絵画とは、画家の記憶の形である。画家の内部を漂う自然の風景や美的な感応の記憶が、意識とともに何かしらの熟成を経て取り出され、形が与えられて絵画となる。アートコートギャラリーで開催された画家・吉岡千尋の個展「griglie」は、絵画が生まれ出るそうした「記憶」と、それが消失していく「忘却」との関係性とも呼ぶべきものについて、考察を促すような非常に興味深いものであった。
タイトルの「griglie」は、イタリア語でグリッドを意味する。それは、直接的には、吉岡の作品の表面に薄い線で引かれた格子状のグリッドを示すが、「グリーリエ」と発音する聞きなれない言葉の下で構成された展覧会には、どこか遠い場所へとつながる「距離」が纏わりつく。
展覧会の冒頭に展示された、小さな矩形にレモンを描いた12枚組の作品もそうだ。これらはイタリアの古い教会などに見られるフレスコ画の技法で描かれたものだが、3×4のグリットに並んだ各作品の表面には、分厚く漆喰が盛られ、そこにレモンの形状が違う種類の黄色の顔料を用いて色味や背景にヴァリエーションをもたせながら描かれている。
それらはフレスコ画の作法と、その描画面を剥ぎ取ってパネルなどに張り込むストラッポ技法によって、ひび割れ、剥離しながら、下地の漆喰と一体となって表面に留まる。そこには、もはや果実としての「レモン」を示す表象性はあまりなく、現出したグリッド状の壁面には、どこか遠い場所を指し示す曖昧な記憶が際立つ。「ここ」と「どこか」という2つの異なる位相。レモンの形状を湛えた漆喰は、そうした別々の位相を同時に召喚し、成立させながら、母を見失った迷い子のような虚ろなノスタルジーを帯びて、見る者を招き入れる。
そこを抜けると、大きな空間となる。ここでは一転して、ソナタ形式の音楽のように主旋律となる2つのテーマが提示され、開放感とともに空間にリズムと強弱がもたらされる。そこで示されるテーマのひとつは地面に広がる石畳を描いた「静的」な作品で、もうひとつは勢いよく生い茂る蔓性のバラを描いた「動的」な作品である。展覧会では、この2つのテーマに沿って、変奏曲のようにサイズやモチーフを変容させた絵画が壁面を飾り、これら静と動の対極的な作品が空間のなかで交じり合い、対峙し、響き合いながら、豊かな視覚を生み出していく。
石畳の作品もバラの作品も、画面の下地として、鈍い光を照り返す銀色が全面に塗られており、その下地に微かな線でグリッドが引かれている。銀の下地は金箔を想起させるが、吉岡は下地を顔料を卵黄で溶いたテンペラの技法を使って描いている。そうすることで、顔料の粒子がより際立ち、キャンバスの目地の凹凸に沿って光が微細に乱反射し、金箔の金属質とも油絵具の光沢とも異なる茫漠としたオールオーバーな表面が生まれるのだ。
石畳の作品では、その銀の下地の上に、薄い青い線で石畳の目地を描き、石畳全体を浮かび上がらせる。描かれるのは石の輪郭となる目地のみで、それ以外は何もなく、網目のようなイメージが空虚に画面全体を覆う。また大きな画面の作品では、画面上部と下部で光の照り返しの角度が変わるため、見る位置によってその線が光の反射のなかに消えてしまう。つまりこれらの作品は、イメージの在り方としてかなり不安定なのだ。
私たちは、石畳を歩くとき、石畳そのものを意識することはあまりなく、その存在は忘却の淵を漂う。吉岡は、ひとつの記憶の断片を指し示すかのように、同じ視点、同じ角度から見られた同一の石畳のイメージを、大小さまざまなサイズの作品に転写して、まさにデジャブのように反復的に展示して見せている。それは、忘却と再生を繰り返す私たちの記憶そのものへの言及なのかもしれない。
一方、バラの作品では、消え入るように静かな石畳の作品とは対照的に、バラの蔓や葉が複雑に重なり生い茂る豊穣なイメージを、艶やかな線と色彩によって躍動的に描く。自然の摂理に導かれた「生」の形象と言ってもよいだろう。吉岡自身もその美しさに強く惹かれたことは想像に難くない。そこには、画家のマネが晩年、アトリエに籠って多く手がけた一連の花の静物画を彷彿とさせる軽妙な筆の運びと色彩の華やかさがある。
