関西を拠点に現代美術の制作・企画を行う佃七緒(つくだ・ななお)と、パフォーミングアーツの研究を行う庄子萌(しょうじ・もえ)によるアーティスト・リサーチユニット「ねる neru」。美術などの展覧会や演劇・パフォーマンスを鑑賞するときに、鑑賞者が「どのように作品と時間を過ごす(または過ごさない)か」を中心に、アートの企画設計を研究・試行している。2024年春からは神戸・岡本のOAG Art Center Kobeにて、公募で集まったつくり手たちとともに、作品の鑑賞体験を探る・試す・観る・話す場をつくる月1回程度の「実験会」を開催。
そんな「ねる neru」のふたりが、Instagramを用いてまるで往復書簡のように「鑑賞」にまつわる日々の気づきをアップしている。本連載では、そのやりとりの一部をのぞき見る。
病院と劇場のインストラクション
手術前検査というやつで大学病院に行った。
受付機械が吐き出した紙には何時にどの数字の場所に行けばよいかが記されている。そこで何をするかはひと言で記されるのみ。文字の意味こそ知れ、しかし私にはそれが具体的にどの検査であるかはよくわからない。心許ない気持ちで数字を探して歩く。行けばわかる、ということなのか。
行けばわかる、ということであった。
しかし、各地点で明かされる情報は小出し。再びの受付機械はそのエリア内で行くべき2ヵ所が書かれた紙と検査用の紙コップを吐き出した。少し迷っていると、案内役としてフロアの中央にいる看護師さんが「先にこっち」と伝えてくれる。指し示されたドアを開いてもよくわからないなと思いながら検査用の個室に入ってみて、その情報量に驚いた。プロセス、方法、求められる量、すべてについて記されたポスターが所狭しと壁を埋め尽くしている。場所を移動しながら情報を少しずつ集めていく、だんだんと意味がわかってくる経験がゲームのように感じられて笑ってしまった。
みっしりとインストラクションに囲まれたトイレの個室で、専門知識をもたない多くの患者が慣れない病院で置かれた状況は、どういう居方をすればよいのかわからない作品に放り込まれる経験に似ている、と考える。行った先で必要十分な情報が明らかになるのだ、ということもまだわからない状態での戸惑い。行けばわかることが徐々に明らかになれば安心して身を委ねることができる。One-to-oneには、そして「ねる neru」が(たぶん)目指している作品と向き合う鑑賞体験の準備には、最低限この状態を達成する必要がある。パフォーマンスないし鑑賞の枠組みのなかに安心して身を委ねられること。
個々の作品どころか、芸術作品に馴染みの薄い鑑賞者にとっては劇場やギャラリーそのものが「何か知らないルールに支配された、どう振る舞えばよいかわからない場所」なのかもしれないとも考える。インストラクションと道筋のつくり方。そのなかにそっと明示的でない何かを潜ませること。
ひとたび、このわかるようでよくわからない経験の手順がじわじわとしか明かされないことを受け入れ、このへんで自分の受付番号が表示されるまで待っておけばいいんだろうとあたりがつけられると、周囲に意識が向く。明らかに手慣れていて足繁く通っているに違いない人、ベッドや車椅子で検査に送り届けられてゆく入院中の人、私のようなビギナー、誰がどんな立ち位置なのかが少しずつ見えてくる。場に漂うものを読み取って、ここではこう振る舞うのか、と文脈を取り込んでゆく過程がパフォーマティブで、自分の未知の空間でじわじわと居心地を獲得していくような場がつくれたら嬉しいと考えた。
写真はこのたびの活動の場であるOAG Art Center Kobeの窓をにじり降りるキセルガイ。ふとこういう周縁に目を留めているうちに時間が過ぎたっていいような、ゆるやかな展示発表の空間がいいと思う。
周縁にあるもの、目の端に映るものがやっぱりずっと気になっているんだと思う。
2024年6月5日(水)庄子萌
監視モニターを鑑賞する
右上に私はいます。
宿の、自分のベッドから出た真ん前の、とても見やすい位置に監視カメラの映像モニターがあり、ベッドに腰掛けてそれをぼーっと眺める。
今自分がいる空間を表現しているはずのその映像は、角度の関係で自分の身体がほとんど見えない。
どうやったら映り込むのか、意地になってきて、カメラの位置を目視し、結構頑張って手の角度を調整しながら振って、リアルタイムさを確認する。
そうこうしてるうちに、ほかの人が這い出てきたり戻ってきたりして、通路で髪を拭いたりパッキングをしはじめたりする気配と映像が同期する。
これは鑑賞するためにある映像ではない。
この映像モニターがここにあることで、カメラの記録内容がとても重要というよりも、「見られてて記録されててバレるから悪事を働くなよ」ということを知らせる犯罪の抑止目的が強いことがわかる。
ただ、この場所でわざわざ映像を鑑賞していると、一般的に「監視カメラ」と言うときの「見られている感じがして嫌だ」「見られてることを意識してしまう」みたいなものは意外と感じないなあとも思った。
通路を動く人の気配を感じる居心地はいいし、見ていて面白い。そして見るのをやめたらカメラのことは忘れる(私に映像越しに見られていた人は不快やったかもしれないが)。
そもそもこういったホステルに泊まっている時点で、宿泊者は完全なプライベート空間はとっくに諦めていて、通路ですっぴんや下着が多少曝け出されていても、お互いに気にしないという暗黙の了解がある。プライベート空間の端っこが溶けて重なっている。
見られる前提でそこにいる。
でも他者に見られることを意識するほど(自分も他者を見るほど)暇じゃないし、暇を過ごす時間も場所もない(くらい起きてる限りやることがあってそこを動いている)。だからプライベートな動きを「見られる」前提のわりに、「見られることを意識した身体や動き」にもそんなにならない。
私はひとり、勝手に(見ることを許された気になって)良い映像を鑑賞した。(言ってみたものの)鑑賞する、とは?
2024年6月12日(水)佃七緒
佃七緒 / Nanao Tsukuda
2009年京都大学文学部倫理学専修卒業、2015年京都市立芸術大学大学院美術研究科(陶磁器)修了。国内外に滞在し、他者の日常にて行われる周囲の環境や状況への「カスタマイズ」を抜き出し、陶や布、写真、映像などを用いて表現している。近年の活動に、個展「地のレ展」(NIHA / 京都 / 2023)、La Wayaka Currentでの滞在制作(アタカマ砂漠・チリ / 2023)、「RAU 都市と芸術の応答体」に参加(黄金町・神奈川 / 2022)、京都 HAPS での企画『翻訳するディスタンシング』資料集出版(2022)、など。
https://nanaotsukuda.com/庄子萌 / Moe Shoji
京都大学にてフランス文学と英文学を学んだのち、2010年より渡英。英シェフィールド大学にて演劇・パフォーマンス研究の分野で2021年に博士号取得。ものの《あわい》にあるもの、そこで起こる事柄に深い関心を抱き、パラテクストの概念を応用した、パフォーマンス作品およびパフォーマンス・フェスティバルの分析を目下の研究テーマとしている。研究活動と並んで翻訳も行うほか、現在は演劇や翻訳と同様にパフォーマティブな営みである言語教育への関心も深めているところ。