無題
アート界隈の一部は僕らをマッチョだと言い出して、ヨーロッパのアートとか興味ないマッチョ界隈は僕らを「ゲイ」だと言う(あの界隈はアートとかわからないものを男がやってると全部「ゲイ」と言う)。両方真顔で聞いている。
ベルギーへ出張に行った
5月末、毎年開催されている通称「クンステン」と呼ばれる舞台芸術祭の視察へ行ってきた。世界中の実験的な新しい舞台作品が上演され、毎年その動向が関係者に注目されるフェスティバルだ。KYOTO EXPERIMENTとほぼ同じタイミングでディレクターチームが新しく変わり、もちろんこの2年ほどコロナで相当苦しんだが、その影響力はいまだにでかい。コロナ前は梅田哲也作品や、去年は中間アヤカ、荒木優光など関西勢が紹介されている。新しい、面白いアーティストが出てくると、ほぼクンステンですでに紹介されている、ということが多く、それってどうなんだ?ってたまには思わないこともないが、もちろん素晴らしいフェスであることに変わりはない。
いずれにしても、久々に海外のフェスティバルでまとまってたくさんの作品を見ることができて、大いに収穫があった。ブリュッセルの街もさまざまなコミュニティが林立し、北駅周辺は夜な夜な売人やその取り巻きが大量にうろついていてジョン・カーペンターが描きそうな、いい感じのぐちゃっとした街に仕上がっていた。この人たちがアートを見はじめたら面白いのになと思いながら、やはりここでも、というのかより激しいコミュニティや社会的立ち位置による断絶を感じざるを得なかった。見慣れた景色だから気づかないのか、日本でも恐らくそうなのだろうが、海外に出ると劇場や美術館と街中で出会う人たちはまったく別の人たちである。
などなど、いろいろなことを考えるきっかけを与えてくれた出張だが、帰国前日のPCR検査でなんと陽性が出てしまい、予定通り帰国できなくなってしまった。
10日ほどの滞在で出会った関係者に連絡を取りつつ、状況を説明し、とりあえず新たな宿と、飛行機の変更などを1日かけて済ませ、保険は本当に効くのだろうかなどと心配しながら新しい宿へ移った。奇しくも、より深くアラブコミュニティへと接近し、毎日深夜までパトカーや叫び声などが聞こえてくる通りであったがなんか落ち着くし、外に出れないので毎日窓から外を観察していた。飛行機の写真などを撮りながら。とはいえ、メンタル的には全然よくなく、家族も心配で、また家事なども発生しないので、それこそ漠然とした不安を抱えながらがらんとした部屋で、日々を過ごしていた。おそらくこの漠然とした不安、のようなものにコロナの影響は直接的にあって、それとは別にロシアでの戦争や日本での政治状況などへの不安などさまざまなレイヤーがあるのだろう。
無題
たまに考えるのは小学校や中学校などの、学校からもしくはクラスからいったい何人がアーティストになったのだろうかということだ。僕自身は若干特殊というか正統的ないわゆる「アーティスト」とは少し違うかもしれないが……なぜ人類のかなり少数の人間がアーティストになるのか。宇宙人の文化人類学者などに調べてほしい。動物などの集団に、必ず非合理的なことをする個体がいたりしないものだろうか。その個体が暮らせない環境下で何がどう変化するのか知りたい。
無題
自分はADHDのような気がする。いろんなチェックリストに当てはまりすぎる。診断をとるべきなのか。
文化と都市のあり方について
現代の日本でアート活動(ジャンルが何であれ)をやっていく際にどうしてもそのスタートの前から海外の都市にある種の憧れがある状態からのスタートにならざるを得ない。音楽、映画、ファッション、現代アート、さまざまな優れた作品に触れて異なる感性や考え方を吸収する。インターネット時代ならなお細かい情報を追いかけることも可能だし。ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、いろいろな街が明らかにきらきらと見え、自分も世界(という西洋文化圏)に憧れていたし実際に街としても素晴らしい。ただ、一方で詳しく見てみると、もちろん優れたアートシーンやそれを支えている人たちがいる。その一方で、なかなか浮上できないアーティストもどこにでもたくさんいるし、まったくアートに興味のない人たちも日本と同じくらいいるのも事実である。文化予算の規模以外のことを言えば、あんまり変わらないと言えばあんまり変わらない。
