大阪万博の幻影
1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件、2001年の9.11同時多発テロを経て、人々はもはや1970年の日本万国博覧会(以下、大阪万博)当時に夢見た「明るい未来」など到来しないことを思い知らされた。しかしそれ故に、浦沢直樹の『20世紀少年』(1999-2007)や原恵一の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)をはじめ、大阪万博は、1970年を少年少女として経験した世代にとってのトラウマ的幻影として、さまざまな創作物という形を伴い再び出現することとなった。
そうした時勢において、美術分野でも大阪万博を再考する動きが起こっていた。その一つが、2002年にKPOキリンプラザ大阪で開催された「EXPOSE2002 夢の彼方へ」展である【1】。この展示は、美術批評家の椹木野衣がキュレーションを担当、建築家の磯崎新と美術家のヤノベケンジが作品を出品し【2】、民族学者の小田マサノリとインターメディウム研究所(IMI)万博アーカイヴ・プロジェクトが資料展示を構成した【3】。
後に『戦争と万博』にまとめられるように、当時の椹木は、紀元2600年記念日本万国博覧会の亡霊、文化による敗戦の記憶の払拭などという政治的意図が絡み合い、国家総動員的に「明るい未来」を盲信することとなった大阪万博を、戦争のメタファーによって捉え直すことを試みていた【4】。1970年当時、《お祭り広場》をはじめとして、「未来」を構想した張本人である磯崎と、「未来の廃墟」としての大阪万博跡地での経験を制作の基底に据え、来る核戦争後の世界を妄想的に仮構してきたヤノベ。彼らを引き合わすこの展覧会は、非歴史的な閉ざされた円環として「日本」を捕捉する、椹木の美術史観に基づく確信犯的なキュレーションでもあっただろう。
【1】KPOキリンプラザ大阪は、1987年から2007年まで活動したキリンビール株式会社による複合文化施設で、同社の芸術文化振興事業の拠点として、多くの展覧会を開催した。コミッティメンバーとして、椹木、立川直樹、後藤繁雄、五十嵐太郎などが関わった。道頓堀川に面し、4本の光の柱を特徴とする建築の設計は、高松伸による。なお、「EXPOSE2002」展は、2002年11月7日から12月27日にKPOキリンプラザ大阪で開催された後、2003年1月5日から19日の会期で横浜赤レンガ倉庫1号館に巡回した。
【2】ヤノベは、1990年から開催された「キリンプラザ大阪コンテンポラリー・アワード」の初代受賞者である。
【3】これまでも、岡本太郎の家の庭の石と大阪万博当時の廃物を用いたインスタレーション「太陽のうらがわ/太郎のはらわた」(2001)などを制作していた、小田による資料展示「夢の彼方で死産した未来と日本万国博覧会非公式記録資料」は、地下壕に見立てた金網と木枠で作られた空間に、大阪万博当時の週刊誌や新聞などが雑多に展示されるものだった。そこには、当時、コンペで第一案に選ばれながらも、万博協会会長の石坂泰三の一声によって却下された、いわく付きの西島伊三雄によるシンボルマークが象徴的に出現する。予め失われた「未来」を暗示することによって、この展覧会にはさまざまな「未来」を巡る錯綜した状況が立ち上がっていたのである。
【4】椹木野衣『戦争と万博』美術出版社、2005年。初出である『美術手帖』での同名の連載は、2002年8月号から2003年1月号まで(2002年11月号を除く)。
計画概念の両義性
いま、この展覧会を如何に読み直すことができるのか。その糸口としてまず注目すべきは、磯崎の出品作《エレクトリック・ラビリンス》(1968/2002)である【5】。
