山中suplexの別棟MINEで開催された展覧会「溶ける岩、留まる風」を観た。山中suplexは、京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)裏手の山のなかを深く入った京都と滋賀の県境にある共同アトリエで、同大出身の30歳代からアラフォー世代を中心に現代美術アーティストら10数名が所属している。単なる作品制作の場であるにとどまらず、展覧会やワークショップをはじめ、外部に会場を借りて企画展を開催するなど、積極的に社会とコミットする彼らのアクチュアリティーには目を見張るものがあり、その実践を介して「アーティストであること」の本質を問い続ける活動は全国的に注目を集めはじめつつある。アジア的な生存の逞しさへの憧憬を強烈に漂わせながら、その存在は、まさに芸術的な主体性を備えた「コレクティブ」と呼ぶにふさわしい。
彼らが昨年12月、突如大阪に進出し、大阪市西区の古いマンションを舞台に、山中suplexのサテライトとして別棟MINEを始動させた。地域の地元不動産会社のオファーによる、とりあえず1年間の社会実験的な取り組みとのことであるが、活動のイニシアティブはほぼ彼らが持ち、始動以来、毎月驚異的なペースで企画展やトークイベントを開催している。
「溶ける岩、留まる風」は、現在ニューヨークに滞在している山中suplexのメンバー、石黒健一の紹介によるニューヨークを拠点とするキュレーター、陳寅迪(チェン・インディ/Yindi Chen)が企画したグループ展で、鉱山、ひいては鉱物がテーマだ。アルケミーバース(Alchemyverse)、アンドレア・ガラーノ・トロ(Andrea Galano Toro)、曹舒怡(ツァオ・シューイー/Shuyi Cao)、ケース・ヴァン・レーヴェン(Kees van Leeuwen)のいずれも海外を拠点とする4名の作家による、映像、写真、音響をベースにしたインスタレーション作品が展示されている。
別棟MINEの名称は、建物が「峯ビル」と呼ばれることに由来するが、企画した陳は、そこから英語の「mine」、つまり鉱山の着想を得たという。他愛もない言葉のゆるやかなつながりではあるものの、その「ゆるさ」が許容する懐の深さに、芸術が成立する要件が潜む。
タイトルの「溶ける岩、留まる風」は、本来、溶けることなく固定し存在し続ける岩、そして気流としてうつろいゆく風を反語的なイメージとして示し、その余白にポエトリーを生み出す。また、mineには鉱脈を探し求めて「掘る」という意味があり、それは、固い実存の地面を掘削し未確定な価値を掘り起こそうとするアーティストの行為とも重なってくる。そもそも、滋賀の山奥から大阪に出てきた山中suplexの別棟MINE自体が、未知なる大阪のアートの可能性を探るプローブ(探索)ではあるまいか。
別棟MINEが入る峯ビルは、大阪市西区という若い子育て世帯向けのマンションが増え続けているエリアにあり、この古いビルも5階建て集合住宅の造りである。展示は5階部分の和室を活用。畳の床に座って壁面に照射されたプロジェクションや、床の間に設えられた写真を鑑賞するという、和風のなごみが、意外な興味深さと心地よさをもたらす。
スペインで生まれ、チリで育ち現在ベルリン在住の作家、アンドレア・ガラーノ・トロの映像インタレーション《De allá pa acá》は、ある微生物が鉱床で発掘されてリチウム電池の素材となり、人が使うPCのなかで生き続ける一生の旅を、「僕」という一人称で語る、寓意的なファンタジー風の作品である。タイトルはスペイン語で「そこからここへ」を意味する口語的な言いまわしとのことで、身近な風合いを意識させる反面、映像は、実証的かつドキュメンタリー的な無機質なもので、その両者のギャップが気になってしかたがない。しかし、主人公の微生物が終始自身を「僕」と呼びながら、雄弁な詩人の語り口で自らの身の上を語る異様な設定の徹底ぶりに、そこに、私たちが資源を掘りだし、運搬し、加工や変容を施し、エンドプロダクトとして商品化させることで生まれる経済システムの冷徹さがあぶりだされるように思えた。