しかしながら、この憧れの構造は日本で芸術行為を行う際に非常に根深く関わることでもあり、さまざまな表象に多大に影響している。この憧れの構造が明治維新における欧化政策、日本の近代化(西洋化)に際して国策として持ち込まれたものであるとすれば、それは軍事力や経済力の差が多大に影響している。より強い文化の価値体系を正しいと受け入れざるを得なかったのだとも言える。この物差しは現在も機能しており、私たちはやはりどこかアートを学ばせていただいており、アートをやらせていただいているということがある。ありがたいのである。
旅をすることで一番いいのはそういった相対化ができることではないだろうか。この価値体系を相対化できなければ、それを分解して組み立て直したりすることもできない。そこから私たちの「アート」はやっとはじまる。相変わらず文化予算の差が絶望的にあるので、どちらにしても厳しい戦いというか、最終的には向こうの文化予算も頼りに活動してしまうのが悲しいところであるが。
一方で旅を繰り返したうえで気づくのは、アート系憧れの都市に共通するのは、そこに住む人たちが歴史的に街の良さを語ってきたというところが大きいのではないかと考えるようになった。もちろん旅行者が素晴らしさを語り、その評価が高まっていくのはあるだろうが、まずは住人が隅々まで問題点も、素晴らしさも細かく認識していることが大事なのではないか。話す言葉や料理の味つけなどもそうだ。いま日本ではテレビ番組などでも所謂「#日本すごい」と揶揄される代理店的発想の文脈があるが、もう少し長期的視点のとでもいうのか、経済原理ではない市民の街を眼差す感性のアウトプットが必要なのではないかと思われる。それと同時に、その都市がどのようにありたいのかをイメージするための、ある種の自主性と、必要に応じてきちんと発言を行えることが一人ひとりに求められるのではないだろうか。
そのうえでアーティストが育ってその街を拠点に活動を行い、その街を描くことが必要なのだろう。憧れているだけなんて、なんておこがましいことだったのかとここ20年くらいは一応反省しているし、海外に出る際はできるだけ「Osaka」と表記してもらえるようにしてはいる。
僕自身は大阪市北区中津の路地や空気感、貨物列車の音などが好きで大学を出ると同時に住みはじめたが、この20年で景色はずいぶんと変わってしまった。木造家屋がどんどん取り壊され駐車場とマンションにとって代わり、「北梅田」なんてワードも出てきて、アーティストや面白いお店を個人レベルでやっていた人たちはどんどん撤退し、もう少し戦略的な街づくりが行われはじめている。ゴンゾのガタガタの木造長屋の物件も、もともと安くで借りていたが(市場に出せるような物件ではなかったため)家賃が契約更新で5倍ほどになると告げられ、そのまま契約を切られた。これらの流れ自体は大阪北ヤードの開発や、JRの新駅設置の発表などが大きく影響していて、それ自体は大阪万博の開催決定なども影響しているだろう。この流れは僕からしたら経済の原理が街からキュートネスを消しさっていく過程でしかなかったが、僕自身も幼少時代を万博跡地のニュータウンで育ってはいて、そもそもキュートネスなどほとんどない土地だったので、今中津に住んでいる子どもたちにもきちんと反骨的なマインドが育つことを期待してやまない。
INSIGHT:キュートネスの行方(或いはダメージの少ない歩き方について)
概要
キュートネスについて
アートは一部の人しか見ないのか
宇宙に運ぶアート
都市の所作
地球滅亡後のアートの扱い
NAZEのキュートちゃん
うれしい
その3 4/7公開
無題
ベルギーへ出張に行った
無題
無題
文化と都市のあり方について
韓国へ出張に行った
グラフィティ
正しいと面白いの分岐
アワード
無題
キュートネスの行方
塚原悠也 / Yuya Tsukahara
1979年京都市生まれ、大阪市在住。2002年にNPO DANCEBOXのボランティアスタッフとして参加した後、2006年パフォーマンス集団contact Gonzoの活動を開始。殴り合いのようにも、ある種のダンスのようにも見える、既存の概念を無視したかのような即興的なパフォーマンス作品を多数制作。またその経験をもとにさまざまな形態のインスタレーション作品や、雑誌の編集発行、ケータリングなどもチームで行う。2011〜2017年、セゾン文化財団のフェロー助成アーティスト。近年は小説の執筆を自身で進めている。