この作品は大きく分けて二つの要素によって構成される。一つは、湾曲した鏡面仕上げの16枚のアルミニウムパネルであり【6】、これらには、杉浦康平によって構成された浮世絵の妖怪や被爆した都市などの図像がプリントされている【7】。赤外線センサーと手動によって回転し、鑑賞者を歪に反射するパネル、回転と同時に発せられる一柳慧による金切り声のようなノイズは、人々の身体を不可避的に作品内部に巻き込むことになる。もう一方は、パネル奥に設置された大スクリーンである。《ふたたび廃墟になったヒロシマ》と呼ばれる、焦土と化した広島の写真に崩れ去ったメガストラクチャーがモンタージュされた図像の上に、3台のプロジェクターによって、1960年代に建築家らが構想したさまざまな未来都市計画が投影される【8】。


磯崎は、この作品に関してのちに、「この展示の基本的なテーマは、あらゆる理性的な構想や論理的な計画が、人間の非合理的で、衝動的な情念とでもいうべきものに、結局うらぎられ、くつがえされてしまうという、計画概念に内在する二律背反を提示することにあった」と述べている【9】。そしてその都市認識は、1962年に発表した《孵化過程》において既に下記のように表明されていた。
かくして、孵化された都市は、崩壊する宿命にある。廃墟は、われわれの都市の未来の姿であり、未来都市は廃墟そのものである。われわれの現代都市は、それ故にわずかな〈時間〉を生き、エネルギーを発散させ、再び物質と化すであろう。われわれの提案と努力はそこに埋め込まれて、そして再び孵化培養器が建設される。それが未来だ【10】。
《孵化過程》から《エレクトリック・ラビリンス》に至る近代都市批判、すなわち、計画概念に内在する両義性への視座を念頭に置けば、磯崎の大阪万博への参加、そして《お祭り広場》にて試みられたテクノロジーによる表現は、矛盾するもののようにも見える。事実、磯崎は、針生一郎や多木浩二ら反博派によって批判の対象となった【11】。しかし、「インヴィジブル・モニュメント」という《お祭り広場》のコンセプトで磯崎は、理性的な計画によって抽象化された人間像への抗いとして、そこに集う人々の生々しく自由な交歓を重視していた【12】。結果、その意図が十全に発揮されなかったことはよく知られたところであるが、磯崎の表現は常に、「未来」を楽観的に計画することへの批評として存在していたのである。
【5】この作品は、もともとは1968年の第14回ミラノトリエンナーレの出品作である。しかし、このトリエンナーレは、パリの5月革命の余波を受け、開幕と同時に押し寄せた反体制派の学生らによって一時的に会場が占拠される事態となった。長らく幻の作品とされてきたが、2002年にブルーノ・ラトゥールが監修したドイツのZKMでの“Iconoclash: Beyond the Image-Wars in Science, Religion and Art”展において復元され、「EXPOSE2002」で展示が実現した。
【6】KPOキリンプラザ大阪では、会場の関係から12枚のパネルが6×2の配置で並べられた。
【7】「EXPOSE2002」展図録をはじめ、これまでこの作品に用いられた長崎の写真は東松照明によるものとクレジットされてきた。しかし、2013年に行われたインタビューにおいて本人はそのことを否定している。インタビュアーを務めた中森康文が言及している通り、実際に使用されたのは山端庸介によるもの。東松照明、中森康文、池上裕子 “東松照明 オーラル・ヒストリー 第2回”、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ、2013年1月12日、https://oralarthistory.org/archives/interviews/tomatsu_shomei_02/(最終閲覧:2025年8月24日)
【8】2002年バージョンでは、9.11でのWTCビル崩落現場、阪神淡路大震災のイメージが追加された。
【9】二川幸夫編『GAアーキテクト6〈磯崎新1959-1978〉』A.D.A.EDITA Tokyo、1991年、93頁。
【10】磯崎新「孵化過程」『空間へ』美術出版社、1971年、50頁。(初出:『美術手帖』1962年4月号)
