2023年3月に初の著書『世の人』を刊行した、大阪在住のラッパー・マリヲ。薬物中毒による刑務所やダルクでの生活、出会った人々との関わり——そうした自身の経験が、独特の文体と時間感覚で綴られた本書は反響を呼び、出版後4、5月には、小説家の保坂和志や町田康、編集者の都築響一といった、マリヲが敬愛する面々との対談も実現した。本記事では、著書を出すまで、そして言葉や文章に固有のアプローチで臨む3者との時間を振り返りながら、なぜ「書く」のかについて、マリヲ自身に綴ってもらった。
自分はダルクに通うようになってしばらくして、もしかしたら、どうしようもない自分の今までが、どうしようもないからこそ自分以外の人の役に立つことがあるかも知れない、と夢見るようになっていたと思う。
それはドラッグに夢中になっていたらあんまり良くない、といった種類のことで、まだそう酷くなっていないと自分が思う友人や知り合いやたとえばグレ出した街の子どもに、偉そうでなく言ったりすることができるのじゃないか、というような気持ちだった。ドラッグをやっていないからという一点で、自分が真人間になったような錯覚が起こっていたと思う。きみには何ができるの?と訊かれたら迷わずにそう言おうと思っていた。
それからしばらく経って『FaceTime』(詳細はpaperCのレポートを参照)に自分の体験を書いたり、ましてやそれが『世の人』という本になって読まれる、ということは信じられなく、本当に他人事のように思ってしまっていた。身体の底の方にある「もしかしたら自分の今までが、自分以外の人の役に立つことがあるかもしれない」という気持ちでそのときは書いていたように思う、そう期待したかった。
書くたびにいろいろな感情が渦巻いて、エゴサーチをして、少ない自己肯定感を上げて、気持ち良さや、しんどさや、当時の好きや嫌いを思い出して、いつの間にか自分のしてきたことを許されないことだと感じるスイッチを言葉で覆い隠しているような気持ちになっていた。じりじりと調子に乗り、それが破裂した。そこでやっと、自分が決して許されないことをしてきたこと、その人間性を今も孕んでいることを思い出した。でも、それでも生きていかなくてはいけないと強く思った。強く思わないと、生きていけないような気持ちだった。
ただ、そんな気持ちで暮らしていても、本のなかの言葉や、街の看板、街の人の会話は、身体にすとんすとんと入って来るようで、それが不思議だった。今までもそうだったか?と思った。胸が縮こまっているとき、裸足で靴を履いて歩いている人が見えた。区役所の前に張ってある鎖を学生が軽やかに飛び越えて、そのすぐ後におじいがぴょこたんという感じで飛び越えようとして引っ掛かっていた。環状線から見える赤い看板にレッツムーブと描いてあった。一歩も歩けないような気持ちのとき、ラジオから世界各国のありがとうが聴こえてきた。マンションの張り紙を見ると、上の階から餅が落ちて来ることに困っている人がいた。句読点のやたら多い注意書きもあった。銭湯で「余裕やと思ったら余裕、しんどいと思ったらしんどい」とチンピラが言っていた。気泡風呂に手を合わせて入っているおじいがいた。保坂和志が「不安や心細さ、自分の弱さを拠りどころにして考える」と言っていた。町田康が「おまえはとても美しいけどおまえの靴についた/泥を好きになっただけや」と書いていた。都築響一が拾い上げた「目から草が生えても人生ってもんだろ」という言葉がやっぱり光って、自分の暮らしのなかで大きな存在になっていた。不思議にそれらの言葉もまったく優しく、街の言葉や動きと並列にあるような気持ちがしていた。恥ずかしく、とても大袈裟な言い方かも知れないけれど、言葉がないと生きていけなかったと思う。しかも、それは昔からそうだったと思うようになった。
そんなお三方と対面で話すことが決まったとき、ものすごく息が上がるような気持ちがした。自分なんて話すことなど何もない、という気持ちと、自分の人生のなかで大きな存在になっているそれらの言葉たちを世界に現した人たちだから、もしかしたら、今自分がぶつかっていること、そのことについての答えを教えてくれるかもしれないとも思っていた。自分はそのときまだ、自分が世界で何かを成し遂げることが、今まで許されないことをして生きてきたことの罪滅ぼしになると信じていたように思う。
はっとしたことがあって、対談が控えているとき、自分は『私の文学史』(町田康)のなかで言及されていた作業、自分が過去に読んできた本、しかも幼いときに読んでいた本をもう一度読むことで自分を少し知ることができるという言葉そのままをしようと思って、図書館で『ズッコケ三人組』と『モモ』を借りて拾い読みをしていた。綺麗な文章だなあ、としか思えなかった、「はだしのゲン」は漫画だからと借りなかった。ここに影響をされているのかなるほど、という気持ちと、自分は圧倒的に本を読んでこなかった、というコンプレックスがもう一度浮き上がってきて、やはり自分はダメなんだ、今から本を読み漁っても、もう自分は何にも追い付けない、という気持ちになったとき、自分はさっきから、というか、過去思い出せる限りの時間、「何に」許されないことをして、「何に」追い付けないことを悔しいと思っているのやろう?