北極圏上空に生まれた高気圧の影響で偏西風が蛇行し、北極からシベリアにかけての非常に冷たい大気が日本列島に押し出され、強烈な寒波が到来した末に、まだ上空は寒気に覆われていて湿った空気が流れ込んできている。今日は去年の今日より寒く、空は雪が降りそうな雲に覆われている。
大阪市北区中津の袋小路に我が家はあり、軒先のドラセナの枯れた姿が去年よりも寒い日が続いたことを物語っている。去年の今頃はどんな天気だったか。
定まらない天気の、その掴めなさに遡行して思い浮かべるイメージがある。広い平野で、自身の存在すら忘れ、途方に暮れている。風が吹いてきて、平野の草が揺れる。撚り糸の上を綱渡りするような心地で、焦点が定まらぬまま揺れる風景を眺めていると、風には向きがあり、陽光の温かみや湿った空気があり、ここにすでにあるものが明るく輝き出す。
形あるものや、ないものの地平線に浮き沈みする、遍くすべての可能性がありますように。
ここでは「今日の天気を憶えるための覚え書」として、天気にまつわるいくつかのことを記してみたいと思う。
天気の経験(天気にまつわる幾つかのこと)
幼少期、熊本に家族4人と猫2匹と住んでいた。その平屋の裏には広大な造成地があって、年中草がぼうぼうと茂っていた。兄や近所の友人たちと草を分け入り、ひらけた空間のなかで枯れ枝や草をかき集めて積み上げ、トンネルや小さな部屋をつくって遊んでいた。そこで採集した金柑を食べたり、虫をひとつのお椀に集めてすりつぶして舐めてみたり、裸になって取っ組み合ったり、いわゆる秘密基地を築いていた。
激しい雨が続いて、台風が来るから外には出ないよう母親から告げられる。急いで半野良の猫を探して家へ連れ戻り、雨戸を閉めて釘を打つ。隙間風が強くなって家が揺れる。だんだんと台風が近づいてくる。猫が騒ぐので押さえつけながら、外に広がる風の塊をイメージする。
突然、空気が変わって体が軽くなり、昼間なのに夜が明けたような気がする。しばらくするとまた轟音とともに風が家を揺らす。台風の目を通り過ぎたようだ。部屋の天井の木目をいろんな形に見立てながら、台風が遠ざかっていく様子に耳を傾ける。風で家が鳴り続けるなか眠りにつく。
朝になるとまた体が軽くなっていて、雨戸をはずすと猫が颯爽と外へ飛び出していく。猫を追いかけて家の裏へ出ると、秘密基地はすべて吹き飛ばされていて、遠くまで広がる草むらが雨粒とともにキラキラ光っている。つくったものが形を失った寂しさもあるが、次第に背中が震えるような清々しさを覚え、同じように眺めている友人たちとまた草むらを分け入っていく。雨でぬかるんだ枯れ草の足の感触と湿りきった草の匂いは今もよく覚えている。
毎朝、川で石を2、3個拾って学校へ向かう。石を集めて細かく描く図画工作の授業があり、以来、石を集めることに熱を入れはじめ、毎朝気に入った石を見つけては、教室の後ろの棚に溜め込んでいた。棚や机のなかに溜め込めなくなってくると、1,000個以上はある蒐集した石のなかから、捨ててもいいものを選び、校庭に放っていた。
引っ越すことになり、石を持ち帰るかどうか悩んだ。校庭に捨てるにはさすがに量が多すぎるし、思い入れのある石を手放したくはない。後先考えずに溜め続けた自分を恨んだが、とうとう持ち帰ることにした。家までは歩いて30分ほど。石で膨れ上がったランドセルと手提げ袋がギシギシと音を立てている。
家路の半ばあたりで大きな橋を渡る。両手と背中に石を抱え、歯を食いしばりながら行くと、対面から猛スピードの自転車が向かってきたが、道を譲る余裕はこちらにはない。すれ違いざま、ぶつかりそうになったので、よろけると同時に体が軽くなった。ランドセルの底が抜けて石が滑り落ちる。体勢が崩れ、手提げも落下する。自転車は少し振り返って、そのままのスピードで遠ざかっていく。
ランドセルには特に気に入って順位づけしていた石が入っていた。2年以上かけて集めたものが一瞬で川へ戻っていく。次第に大きくなる喪失感とともにもう持ち帰らなくても済むという安堵が湧きはじめ、しまいには清々しい気持ちになっていた。まわりの友人たちが不思議そうな目で見つめるなか、大きく奇声を上げ、家まで走って帰った。