【11】1970年大阪万博に関する反博運動と磯崎の立ち位置については、以前に本サイトにて概説したので下記を参照されたい。鯉沼晴悠 “反博運動とは何だったのか:1970年以後の未来のために”、2024年10月18日、https://paperc.info/on-site/insight_hanpaku01。鯉沼晴悠 “政治性と創造性の狭間で:日本万国博参加者の芸術実践”、2024年12月9日、https://paperc.info/on-site/insight_hanpaku02。
【12】磯崎を中心に結成された「日本万国博覧会イヴェント調査委員会」はその報告において、「ひとびとは、傍観者ではなく、みずからが当事者ではなくてはなければならない。〈お祭り広場〉というものがあって、それをみにゆくのではなく、〈お祭り広場〉は、そこへゆくひとびとがつくりだすものなのである。広場へ入る人間が、〈お祭り広場〉を形成する。広場に入った人間の行動が、広場を成り立たせるのである」と述べている。日本万国博覧会イヴェント調査委員会『日本万国博「お祭り広場」を中心とした外部空間における水・音・光などを利用した綜合演出機構の研究調査報告書』日本万国博イヴェント調査委員会、刊行年記載無、24頁。
私的な物語による再生
計画概念が持つ両義性を考察したのが磯崎であったのならば、廃墟から次なる未来への歩みを現前化して見せたのがヤノベではなかったか。小学生になる少し前、大阪万博会場の近くに引っ越してきたヤノベの遊び場は、解体が進む万博の跡地だった。この経験は、「未来の廃墟」への「時間旅行」として、ヤノベの創作の源泉となっていく。活動初期において、核戦争後の「サバイバル」のための実機能を備えた装置的作品を制作していたヤノベだったが、この展覧会に出品された《ビバ・リバ・プロジェクト:スタンダ》(2001)と《ビバ・リバ・プロジェクト:ニューデメ》(2002)(以下、《スタンダ》と《ニューデメ》)は、「未来の廃墟」からの「リバイバル=再生」のモニュメントとしてある。
《スタンダ》は、1997年にチェルノブイリの保育園でヤノベが出会った人形と、壁に描かれた太陽が元となっている。ガイガーカウンターが一定量の放射線を検知すると《スタンダ》は二本足で立ち上がり、それを祝福するかのように視線の先に設置された太陽からシャボン玉が噴き出される。そして、対峙する《ニューデメ》は、《スタンダ》が立ち上がると同時に、熱した顔面を足元の水面に浸す。《ニューデメ》のモチーフは言うまでもなく、磯崎が《お祭り広場》の演出装置として作り上げたロボットの一つ、「デメ」であり、ヤノベにとって「デメ」は、解体が進む万博会場に放置された「未来の廃墟」の象徴だった。

椹木との対談のなかでヤノベは、「社会的なメッセージを意図してプロジェクトをつくっていったというよりも、万博の廃虚で感じた自分の基礎となる部分を改革したいとか、そこから意識を変えたいという、個人的な欲望に基づいて」制作を行ってきたと語っている【13】。そして、そうした個人史的記憶とそれに由来する欲望による制作を、「サバイバル」から「リバイバル」へと転換させた要因の一つもまた、自らの子供の誕生という極めて私的な出来事だったという。
世の中自体は、サバイバルが必要な、暗雲がたちこめたような状態になってきたけれど、そういう時代だからこそ僕自身はもうちょっとポジティブな方向を表現したいなと思いました。その要因のひとつは、僕自身の個人的なことだけれど、子供が出来たという現実。そういうのも踏まえて、チェルノブイリに行った記憶を明るく転換することができました【14】。
ヤノベの作品について斎藤環は、「私たちがなすべきことは、いまさらフェイクの「未来」や「歴史」を全体として描き出すことではない。むしろ「廃墟」であるほかない現在を繰り返し「手探り」するところから、私たちのリアリティを再構築するほかないのだ」と述べている【15】。「明るい未来」という大きな物語が死産した廃墟のなかで、「手探り」で紡いだ私的な物語によってヤノベは、その静止した時間を接木する。そこからはじまる再生の歩みは、《お祭り広場》が持ち得た可能性―個別具体的な記憶と経験による秩序の再編を、大阪万博からおよそ30年が経た2002年において再起動したのではないか。そしてその後、2004年から2005年にかけて金沢21世紀美術館で行われた滞在制作プロジェクト「子供都市計画」は、美術館に集った人々との協働によってヤノベの個人的経験を起点とした「リバイバル」の思想が共同体的想像力へと展開し、もう一つの未来が模索される場となった【16】。

