「注文絵画」と聞いて思い浮かぶのは、宮廷画家が描く皇帝の肖像画、プロパガンダアートとして描かれた戦争画、あるいは校舎や社屋、官邸にかけられた一枚だろうか。
現代においては、ビルの前に置かれるパブリックアートなど「コミッションワーク」と呼ばれる美術家の仕事のひとつに数えられるのかもしれないが、「注文絵画」という言葉にはより密やかな響きがある。そう感じたのは、2020年初秋、ペインター・山本理恵子さんの口から「注文絵画に興味がある」と発せられたときのこと。
それから今年にかけて、筆者は実際に「注文絵画」を発注することとなった。山本さんとの間に生じた小さな企みは、まだ見ぬ作品を介したコミュニケーションにより、作家と鑑賞者・購入者の関係を不思議に融解していく。それは、絵を描く人のリアリティに触れる経験だった。
今回は、そんな山本理恵子さんとしばし「絵画」の話をしてみたい。まずは、注文した作品が納品されてほどなく、北加賀屋・千鳥文化で開催された個展「夜更のサンルーム」を振り返りつつ、作品制作の話を伺ってみる。
収録:2021年3〜4月
場所:千鳥文化、山本さんのアトリエ、電話など
注文絵画のコミュニケーションで、言葉から絵に近づいてみる
ーーコマーシャルギャラリーを離れて、初の個展。これまでと変化はありましたか?
山本:コロナ禍でどれだけの方が来てくださるか不安でしたが、たくさんの人が見に来てくださって。本当にありがたかったです。これまでギャラリーの方々が担ってくださっていた来場者の対応も、千鳥文化の小西さん、三ヶ尻さん、私の3人で担当しました。それにより、鑑賞された方の感想を押し並べてお伺いすることができたのですが、驚いたのは、地域の方々からキュレーターやコレクターまで、みんな違う感想を持っていらっしゃったということ。当たり前のように思えますけど、作品が変われば、それぞれの実感もまったく違うんですよね。
ーー鑑賞者一人ひとりの反応が違うのは当たり前のようでいて、そうでないこともある?
山本:感じ方の違いは当たり前のようですが、万人に同じような感触で伝わるものもあると思う。「静寂を感じる」とか、「晴れやかな感じがする」とかーー。語弊を恐れずに言えば、例えば花鳥風月や美人画という確立されたジャンルがありますよね。そうした記号的なものの捉え方の外観を超えていくと、いろんなものが見えてきます。絵画は、作家が思っていることがリテラルに人に伝わるようなものではない、というのが面白いところであり、同時に難しいところでもある。エビデンスがないものを推論で書いて推論で解釈するような伝わり方でもあると思うので、人それぞれに感じ方が違うのが当たり前のようでいて、作品によっては万人に対して似たような伝わり方になることも。絵画を描いてきて感じるのは、多様性というもの自体が、いずれの場合もマイナーなものでしかないんじゃないかということ。感じ方のレンジが広いことは私が制作の上で目指していることでもあるので、今回のみなさんの反応は一つひとつがとてもうれしかったです。
ーー感じ方の多様性に対して、作品一つひとつには主題があるわけですよね?
山本:ごく個人的な主題はあるのですが、描き出したらあとは画面との対話。私の場合、主題は着想であり、描くなかでどんどん離れていくもの。答えは往々にして身体にあります。色彩と形状のバランスを見て画面を構成していくプロセスは意外とロジカルですが、そのとき、自分が無意識に感じていることが身体を通して出てきます。自身も驚きたいし、何を描こうとしていたのかを自分で知るプロセス自体が面白い。
私は文学を参照することが多くて、巧みなストーリーテリングを感じるものに興味があります。でも、過去の記憶・出来事を物語として表現するのに絵画はそぐわない。それを表現するならやはり文学や散文が合っていますよね。ところが、絵画が言葉から着想したものをまったく表現できないかというと、一概には言えない気がします。言葉から端を発して、絵画の造形言語に置き換わる瞬間。そこに立ち会えることが面白いですし、描くときに一番大切にしている部分ですね。
ーー絵画の造形言語。山本さんの制作においてはどんなことを指し示しているのでしょう?