長年、冷戦時代の核シェルターについて研究を行うオランダ出身のケース・ヴァン・レーヴェンは、今回、厚いコンクリート壁で覆われた核シェルターを写した写真2点を、掛け軸にしつらえて和室の床の間に展示した。床の間を飾るモノは、その行為を含め、実存にとらわれない抽象性を帯びることとなるが、核戦争の脅威がかつてないほど高まっている今日、あえてその擬態を試みたこの作品の見立ては、ジョークや皮肉を超えた辛辣な文明批判のメッセージと取るべきなのか。地中に埋められ、過酷な衝撃に耐えうる分厚いコンクリート壁と、繊細な和の様式のアンバランスさが印象に残る。
ニューヨーク在住の梁必成(リャン・ビーチェン)と奕萱(イーシュアン)によるアーティスト・ユニット、アルケミーバースは、フィールドワークを経て、版画制作と音響制作という2つの異なるプラクティスを融合させて共同で作品制作を行う。展覧会では、ハワイでフィールドレコーディングされた水中、地層、廃壕の音源をリミックスし、向かい合わせの2台のスピーカーからそれぞれ非同期で再生し、その間に座った者の内部に音による3次元構造を形成させる作品を展示した。テキストによれば、鑑賞者は、それらの音が生成した根拠の一端をなす、地質学的な様態や「ハワイ」を形づくる諸要素に思いを馳せることが想定されており、一方その頭上には、シンプルな直線でできた網目のような幾何学的形象を示したパネル作品がぶら下がる。経験するサウンドスケープの豊穣さは疑う余地がないが、2台のスピーカーと頭上のパネルとの間に身を置いた者の感覚として、作家が及ぼす意味の作用に対し、どれだけ自身の理由づけを持ち出してその経験を補うべきか、戸惑いを禁じえなかった。
ニューヨークを拠点を活動する曹舒怡(ツァオ・シューイー)による、16分以上におよぶビデオインスタレーション《果てしない煌めきが全てを覆う》は、地殻の変動を繰り返しながら絶え間なく変容する地球の姿を、過去から遠い未来に至る数十億年のスパンにおいて、微視的な視点と巨視的な視点を織り交ぜながら描いた作品である。地球の生成のストーリーは、すでに科学的な考証を語るさまざまなドキュメンタリー番組で扱われ、それ自体に特に目新しさはないが、この作品では、自らを「私たち(We)」と呼ぶ謎めいた主体が、壮大な時間の流れに身を置く当事者として地球の変遷の物語を語っていく。
「私たちは夢中でお互いに向かって泳いだ/集団免疫システムの強化/泳ぐ/這う/臍 わき 爪先の間/汗腺分泌物の琥珀に包まれ/海底で灼熱の塩水が渦巻くのを思い出す」
こうした語りではじまる映像は、顕微鏡がとらえた物質の律動から、岩石の粒子の粒をとらえた地表面の接写、そして核の誤使用によって自ら滅亡を招いた人類消滅後の遠い未来の地球の姿を描く。一つひとつの言葉が官能的な詩情を湛え、想像力を喚起し、それらが丁寧に編み込まれたレイヤーとなって映像に重ねられる。CGの精度に少し難点があるものの、これを目指したアーティストの意図は秀逸であり、その表現の高みは圧倒的であった。
今回の展示を見て、最近よく耳にする「人新世」という言葉を想起せずにはいられない。地質学の観点に人類の存在とその営為を織り込んで地球の存在を考えるべきとする思考であるが、鉱物と人間を同等に扱う視点が、私たちが直面する地球規模の環境課題を考える上で不可欠であることは言うまでもない。ただ、今回注目したいのは、アーティストたちが示した人間的な様相へのシフトである。彼らが関心を寄せる感情や、感性、詩情は、芸術を成立させる要件であり、そのことは人類が生き延びる上で大切な「知恵」であることを示唆しているように思えてならない。
大島賛都/Santo Oshima
1964年、栃木県生まれ。英国イーストアングリア大学卒業。東京オペラシティアートギャラリー、サントリーミュージアム[天保山]にて学芸員として現代美術の展覧会を多数企画。現在、サントリーホールディングス株式会社所属。(公財)関西・大阪21世紀協会に出向し「アーツサポート関西」の運営を行う。
Melting Rock, Still Wind/溶ける岩、留まる風
会期:2023年8月11日(金)、12日(土)、13日(日)、18日(金)、19日(土)、20日(日)
会場:山中suplex別棟「MINE」
時間:12:00~19:00
入場料:無料