と思った。有森裕子の逆で、自分で自分を許せない、そこは少し違う問題なので置いておいて、そこで自分が親しんでいた読み物は『ズッコケ』でも『モモ』でも『はだしのゲン』でもなくて、読んでいるというか、幼い頃、聖書をほぼ毎日開いていたことを思い出した。そこに書いてある正しい言葉は自分にはどうしても合わなかったから、何度も思い出しては、何度も否定して生きてきたけれど、自分の無意識にそれがどうしてもあるということを、はじめて気づいたように思った。しぜん答えがひとつしかないと思っているから、そこにたどり着けない自分を責めて、その道中も苦しいものだと思ってしまう。答えは絶対で、しかもひとつだと思っているから、こんな言葉でしか表現できないけど、それは神、みたいなものだと、認めたくないけれど自分が底でしっかり思っていることに、なんというか、ぞっとしてしまった。たくさんの言葉を自分の都合の良いように解釈して生きてきたと思っているけれど、それはもしかしたら底の方にある意識が選んでいるから、答えが見つからないことを苦しいと思うその苦しさを増やしていたのじゃないかとも思った。でもやっぱりゾクゾクするのは、いつも、そんなような四角い意識のまったく外側にある言葉だった。外側から気持ち良く、スコンと入ってくるものだった。「知ったふりしろ」だったし、「あなたはロックを信じますか」だったし、「泥棒!」だったし、「肉を喰って野菜食べて野球を見て繰り返す喜び」だったし、「そこで寝るな」だったし、「らりるれろの田辺」だったし、「18番、はがゆい唇」だった。そんな言葉が入ってくるたびに、その言葉自体が答えで支えのような気持ちになっていた。常識というもののおもんなさ、突いたらすぐに壊れてしまうような脆さ。答えをそのなかに見つけようとしていたことに、恥ずかしくなった。答えのようなものにたどり着くまでの時間を、楽しいものととらえてもいいんじゃないか。それに、答えが唯一ひとつだけある、というその意識自体が、勘違いなのではないか、と思った。やっとその考えが、頭だけじゃなく身体に、入ったような気持ちがした。
それはお三方との対談ではっきりそうだと確信することになった。たくさんの大事な言葉をいただいた、こんな機会は二度とないと思って、いつも終わった後はぼーっとしてしまった。慌てて忘れないようにと、メモ帳へメモをするその時間も大切なものになった。
ふと銭湯で、セ・パ交流戦の中継で、客席を舐めるようにカメラが流れて行く途中、ポロシャツに作業着姿のおじいの口が、はっきり「何勝手に撮っとんねん」と動いていた、カメラはすぐにスイッチされた。それまではユニホームを着たファンが手を振ったり、メガホンを叩いたり、タオルをかざして振ったりし、和やかで明るい風景だったから、驚いた、おじいとはっきり目が合ったような気持ちになった。それから家で、悪い虫を食べてくれるという家守のような蜘蛛を見ていた。いつもこの蜘蛛はびっくりしない感じの動きだなあ、と思って見ていた。異物だけど本能で危なくないと思える。おじいと蜘蛛、自分は心底こんなふうになりたい、こんなふうでないとあかん、と思っていた。寝て、起きて、食べて、寝る間に、なんかできんか、良い人間にはやっぱり到底なれそうにない、それでも必死で楽しく生きる方法を探して、みんなの24時間に追い付け追い越せ、違う、追い付くも追い越すも全然違う、ちょっと違う道で、ちょっと違う方法でという感じで、みんなと同じくらい何かをやって考えること、しっかり休んでさぼること、気持ちよく笑って、それからみんなともっと話したい、と思った。対面や電話で、交換するものの大きさ。書くとか読むとか聴くことに、総動員するものの大きさ。話すということは、それら全部を含んだものだと思う。動機は不純で少しくだらないようなものだけれど、それが自分の書き続ける動機でも、良いのじゃないか、と今は思えるようになった、それは自分にとって、ほとんど奇跡に近いことだと思う。
あと、3回の対談のたびに手のひらに、人人人と書いて飲んだのは、合計18人くらいだったと思う。泊まった新宿の、カプセルホテルの大浴場で、おやじが鼻水を垂らして、垂れた先の同じ浴槽に浸かっているときも、全然オッケーというか、ここで偶然同じ風呂に入っているということに、少しだけ人間愛のような気持ちになってしまった。だからすごく嬉しくなった。それは単純な嬉しさで、だからすごく心地良かった。
※本文中敬称略
マリヲ(まりを)
1985年、大阪府生まれ。本名・細谷淳。ラッパー。
●著作
『世の人』(百万年書房) https://millionyearsbk.stores.jp/items/63ae7535c9883d7772e2afbe
●Discography
Fiftywater / F.W.EP (タラウマラ/2020) SUNGA + WATER / RA・SI・SA (タラウマラ/2021) 中田粥 + Water a.k.a マリヲ / シャインのこと (中田粥+タラウマラ/2022) Hankyovain feat. Water a.k.a マリヲ / 他人の事情 (Treasurebox / 2022)