山本:今回、展覧会にあたり小西さんがまとめてくださったステートメントに「モチーフの解体と統合を繰り返す中で、色面のレイヤー間にノイズを伴った図と地の共振する絵画空間が立ち現れる」という一文があります。絵を描く際に、ノイズがないと筆が前に進まない瞬間があり、また、ノイズの偶然性が必然に変わる瞬間がある。これが、実際に自分でも思いもしないところにたどり着くための描き方の形式だと思っています。例えば、工芸的(技巧的)な描き方では、色や筆致が形態に閉じていくこともあると思いますが、ブラッシュストロークで描くと画面に身体が定着していく感覚があります。図の内に留まったり、逸脱したりするなかで作品が描き上がっていくんですね。これは、世界を眺めたときに、あらゆる事象が変化し生まれ変わっていくことと似ている。とても大切なことのような気がしています。閉じていたら動けなくなるし、開きすぎていたら散漫になるし……かなり抽象的な話になってしまいました(笑)。
でもね、やはり留まったり逸脱したりの運動のなかで描いていくのが面白いなと思っているんです。この絵のプロセスを哲学を研究する友人に話したところ、ドゥルーズの著書『襞』が話題に。本を手に取って読んでみると、“(主語としてのモナドに対して)〈述語〉は決して〈属性〉ではない” “述語は、関係であり出来事である” というライプニッツについての一節があり、とても惹かれました。もしかしたら、この「主語と述語」を「図と地」として読み変えたものが、私が絵画においてやりたいことなのではないかと。これまで、図と地がオーバーラップすることやその境界面に興味を持って描いてきたわけですが、絵画のなかには、そうしたアンビバレントなもの、矛盾、整合性の取れなさを含めたプロセスがあり、だからこそ、絵を描くこと・見ることの楽しみがあるのだろうと思います。
自閉的な絵画は、どこまで開かれていくのか
ーー「注文絵画」という言葉を聞いて、意表を突かれたというか。「注文」と聞くと、肖像画や建築が竣工する際のコミッションワークなど、なにか出来事とセットのような印象があったので驚きました。
山本:作品を飾ったときのしつらえに興味があって。コマーシャルギャラリーを離れたタイミングだったからこそ、提案してみようって思えたのかもしれませんね。ずっと長い間、絵のなかの世界で考えてきたんだけど、描いたものが人の手に渡ることも意識するようになったというか。もちろんそこには売買という市場原理があるし、自分ひとりでやるには難しいことなんだけど。それよりも大事だったのは、注文を直に受けることのスリリングさ。矩形のキャンバスのなかでやれることのみを考えてきたので、人との関わり合いや場所へのアプローチを考えることに難しさも感じつつ、人の手に作品が渡るって、やっぱりすごく粋で面白いことだなと思えました。だから今回、羽生さん(筆者)が私の過去作を見ながら、「コネティカットのひょこひょこおじさん」と「緑のフィギュア」という2つのキーワードを提示してくれたこと、それをさらに自分の絵にしていったことは、すごく可能性を感じた経験です。
ーー「作品を買いたい」と連絡したとき、私はギャラリーやアトリエに行って過去作から選ばせてもらおうと思っていたんですよね。まだここに無い作品に自分が関わることになるなんて想像もしていなかったし、「注文絵画をやりたい」と聞いたときは、「なんて挑発的なオファーなんだ……」と(笑)。
山本:私も、最初に羽生さんに伝えたときは、絵のサイズや部屋の雰囲気、色やモチーフの話になると思っていました。人それぞれの好み、私の絵にも描き方の幅があるなかで、単純に気に入ってもらえるものを納めたいという気持ちからだったんですが、まさか抽象的なお題が返ってくるとは(笑)。飾られる空間のしつらえに絵がどう関わっていくのかに興味があったけど、それってデザイン的な話になっていく。対して今回の作品は、ビジュアルのことだけでなく、内容的なこと、飾る人の言葉から発して制作していくというエキサイティングなものでした。お題をもらったときは私もびっくりしちゃって、悩みながら何枚か並行して描いていったんだけど(笑)。
ーー実際、この作品がどこかのギャラリーのウィンドウから見えたとして、私は山本さんの絵だって気づかないかもしれない。作品を最初に見たときはそれくらい新鮮な印象がありました。
山本:そういう印象なんですね。なるほど。実は、私にとってはそれが判断できないくらい、客観視できなかった作品です。もらったキーワードから主題に選んだのは、サリンジャーの短編小説のタイトルである「コネティカットのひょこひょこおじさん」。ワイングラスは描きたいと思ったモチーフだけど、物語にとっては重要なアイテムではない。学生時代のルームメイトと寝転がってワインを片手にラフに喋ってる感じ、女友だちと過去を回想する日常的な感覚。そこにいろんな感情が鈍い通低音のように響いていて……。湧いて出てくるものを読書感想文のようにして描いた絵なんですよね。だから、客観的に見て人に届くものになったのかどうか不安もありましたが、人のエッセンスが作品に介入してくる面白さ、描いたことのないような絵を描けたことが、ただ素直にうれしかったですね。