しかし、作品の前に立ち、複雑に入り組んだバラの葉や蔓に視線を注ぐと、枝や葉の細部の存在の希薄さに気づく。目を凝らして見ると、あえて確定させることを避けるように、薄く、虚ろに筆がさまよっているようなのだ。夢に現れるイメージに近い。ある部分は明晰で、他の部分は画面の下地に線が消えていく。唐突に葉だけが中空に浮かんでいる部分もある。
作品の下地に組み込まれたグリッドが、画家の記憶をそうした不確定な状態のまま、絵画として成立させるための「支え」となっているのではないだろうか。グリッドは、模写をする際に画面全体を座標化し、その座標を基準にイメージを別の画面へ転写する場合に用いられる。吉岡が過去に手がけた模写をテーマにした作品では、グリッドはそうした役目を担っていたと理解する。しかし、今回展示された作品においてグリッドは、画家の内部の記憶のイメージを、絵画という別の位相に再配置するための思考上の基準面として機能しているように思えた。つまり、消失と忘却の不安の影を帯びたイメージが、絵画として留まるために、幾何学的な直線で仕切られたグリッドを必要としたのではないだろうか。
キャンバスを前にした吉岡が、意図したイメージを描こうと手を動かすわずかな時間の合間も、記憶と忘却の連環から逃れることはない。その記憶と忘却の不断の連続のなかで、グリッドは、記憶として意識に残るものと、薄らぎながら消えゆくものの両方を画面に留めるための ― そして忘却されたものと区別するための ― 「結界」のような役目を果たしているのではないか。
今回の展示で吉岡の作品と相対して感じるのは、表面のイメージが絵画の内側に向かって次第に消失していくような不確定な様相である。そしてそれは、すでに消えて失われたものの存在を示唆する。明確にとらえがたい曖昧な距離、時間、言葉、そして意味。それらもまた記憶と忘却が連なる同じ地平の位相にある。そのことを吉岡は、曖昧に、しかしかなり的確に絵画を通して考察しようとしたのではないだろうか。
しかしなぜ人は、不確定であることにこうも引き寄せられるのか。細部に至るまで精緻に描かれた写実的な絵画ではなく、吉岡の描く儚さを帯びた絵画に備わる人を魅了するものとは何か。それは、彼女の作品の細部を見れば明らかであろう。下地の内部に消失しつつある朧な石畳の線や、空間のなかを漂うバラの葉の不完全な輪郭について、私たちは、どうしてもその線と線の隙間に自分の意識を浸透させ、その余白に創造的に介入しようと、そこに引きつけられていくのだ。
それと同じことを、吉岡はひとりの画家として、外部と相対するなかで行っているように思えてならない。世界は不確定で不安に満ちた場所だ。しかし、同時にその世界は多くの美しいものに満ち溢れている。それに意識を向けて、絵画という共通の認識を呼び覚ますものへと転化するためには、その不確定性を不確定なまま受け入れる必要がある。そしておそらく、その逆も正しい。世界が不確定であるからこそ、アーティストたちは芸術という創造的行為に惹かれ続けるのだ。
All Photos by Nobutada Omote, Courtesy of ARTCOURT Gallery
大島賛都(おおしま・さんと)
1964年、栃木県生まれ。英国イーストアングリア大学卒業。東京オペラシティアートギャラリー、サントリーミュージアム[天保山]にて学芸員として現代美術の展覧会を多数企画。現在、サントリーホールディングス株式会社所属。(公財)関西・大阪21世紀協会に出向し「アーツサポート関西」の運営を行う。
会期: 2023年11月11日(土)〜12月16日(土)
時間:10:00〜18:00(土曜のみ17:00まで)
休廊:日・月曜、祝日 会期中無休