【13】椹木野衣、ヤノベケンジ「刷り込まれた「未来」をデコーディングする」KPOキリンプラザ大阪コミッティー監修『EXPOSE 2002 夢の彼方へ ヤノベケンジ×磯崎新』第2巻、キリンビール、2002年、28頁。
【14】ヤノベケンジ「あのデメが帰ってきた!!」同上、26頁。
【15】斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』みすず書房、2008年、161頁。
【16】その様子は下記の書籍に詳しい。ヤノベケンジ『ヤノベケンジ : ドキュメント子供都市計画』美術出版社、2005年。
「デザイン」され得ない人間の情動
昨年開催された大阪・関西万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」だった。だが、磯崎やヤノベの芸術実践の観察を経てこのテーマを見つめ直すとき、「未来」をデザインし得る対象として措定することの危うさを感じずにはいられない。「デザイン」という操作可能性の思想によって排除されたかに見える個別性は、しかし、完全に消し去られることなく、水面下で蠢き、時に表面へと噴出する。昨年8月13日に起きた大阪メトロ中央線の停電はまさに、理想化された万博にヒビを入れるものだった。
開幕以前から問題視されていたアクセスの脆弱性が露呈したこの出来事において、救急搬送された人など、大変な思いをした人々の存在は無視すべきではない。しかし、統制不在の状況下において、ライブカメラに向けて踊る若者や利他的な協働関係を形成した人々の存在が、決して操作され得ない人間本来の主体性をまざまざと感じさせたのも事実である。にも関わらず、彼らをして自らの過ちを肯定しようとする運営サイドの力学には、恐ろしいほどの暴力性を見てしまう【17】。危機的状況で生まれた個々人による主体的活動とそこで生まれた集団の関係は、レベッカ・ソルニットの言う「災害ユートピア」であろうが【18】、だとしても、これが再び体制側の物語へと回収されることはあってはならない。
夢洲では解体工事が進んでいる【19】。我々はそこから如何なる再生のエネルギーを現出することができるのか。大阪・関西万博の意義は、そのとき再び問われることになるだろう。
【17】たとえば、会場デザインプロデューサーの藤本壮介による2025年8月14日のXでの投稿。https://x.com/soufujimoto/status/1955814382090559492(最終閲覧:2025年8月24日)
【18】レベッカ・ソルニット、高月園子訳『災害ユートピア:なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』亜紀書房、2010年。また、林敏彦は、「災害ショックという「政策の窓」を個人的、党派的利益のためにどう乱用するかではなく、それを平時の制度にどう活用するかが問われている」として、危機的状況の政治利用に対して警鐘を鳴らしている。林敏彦「災害ユートピアが消えた後」『学術の動向』第18巻第10号、日本学術協力財団、2013年10月、67頁。
【19】“大阪万博閉幕4カ月、空から見た会場の今 解体進む大屋根リング”、日本経済新聞WEB、2026年2月11日、https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJD052700V00C26A2000000/(最終閲覧:2026年2月27日)
鯉沼晴悠 / Haruhisa Koinuma
1996年愛知県生まれ。戦後日本を中心的な対象として建築、デザイン、美術に関する調査研究、展覧会企画などを行う。現在、京都工芸繊維大学大学院博士後期課程/金沢工業大学五十嵐威暢アーカイブ所属。



