2025年の大阪・関西万博が間近に迫るなか、施設建設の大幅な遅れ、建設費の増大、万博の経済効果うんぬん、否定的な意見を見ることも多い。しかし、経済的次元における賛成や反対という単純な二項対立に留まるのではなく、せっかく大阪で万博が開催されるのだから私たち自身の文化や生活を再考し、未来を考える機会にできないか。
前後編に分かれる本稿は、1970年の日本万国博覧会にその可能性を見出すことを目指す。高度経済成長、戦後復興の到達点として今なお語り継がれる日本万国博。技術的、表現的革新の場としての意義もさることながら、そこには市民らの万博への関わり方を多様に見ることができる。前編の今回は、非参加者の立場から万博へ積極的に関わった事例として、芸術家や批評家らによる日本万国博反対運動、いわゆる反博運動に焦点を当てる。
日本万国博の特殊性
なぜ反博運動は起きたのか。その理論的支柱を担った針生一郎によって編纂された『われわれにとって万博とはなにか』を見てみよう【1】。この書籍には、美術、デザイン、建築、思想を横断した関連言説に加えて、日本万国博に関する詳細な情報と各運動団体の宣言文などが収録されている。収録された論文の中で針生は「日本万国博の特殊性」として、70年安保問題のカモフラージュ装置、文化支配体制再編装置という日本万国博が持つ政治的意味を強調する【2】。
日米安保条約の強行採決を機に戦後日本最大の市民運動と化した1960年の安保闘争。それを経た1960年代後半は、ベトナム戦争を背景として学生や文化人を中心に反戦、反米の機運が高まっていた。そうしたなか、1970年は日米安保条約の自動延長のタイミングであり、日本万国博は祝祭性によって政治的懸念から国民の目を逸らす装置として認識された。
一方で、日本万国博は「人類の進歩と調和」をテーマに戦後復興、高度経済成長の象徴としての意味を付与されることで、テクノロジーに新たな表現の可能性を見出す芸術家を数多く動員した。かつて反体制に共鳴するような前衛表現を繰り広げた芸術家をことごとく内部に組み込もうとする日本万国博の性格は、体制による文化統合とも思える様相を呈していたのである。
【1】針生一郎編『われわれとって万博とはなにか』田畑書店、1969
【2】針生一郎「くるったイデオロギー―国威掲揚と経済合理主義」『朝日ジャーナル』第11巻 第3号、朝日新聞社、1969.01.19、pp.5-10(『われわれとって万博とはなにか』再録時に「民衆不在の祭典―再編される体制支配の論理」に改題)
現代批評としての芸術実践
反博の機運が高まりつつあった1968年4月には5回にわたり草月会館において「EX・POSE1968:なにかいってくれ、いま、さがす」が開催されている【3】。日本万国博の批評と内部で展開される芸術のデモンストレーションという趣旨のもと、シンポジウムやパフォーマンスなどが行われた。内部で展開される芸術とは、「環境芸術」と呼ばれたテクノロジーによる機構を通して人間の感覚へと作用する芸術表現を指し、松本俊夫による《つぶれかかった右眼のために》や粟津潔による《ホリディ・オン・プリント》などが披露されている。
針生は松本の作品に対して「多元的な現実を多元的なままによせあつめて、それに対する批評や判断を回避しているのではないか」と述べ【4】、自身は江戸時代を舞台とした遊女の仇討ち物語を現代の政治闘争と組み合わせた《噫無情夜嵐お百》の脚本を手がけた。多木浩二はこの作品を「人間の情念から、構造的な世界へ照明を当てていく。セックスや死という根源的なレベルが、外在的な世界の暴露と挑発のためにある」と評し【5】、情念や個別性といった不合理を排除する社会的状況に対する批評性を見出している。
より実践的なレベルで美術分野の反博運動を牽引したのは前衛芸術グループ「ゼロ次元」の加藤好弘によって組織された「万博破壊共闘派」である【6】。1969年2月に行われた「万博破壊ゼロ次元名古屋大会」を起点とする「万博破壊共闘派」には「告陰」、「ビタミン・アート」、「ザ・プレイ」、秋山祐徳太子ら多くの美術家が集うことになった。彼らは全裸での片手上げなどのパフォーマンスで知られ、このパフォーマンスは、御堂筋通や万博協会前、京都大学をはじめ全国各地で行われた。
実のところ、彼らの活動に70年安保に対する政治的な行動理念のようなものを確認するのは難しい。しかし、全裸による前近代的儀式は、日本万国博に象徴される進歩主義に対する反抗の振る舞いとして大きなインパクトを残している。
【3】企画者は針生、粟津潔、川添登、泉真也、松本俊夫、東野芳明。参加者としては企画者のほかに磯崎新、唐十郎、高松次郎などがいる。当時の様子は『デザイン批評』第6号に詳しい
【4】針生一郎「チカチカ芸術の運命」『三彩』第241号、三彩社、1969.03、p.8
【5】多木浩二「EXPOSE・1968なにかいってくれ、いまさがす批評」『デザイン批評』第6号、風土社、1968.07、p.114
【6】「万博破壊共闘派」および「ゼロ次元」については下記に詳しい。黒ダライ児『肉体のアナーキズム―1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』grambooks、2010。椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998
1970年を超えて
