写真家の横山大介は吃音者である。吃音、いわゆる言葉を発するときに起こる「どもり」のことで、最初の1音が出てこなかったり、同じ音を繰り返したりする言語障がいのひとつと言われている。日本には120万人ほどいるとされ、国立障害者リハビリテーションセンターのWebサイトでも「障がい」として扱われているが、緊張して言葉に詰まったりする経験は誰しもあるわけで、障がいと言い切ることへの違和感もある。とはいえ、当事者にとっては、社会的に大きな重荷であることは間違いなく、その苦悩は計り知れない。
横山が手がける写真作品には人物を写したポートレートが多い。写真のなかの人物は、カメラと正対し、まっすぐ撮影者の方を見ている。その視線の周囲には、ゆったりとした日常的な時間が流れるが、レンズを見据える瞳には、撮影者のリクエストに応えて「演じる」ことへの不安なのか、見る者の視線に晒された逡巡のようなものが見て取れる。その「あわい」が、撮影する者と撮影される者との関係性から表現を生み出す写真の本質を浮かび上がらせる。横山にとって、写真とは、吃音が介在する他者とのコミュニケーションを上書きし、アップデートするための個人的な修復の行為なのかもしれない。
今回、大阪のVISUAL ARTS GALLERYで行われた横山の個展「言葉に触れる身体のためのエチュード」は、そのことをまさに自らの身体を使って体現し、それを鑑賞者の立ち会いのもとであらためて身体的に再確認するものであったのではないか。この展覧会には受けとめきれないほどの重層的な意味が込められていた。
会場の壁面に数台のモニターが並び、その傍らの壁面には楽譜の一部をスケッチしたドローイングが展示されている。モニターでは、暗い小部屋に横山と音楽家の中川裕貴のふたりが1つのドラムを挟んで佇み、横山が中川から指導を受けながらドラムを使って「音楽」を演奏する様子が映像で映し出される。
中川:じゃあ、いきますね、「いーま」(タン・タン)、「すごっ」(タタタ)。この「すごっ」(タタタ)というのが短くて、難しいです。
横山:「すごい」って言ってるんですね。
中川:そう。「いーま、すごっ」(タン・タン、タタタ)、「いーま、すごっ」(タン・タン、タタタ)。3音ですね。「すごっ」(タタタ)。「いーま、すごっ」(タン・タン、タタタ)。やってみますか?
横山:はい。「いーま」(タン・タン)、「すごい」(タンタタ)。うーむ、難しい!
これは、横山が発した吃音の短いフレーズを専門家に依頼して楽譜化し、その言葉の音の連なりを、横山自身がドラムを使い「音楽」として演奏しようとする練習の風景である。音楽の素養があるわけではない横山が、現代演劇の即興的な伴奏などで注目を集める気鋭のチェリスト・中川から手取り足取りでレッスンを受けながら、なんとか1つの曲を通しで演奏しようとする。中川が先に手本を示し、横山が慣れない手つきでスティックを握り、中川の演奏をトレースするように慎重にドラムを叩く。
この曲のもととなったフレーズは「いーま すごっ す す すご(い) げん ご てきな」(「今、すごい言語的な」)という横山自身が発した言葉だ。彼は日頃から「興味があるから」と自身の発話を録りためており、今回、そのなかからいくつかのフレーズをピックアップし、それらを吃音の楽曲として自らドラムを叩いて演奏した。展示は、こうして制作された4つの映像作品と、それぞれの楽曲の楽譜を横山がスケッチした数点のドローイング作品から構成されていた。
まず問題となるのは吃音の身体性である。吃音には、先天的なものと後天的なものの2種類があり、前者が圧倒的に多い。先天的なものは資質として生まれながらに身体に埋め込まれており、そのメカニズムはよくわかっていないという。吃音は、言葉として発せられたときにのみ表出するものであり、言葉が交わされなければ発現しない。特性として疾患とクセの間の曖昧な領域にあるだけに、小学校などではいとも簡単に嘲笑やいじめの対象となり、また疾病として自覚されぬまま、自ら口をつぐんだり自虐性を身につけたりとコミュニケーションを回避する方向に向かってしまうことにもなる。言葉を発して人々や社会と関わりをもとうとすることが、逆に痛みとなって自らに戻ってくるという過重な身体性である。
私自身幼い頃から言葉が喉につかえて出てこないというよりも、体全体を使って体の中からなんとかして必死に言葉を絞り出そうとする身体感覚がありました。喉や口ではなく、まさに体全体がどもっている感覚です。【1】