昼夜を問わず暗い部屋で映画を見るために、窓にガムテープを貼り付けて、外からの光が届かないようにしていた。この屋根裏部屋は、もともと圧迫感があるが、外の光を遮断したことで閉塞感が増し、次第に気分も塞ぎ込んできた。
誰とも話したくなくなり、近くの神社のお堂の裏の地面に座って固まっているか、この部屋で映画を見ていた。映画を見続けたある朝、体が震えていた。震えを止めるために壁と床に体を押さえつけて泣きながら眠る。そんな日々が続き、体の震えにも慣れて泣くことにも疲れた頃、ふと思いつき、部屋の窓を開けてみた。紫外線で劣化したテープに触れるとパリパリと崩れながら、少しずつ部屋に光が差し込み、窓を開けると風が部屋へと吸い込まれる。窓から顔を覗かせ、外の様子に恍惚とする。
屋根は屋根に、鉄塔は鉄塔に、道は道に、朝の光は朝の光になっていて、それぞれがそれぞれに還っていく。
映画のなかでしか見たことがなかったイメージたちが、窓の外にある実物たちにそれぞれ還っていくようで、そのものの大きさや遠さのありようがわからないまま、目に触れるそれぞれを確かめながら、景色を眺めていた。
これらの天気にまつわる経験を別様に反芻したい。
「天気」は、物理的でありながら観念的でもある。
心象を表象したり、自然界の現象を表象したり、そのどちらにも両義的にはたらく。
そして、はじまりと終わりは捉えがたいが、しかし今ここで感じたまま天気がつくり出す経験を感じることはできる。
その今はいつからいつまでなのか、どこからどこまでかのわからなさが天気にはある。
ある事物の固有性が瓦解する。
瓦解した後にはその残滓のようなものの形相のみがあって、その形相は「気象」によって象られていて、事物は質量を持ち、名指されもする。
別のものに成り得ながらも、事物はそれそのものである。
この一連の流れは固定されたイメージではなく、風が立てば見えてきたり、雲行きが移り変われば変容していくようなものである。
時間や空間や事物が常に可塑性を備えていることを、天気が示している。
「Weathering with ...」
制作の実践を対外的に展開することを想定して「Weathering with …」という言葉を作品タイトルや制作プロジェクト、ネット上のアカウントなど別の名として使っている。いつか美術以外で実践の屋号になるかもしれない。
天気にまつわることわざや慣用句はさまざまにあり、観天望気として古くから気象の経験則を伝承してきた。
「ツバメが低く飛ぶと雨」
「夕焼けの翌日は晴れ」
「星が瞬くと風強し」
英語では、以下のような語句が使われる。
「Under the weather」(体調がよくないこと、二日酔いを指す)
「on cloud nine」(嬉しさを表す)
「in a fog」 (途方に暮れて)
「Weathering with you」は「あなたと困難を乗り越える」という意味だが、直訳すると「あなたと共に風化する」とも受け取れるように思える。
ある日の夜中、淀川で泳いだ後に土手を走っていたら、天啓を受けたかのごとく、「天気とともに、天気とともに」と、うそぶくように心中で唱えていることがあった。「天気とともに」では、あまりにもしっくりとせず、「Weathering with you」の方がしっくりくるような気がする。けれど、「you」には何か固有の対象を置くような居心地の悪さがあり、「Weathering with …, Weathering with …」と直して唱えていた。
僕にとっては祝詞のようなもので、「Weathering with …」と心のなかで唱えると自分がなくなって、時間や場所や物が、何が何やらわからないものになるような動きが立ち上がってくる。
この小さな島は、「気象」の果てで今この形をとどめている。