最近は、同時代性とか現在性について言及する作品を求められることが多いですよね。今ならコロナの状況に即反応しないといけないみたいな。でも、今回の作品のような個人的な着想、人から見れば私ごとのようなことも、絵画の造形言語に置き換わるプロセスで、外に開かれていくと考えていて。シャガールやルドン、バルテュスなどの過去の画家たちを見てもそうだし、古典と現代の風景を交差させて描くドイグが「絵画はコンセプチュアルなものだ」と言っていることにもつながってくると思う。ときに「身体性に依拠している」という批判を受けることもありました。でも、政治的な態度表明としての表現もまた、近年のいくつかの事象のなかで学んだ側面がある気がしますし、これらは分つものではないのだろうと思います。その点で言うと、最近の若い人たちの絵が、以前よりどんどん自由になってきているように見えるのが、とても気になっています。
ーーたしかに、若い世代を中心とした作品に、自由さのようなものを感じることが増えてきた気がします。また、最近はあらためて絵画を見る状況が生まれてきているという期待感とともに、絵画の立ち位置がぼやけてきているのではないかと思う瞬間も。
山本:近年のわかりやすい例が「ピーター・ドイグ展」のにぎわいですよね。この数年で絵画を取り巻く状況は、より自由な楽しみのひとつとして、一昔前とは変わってきたように感じます。同時に、現代はイラストと絵画、デザインと美術といった境界が曖昧にされていく時代でもある。それらが断絶したものだとは思わないけれど、その境界には意識的でありたいと思います。上質なイラストと絵画に決定的な違いを感じることもありますし、その辺りはもっと言及されていい気がしています。
ーーそれは、絵画における美学のあり方、その変化につながっているのでしょうか?
山本:たしかに、そうかもしれません。絵のなかに文学を見たり、音楽に絵画を見たり、色面の構成に音楽の構造と似たものを感じたりーー日常の感性・感覚で、目にしたものが遠いところにあるものと接続していく体験。そこに、イメージ産業ではなく美学として語れる面白さがある。人間や世界の不思議に、各々のやり方で接続していくことで、美の定義が時代により変わっていく。それらを共有できることは、とてもスリリングなことなのに、最近は旧知のこととされてしまう傾向も感じられます。
私の制作においては具象と抽象の間、図と地の間、主体としてあるものが視点をずらすことで見えなくなったり、オーバーラップしたりすることが、世界のありようとリンクして見える感覚があって。それが絵画として成立させる手立てになっています。美の定義は時代によって変わりますが、今の潮流に乗っかっているものが新しいものか?というと、実はそうでもなかったり。新しさ、今らしさでは推し量れないこともある気がします。ひとりアトリエで描き続けているのは自閉的な行為だとも思いますが、自分を美学として開いていくことは、きっとどう時代が変わろうと面白いことなのだろうと思います。
昨年の初夏、個展「夜更のサンルーム」のためにスケッチに出かけた植物園では、人間の状況が変わっても変わらずそこにある植物に励まされました。時代も、より心の目でものを見ようとする人が増えている気がします。世情に対する極として生まれてきたものだったとしても、馬鹿にはできないなと思いますね。その上で、自分自身に埋没せずにフラットな目でいろんなものに触れられる状態でいられたら。最近はそんなふうに思っています。
1985年大阪生まれ。2011年京都市立芸術大学院美術学部油画領域修了。図像同士の関係性と境界そのものに着目し、 筆触により逸脱すること/留まることを繰り返しながら、 図と地の共振する絵画を描く。主な個展に「真昼の星々」gallery hitoto(2019 / 大阪)、「空白の頁」MORI YU GALLERY (2017/ 京都)。グループ展に 「triangular pyramid」Media Shop gallery2(2020/ 京都)、「ART OSAKA 2017」ホテルグランヴィア大阪(2017/ 大阪)、「THE PRINCE GALLERY TOKYO KIOICHOコミッションワーク」プリンスギャラリー紀尾井町(2016/ 東京)、「アートがあれば II 9人のコレクターによる個人コレクションの場合」東京オペラシティアートギャラリー(2013/ 東京)、「VOCA」上野の森美術館 (2010/ 東京)など多数。
Instagram riekoyamamoto.works
INFORMATION
山本理恵子個展「Urlandschaft -原風景-」
会期:2021年7月19日(月)~8月8日(日)
時間:12:00~20:00