他方、建築分野の運動体として、当時早稲田大学の学生だった重村力、宮内嘉久が主催する建築ジャーナリズム研究所所員だった有村桂子ら建築学生や若手所員による「建築家’70行動委員会」がいる【7】。1968年11月17日の「万博拒否!建築家総決起集会」で結成したのち、デモや機関紙の発刊などを行なった。彼らは反戦、反安保の立場から日本万国博の政治性を追及する基本的姿勢を示すとともに、「建築」という営みと資本主義構造との関係へと焦点を当てる。
科学者や技術者という職業が成立したのは資本主義発展の過程においてである。成立と同時に科学や技術は科学者や技術者のイニシアチブから離れ、資本に奉仕するものとなった。すなわち、建築家が職業として成立したと同時に建築技術は建築家の手から離れ、資本という怪物に奉仕するものとなった。
引用:無記名「万博に孕む問題(Mori)」1968.09.10。宮内嘉久資料(52-1-79)、京都工芸繊維大学美術工芸資料館所蔵
彼らは自身が理想とする建築表現が既に資本主義体制によって奪われているという「建築」そのものの抑圧を象徴するものとして日本万国博を認識する。この問題を打破するために取りうる唯一の行動は、既成の建築界そのものの全否定であり、彼らは自らの日常と建築の創造性の解放を目指して「万博粉砕」と叫ぶのである。
最後に、1969年8月7日から11日にかけて大阪城公園で開催された「反戦のための万国博」に触れたい【8】。「ベトナムに平和を! 市民連合」の支部である南大阪ベ平連から企画が発案された後、山田宗睦を代表とする反戦万国博協会が組織された。6万人が訪れたという会場では連日、フォークソングや演劇、絵画、映画のほか、ティーチイン、市民大学、大衆討論が展開された。全国各地のベ平連、各大学の全学共闘会議、さまざまな芸術領域の反博団体や作家など、その参加団体の多さには目を見張る【9】。
ベ平連は、「反戦運動というものを、単に「デモ」をするとか、「集会」をするとかいうことだけでなく、まさに「文化」の創造としてとらえ、そういう方向にむかって活動してきた」と自認していた【10】。彼らにとって、「反戦のための万国博」は政治的、経済的論理によって形骸化した「文化」を再構築するためのものであり、それは「70年にむけてのたんなるステップとしてのみ存在するのではな(く)、”さわやかな未来”に向けての一つの不可欠の道程」でもあった【11】。
【7】「建築家’70行動委員会」については、活動当初、顧問的立ち位置を務めた宮内嘉久に関する展覧会「編集者宮内嘉久―建築ジャーナリズムの戦後と、廃墟からの想像力」(京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2021)においても触れられている
【8】「反戦のための万国博」については「ハンパク1969―反戦のための万国博―」展(立命館大学国際平和ミュージアム、2019)に詳しい。下記の報告はオンラインでも読むことができる。ハンパクプロジェクトメンバー「「ハンパク1969―反戦のための万国博―」展示について」『立命館大学国際平和ミュージアム紀要』第21号、立命館大学国際平和ミュージアム、2020、pp.83-96
【9】当日は「万博破壊共闘派」による片手上げも行われている。また、関連企画と思われる同年9月22日に山手ホールで開催された「ハンパク大ティーチイン」のフライヤー(ヴェトナム3[ファイル番号:0206]、吉川勇一氏旧蔵「べ平連」関連資料[コレクションID:S01]、立教大学共生社会研究センター所蔵)には、「建築家’70行動委員会」や針生のほか、プロヴォーグ、日宣美粉砕運動などの名前も確認できる
【10】無記名「”反抗”から”創造”へ―反博協会の誕生について」針生編、前掲書、p.297
【11】山本健治「ハンパクの意義―現代の告発とわれわれの思想の創造を」『ハンパクニュース』No.4、ハンパク協会、1969.08.07、1面。ヴェトナム3(ファイル番号:0206)、吉川勇一氏旧蔵「べ平連」関連資料 (コレクションID:S01)立教大学共生社会研究センター所蔵。引用文中の括弧内は筆者による追記
いま、反博を知ること
ここで紹介できた事例は一握りであるが、反博運動が実際のところ、日本万国博に反対すること自体を目標としていなかったことは明らかである。反戦、反安保という政治的立場の上に立ち上がった個別の問題意識から、彼らは1970年以後の未来のために、それぞれに日本万国博反対を掲げていたに過ぎない。
いま、多様化する社会において私たちは如何なる未来を描き出すことができるのか。「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとする2025年の大阪・関西万博は人類総体での議論の場になり得るはずである。賛成派、反対派問わず、目先の経済的恩恵ばかりを話題にする現状は甚だ寂しい。そもそも万博の第一義は経済的恩恵ではない。もちろん当時と社会の状況は大きく違うものの、反博運動を知った私たちは、再び万博を前にして、自らの、そして社会の未来を考えるきっかけを手にしているのではないだろうか。
続く後編では、政治性と創造性の狭間で日本万国博への関わり方を模索した参加者の実践を取り上げる。体制との関わりを自覚することとなった参加者は、その批判的超克を模索し、内部における日本万国博批評を試みることになるのである。
鯉沼晴悠 / Haruhisa Koinuma
1996年生まれ。戦後日本を中心的な対象として建築、デザイン、美術に関する調査研究、展覧会企画などを行う。京都工芸繊維大学大学院博士後期課程/金沢工業大学五十嵐威暢アーカイブ所属。企画した展覧会に「ATGの映画ポスター」展(京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2022)などがある。