アーティストの横山は、この自らの身体に宿る認知不能な「吃音」の存在と、芸術という行為を通して向き合う。自分の外に向けて発した吃音の発声を、録音によっていったん自分の外部に留め置き、それを楽譜という共有可能で客観的な形態に変換し、それを演奏によって自分の外部で「音楽」として結晶化させる。そこに立ち現れる「音楽」は、横山自身が行う演奏という身体の行為によって彼の体のなかに浸透していく。
中川さんの身体の中で私の吃音が消化され、中川さんの身体の行為「演奏」として吃音が発現する。その身体の行為を一から教えてもらいながら、自分自身が自分の吃音を、身体性が如実に現れる打楽器で演奏「練習」する。【2】
つまり、中川の身体をひとつの媒体として、自らの身体内部に巣くっていた「吃音」が、かたちとなって姿を現すのだ。その受け渡しのプロセスを見守る鑑賞者は、吃音の言葉のカケラが、言葉が本来担う他者との意思の疎通や共感を求める役割を超越して、見る者の意識のなかをさまざまな感覚を喚起しながら通り過ぎていき、最後に横山の体のなかへと戻っていく円環の完結に立ち会うことになる。
また、ここには、トレースすることの意味もある。吃音を録音すること、その吃音を楽曲として譜面化すること、ドラムを使って演奏すること、中川裕貴の手本の演奏を横山がなぞること、それを映像として記録すること、その映像を使って展覧会を構成すること、そしてその作品を鑑賞者が見ること。こうしたすべてがトレースであり、位相を変え、重心を移動させながら「吃音」の意味を深化させていく。そして、その重層的な位相の変遷が、見る者の感覚を震わせる芸術の輪郭となっていく。
「吃音」を「音楽」として扱うことも重要な意味を帯びる。今回の演奏に関わったチェリストの中川は、「音楽は、過去と現在と未来の3つの時制が混然一体となったもの」と話す。曲の演奏を聴いているとき、その耳に届いている音は、少し前に奏でられ消失した過去の音の余韻と重なりながら、次の瞬間に演奏される音を予感させる。現在の音は単独では成立せず、それが過去と未来と連続していることによって音楽として存在する。
横山による「吃音の音楽」の演奏は、ドラム初心者であることのたどたどしさの断絶ばかりではなく、そもそも断絶や遮断である「吃音」をなぞったものであるからこそ、その音は「現在」にとどまり続ける。それは停止したエスカレーターを階段のように上ろうとするとき、なぜか前方につんのめってしまうように、私たちに「音楽」という総体を、その不在によって明確に意識させるものとなる。
そして、それは、私たちが音声として発する言葉にもあてはまる。交わされる言葉は、相手の次の言葉を予想する予定調和的な状況を前提としていて、「吃音」はその前提の不在によって、私たちが普段意識せずに交わす言葉やコミュニケーションの本質を示すのだ。
横山の「吃音」を主題とした作品が、なぜこれほどまでに私たちの意識の深いところに刺さるのか。障がいであるか健常であるかの社会的な区分さえ明瞭ではなく、会話を試みて相手から予定調和のルール違反者としてすべての責任を負わされる吃音者の孤立について、芸術という方法が、それを説明し、鑑賞者をその共感へと誘う包摂の装置として機能するからではないか? 横山の芸術を、「吃音」によって横山が失ったものを埋める個人的な修復とするのは正しくない。それは、彼の作品を見る者に、届かなかった彼の言葉を受け止め、その不在によって人と人との共感の広がりを感じさせる普遍的な意味をもつものなのだ。であるからこそ、彼の芸術は素晴らしい。
【1】展覧会ハンドアウト 『言葉に触れる身体のためのエチュード』のための作品解説 横山大介 2023.9.24
【2】同上
大島賛都(おおしま・さんと)
1964年、栃木県生まれ。英国イーストアングリア大学卒業。東京オペラシティアートギャラリー、サントリーミュージアム[天保山]にて学芸員として現代美術の展覧会を多数企画。現在、サントリーホールディングス株式会社所属。(公財)関西・大阪21世紀協会に出向し「アーツサポート関西」の運営を行う。
会期:2023年9月24日(日)〜10月28日(土)
会場:VISUAL ARTS GALLERY(ビジュアルアーツ専門学校大阪)
時間:10:00〜18:00(最終日は15:00まで) 会期中無休
協力:中川裕貴(音楽家・チェロ演奏)、玉置慎輔
譜面作成協力:菊池有里子(音楽周辺者)
映像:片山達貴