わらず買ってくれたりとか、変わらないものもあって。家族連れで「10年連続で撮りに来てます」っていう人もいたり。「記念写真」ってなんやろなっていうのは、2019年頃からよく考えるようになりましたね。最近では「紙の写真はいらんから、(撮影した写真を)データでちょうだい」とか言われることも多かったです。
――紙の写真自体が特別なものになってしまいましたもんね。で、そういう流れもあって、コロナの影響でパタッと人出が減ってしまったわけですね。
赤鹿:そうですね。昔の暇なときみたいな感じになって。
――辞めるにあたって特に寂しさは感じませんでしたか?
赤鹿:(職場のスタッフとは)みんなめっちゃ仲良かったし、寂しいのもありました。私は大阪からほとんど動いてないんで、写真のモデルってだいたい友人なんですね。身の回りからつくるんで。15年間の歴代スタッフ、ほとんど出演してもらってると思う。私のこともよく理解してくれたし。
――そういうかたちでは赤鹿さんの制作とも関わっていたんですね。
赤鹿:それはめちゃくちゃありますね。たぶん、ここで働いてなかったらできてない作品もあると思います。出会った人らは(自分にとって)大きい存在。一緒に年をとったし、15年ずっと一緒に過ごした子らもいて。いい職場だからみんな辞めなかったんですよね。私は踊ったり歌ったり、クレイジーな先輩やったと思うんですけど(笑)。
――赤鹿さんが作品として制作している写真には、職場のみなさんは反応してくれたんでしょうか?
赤鹿:いや、私がやってることも向かう先も謎すぎて誰もなにも聞いてこない。上司に私もなんて説明していいかわからんから「がんばって有名になります!」とか言って(笑)。それで「まだなられへんか?」とか言われていましたね。バイトの子らには、モデルになってもらったけど、「意味わからん! このメイクなにー?」みたいなことはなにも聞かれへんかったかな。今までいろんな人を撮影させてもらいましたが、幸せなことに聞かれたことないですね。
――そこは聞かれない方がやりやすいわけですね。でも赤鹿さんの写真のなかのモデルの方々は、割とみんな楽しそうな感じに見えます。
赤鹿:遊ぶような感覚を大事にするからですかね。(モデルが受け身の感じだけにならないように)普通の人やったら、変なメイクされて、山連れていかれて、真冬でタンクトップでとかなったら「これ、目的はなに!?」とかなりそう(笑)。
――特に説明しなくても従ってくれるんだ(笑)。どうやったらそんなふうに人を巻き込めるというか、楽しく参加してもらえるんですか?
赤鹿:「遊ぼう!」って誘う(笑)。「遊び行くでー!」って。それからだんだんゴツい衣装とか持っていって「終わったらごはん食べよう! ご馳走する!」とか言って(笑)。
――とにかく勢いで(笑)。
赤鹿:大学で写真部に入ってたんですけど、そこにいた子らもモデルをしてくれて。「今日はなんでもやるで!」とか言うて協力してくれましたね。友だちやから、お仕事じゃないから、楽しむ、遊ぶ。でも緊張もする。私にとってはちょっと変わったコミュニケーションの仕方という感じですかね。
――遊びながら作品が出来上がっていく感じだったんですね。
赤鹿:そうですね。最初は普通に楽しみながら勢いでいけましたけど、年数を重ねると、私個人の写真制作の問題というか、自分のなかでまだ見たことのないものに出会いたい欲求が出てきて。ビジュアルとして見たことのないところまで行きたいと思うと、前もって相当イメージを練っておかないと、現場でバタバタするというか、不安から私のテンションが下がっちゃうんですね。「これ前もやったな、同じことやってるな」ってなったら、仲がいいからこそ友だちに伝わっちゃって。私を信頼してわざわざ来てくれてるのに最終的にその写真が使えなくなっちゃうっていうのはものすごい失礼やし、そこは責任があると思ってるから、イメージをつくる段階でどんどん時間がかかるようになっていくんですよね。
――赤鹿さんは個展やグループ展に参加するごとに、作風をどんどん変えていっているように見えます。
赤鹿:ここ数年は海外へ出かけるようになって、そこで会った人たちを撮ったりすることもあれば、絵画表現に近づけたいと思ったりすることも。いつも写真の領域を広げたいと考えているんですね。あと、モデルとのコミュニケーションも変わってきていて、一時期は、目が強すぎて「人の目が嫌や」と、どうしても正面から撮れへんようになっちゃったりとか。(友人が見た)夢の話を写真で再現するというテーマを設けたときは、そのために人間をオブジェとして扱わなあかんことが嫌になったり、逆に(東京都写真美術館の「あしたのひかり 日本の新進作家 vol.17」に出展した)「氷の国をつくる」シリーズではその場(作品の着想を得た中国黒竜江省ハルビン市の「氷雪大世界」のこと)に行って、そこにいる人を勝手に自分のなかの物語の役者とイメージして撮ってみるとか。距離感も変わってきていますね。
――「氷の国をつくる」については、You Tubeで配信されたアーティスト・トークで絵画も言葉も音も使って、中国で出会った“氷の女王(赤鹿さんが「氷雪大世界」で出会った人物)”を浮かび上がらせたかったというお話をされていましたね。
赤鹿:写真って目で見るものじゃないですか。そのはずやのに、見ることのできない写真をつくりたいという矛盾した欲求がありました。写真って紙のなかに輪郭(景色や人物の境界線)をはっきり見せますよね。あれが嫌で。割とリアルっていうか、輪郭がはっきりしてしまうけど、自分の写真も絵画や音楽のようでありたい。それに、写真はすでに存在するものを撮れてしまうから、ゼロから描いていない感覚もあったりして。「自分って結局なにもつくっていないんじゃないか」みたいな自問がずっとついてまわっていて、それがどんどん気持ち悪くなってくるんですよ。作為的な部分をどれだけ最小限にしたとしても、やっぱり私が操作して(モデルに)やらせてるっていうのが写真のなかに見えてしまって気持ち悪いと思ったりしてしまうんです。一番気持ち悪くないのは、手放しというか、ただ普通に「撮ったら写真」っていうものを展示することだってわかってるんですけど、そうじゃなくて、真っ白なキャンバスに絵を描くように、ゼロからつくってみたいっていう願望が「氷の国をつくる」のときにはありましたね。
1985年、大阪府生まれ。2008年関西大学卒業。10年ビジュアルアーツ大阪写真学科卒業。2011年、作品《風を食べる》で第34回写真新世紀グランプリ受賞。大阪を拠点に海外を含む各地で個展、グループ展を開催。夢について語られた言葉、写真、絵や音など多様なイメージを共感覚的に行き来しながら、現実とファンタジーが混交する独自の物語世界を紡ぐ。
スズキナオ / Nao Suzuki
東京出身、大阪在住のフリーライター。「デイリーポータルZ」等のWEBサイトを中心にコラムを執中。大阪のミニコミ書店「シカク」のスタッフでもある。著書に「深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと」「関西酒場のろのろ日記」「酒ともやしと横になる私」など。
INFORMATION
会期:前期 2021年2月25日(木)~3月22日(月)、後期 3月24日(水)~4月19日(月)
時間:11:00~20:00
企画制作:Happenings
協力:キヤノン株式会社、ホテル アンテルーム 京都、まちじゅうアーティスト事業