満潮の夜半、波の音を聞き続けていると、どこからともなく歌のようなものが聞こえる。
島の南北にかけて広がる砂浜の岩の上から、現実の音かどうかを確かめるために耳をそばだてる。波の音や風の音だけが鳴っているはずだが、歌がそこに聞こえている。
潮が引くと島の外周を歩きまわる。貝殻やプラスチックや石やよくわからない漂流物を拾い集めながら、砂浜でそれらを広げて、眺める。貝殻は貝殻でプラスチックはプラスチックで石は石でよくわからないものはよくわからないものである。その一つひとつを数えようにもうまく数えることができず、そのものはそのものである。
日が昇り、傾き、日が沈むまで、島は陽光に照らされる。日の動きとともに見えてくるものも変わる。正午過ぎには南西の崖で鵜の糞が堆積している岩の突端が白く光り、夕暮れのわずか10分ほどの間に東の岩場に挟まったペットボトルが陽の色に光る。
気象とともに島は絶えず変わり続け、島は絶えず変わらずに気象とともにある。陸地が削られ、海面にすべて沈むときが、この島の消失点となるのだろうか。
無生物主語構文・物主構文では事物や時間が主語になる。島での風化の刻一刻に、時間や場所、物が主語となって現れる。陽の光や波の音、砂地の肌触りや漂流物の腐敗臭、岩の隙間に光が触れる時間に主語が与えられ、それらの絶え間ない一つひとつの連なりは気象の果て、そのものである。
【天気のエクササイズ】
ここまで天気にまつわる経験を述べてきました。
気象現象の微細な変化に意識を向けていると、からだの感覚も拡張します。実際に、島で風向きを常に意識していると、風が少し読めて自分がいる現在地が外から見えてくる感覚になります。僕が試していることはマインドフルネスや瞑想にも近いところがあるかもしれません。
以降は門外不出の天気のエクササイズです。よければみなさんも試してみてください。
・目を薄く閉じて吸う息と吐く息を適当に数えながら、身のまわりに流れる空気を感じてみます。感じにくければ腕をまくって、素肌に触れる空気を感じてみてください。部屋のなかにいてもいいし、陽の光や湿り気や風を感じやすい場所へ移動するのもいいかもしれません。
・数えている息を空気の動きに合わせてみてください。どれだけ空気が停滞していても、無風という状態はないことに気づくはずです。イメージや思い込みの力を信じてみる必要もあるかもしれません。自分の息とまわりにある空気に集中しながら、息と空気が分け隔てなくなるのを待ちましょう。
・次に、自分の体温と外気温の違いにも注意してみてください。だんだんと外気の印象の方が強くなってきたら、もう少しです。
・温度の違いに慣れてきたら、風が流れていく方角にも注意を向けて、自分の体感をもう少し広げてみましょう。僕は淀川近くにいるので、海に向かう風を感じますが、まわりの地勢によって感じ方も変わるかと思います。
・そこからさらに風の流れを意識しながら、現在地の気圧配置をイメージします。春には移動性高気圧や低気圧が交互に日本付近を通過します。イメージの助けとして、事前に気象庁のサイトで現在の気圧配置を確認してみることをおすすめします。
・揚子江付近で発生する揚子江気団や、シベリア気団がもたらす大陸からの風と自分の息を合わせましょう。気圧の谷に引き込まれて風向きが現在地へとつながっていくイメージを思い浮かべてください。
天気のエクササイズは以上です。
これは今日の天気を憶えるためのひとつの方法でもあり、天気そのものを数えるとき、あなたはあなたそのものです。
船川翔司 / Shoji Funakawa
1987年鹿児島県生まれ。大阪府在住。特定の環境や状況から得た経験に基づく作品を、多様な手法を用いて発表している。美術表現のみならず、音楽やパフォーマンス分野など活動の幅は多岐にわたる。主な展覧会・公演に、個展「Hey, _ 」神戸アートビレッジセンター(兵庫、2022)、公演「 RIGA PERFORMANCE FESTIVAL:STARPTELPA」(ラトビア共和国、2021)など。