関西を拠点に現代美術の制作・企画を行う佃七緒(つくだ・ななお)と、パフォーミングアーツの研究を行う庄子萌(しょうじ・もえ)によるアーティスト・リサーチユニット「ねる neru」。美術などの展覧会や演劇・パフォーマンスを鑑賞するときに、鑑賞者が「どのように作品と時間を過ごす(または過ごさない)か」を中心に、アートの企画設計を研究・試行している。2024年春からは神戸・岡本のOAG Art Center Kobeにて、公募で集まったつくり手たちとともに、作品の鑑賞体験を探る・試す・観る・話す場をつくる月1回程度の「実験会」を開催。
そんな「ねる neru」のふたりが、Instagramを用いてまるで往復書簡のように「鑑賞」にまつわる日々の気づきをアップしている。本連載では、そのやりとりの一部をのぞき見る。
居合わせるという気持ち
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土曜日の午前9時半、祇園祭の宵々々山を明日に控え、各山鉾での授与品に朝から列をなす人々。長刀鉾の保存会の建物からお稚児さんが担がれて出てくるところに行き合った。
このために今か今かと待ち受けていた人々、偶然行き合ったのをこれ幸いと視線とスマホのカメラを向ける私のような人々。そんなことはどうでもよくて、通りを歩きたいのにお稚児さんの行列のために制止される人々、授与品の列に並ぶことが忙しくて周囲で起きていることに大して気づいていない人々。そんな周囲の混沌に影響されず、ただ行事は進められていく。お稚児さんが白い馬の背に乗せられたところで、私も自分の目的地へと方向を変えた。
見られることを意識してつくられてはいるが、見られることのみを目的としているわけではない儀式や儀礼には、その行為そのもののもつ強さのようなもの、思わず見てしまう何かがある。
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少し話はずれるが、故エリザベス女王の公開安置に敬意を払う人々の列を延々とネットで生中継していた2022年9月の6日間、仕事をしながら夜遅くまでサブのスクリーンでずっとその様子を見ていたのを思い出す。常に注視していたわけではないが、ロンドンで長い長い列に並び、さまざまな距離感と違った仕方で、でも一様に故人に敬意を払う人々と同じ幅の時間を私も過ごしていた。何かひとつの時代が区切りを迎えたという感慨と追悼、それに淡々と同じリズムが繰り返されるなかにあるバリエーションの心地良さも手伝って、ずっと見ていられるように感じた。儀式である以上、終点も決まっているので、その営みを見届ける、(物理的距離はあるが)居合わせるという気持ちもあったと思う。
対象がなんであれ、観る行為そのものはパフォーマティブな営みで、その行為自体が観る者にもたらすものがある。と、いうことを観る者に投げ返してくれる作品(であれ何であれ)が強度をもつ作品ということなのだろうか。
2024年7月13日(土)庄子萌
追記&コメント
私は阪神の優勝パレードをずっと流していました。違うか(笑)。つくだ
いや、違わない気がする。阪神ファンにとっての儀式。夜通し踊る郡上おどりとかにも似たものを感じていて、目撃したいと思っているところ。しょうじ
感覚を支える
これは、鳥籠花火というものの残骸である。
店のおばちゃんが、「この花火は鳥籠になるから!」と繰り返した。「鳥籠になる」の意味がわからず購入した。
てっきり鳥籠型に見えるような火花でも出るのかなと思っていたら、手に持っている糸で吊り下がる箱が、かなりの火花を噴きながらとにかくぐるぐる回転する。
花火が終わって、暗がりのなかで目を凝らす。シルエットから、糸で吊り下げていた箱が、上下に分離し、糸を格子にした鳥籠らしきものになっていること、なかに鳥らしきものがいること、はわかった。
(私は店のおばちゃんが「手持ち」と言った言葉を信じて注意書きをよく読まなかったが、本来は「2m以上の棒の先に糸を結んで箱を吊り下げて火をつける」よう注意書きが書かれているので、ちゃんと読んで正しく遊びましょう)
夜の暗闇でこの花火をやると、終わったとき、鳥籠は正直見えない。
これまで花火をしてきた経験のなかではじめて、終わった花火を水のバケツに放り込まずに持ち帰った。
どういうことなのか?となって調べて、昼花火という文化と歴史があることを知る。
昼花火と夜花火は、方向性の違いがある。昼は主に音や光のタイミング、煙の色や残り方を楽しみ、夜は光の複雑な色や動き、サイズや密度を楽しむ、らしい。それは花火側の違いで、人間側の観る構えも大きく違うと思う。たとえば五感のチューニングが違ったり。周りの人との距離感が違ったり。
ネットで検索すると、この鳥籠花火は「昼間用」と書かれていることも多い。でも、私がこの鳥籠花火を真っ暗ななかでやったことに不満だったかというと、意外とそうでもない。
持って帰って明るい光で見たときに、こんなんやったのか〜とまじまじ観るくらいに、鳥籠花火のデザインは良く、かつ、そのアイデアと紙と糸の耐火性とに感心して、持って帰ってみて良かったなと思う。
あらためて考えると、この花火をするのに昼と夜とが選べるなら、私はやっぱり夜がいい。
昼に、鳥籠になっていく様子を時間経過に沿って眺めるより、夜に、鳥籠になるのを期待して、暗闇での火花の光の強さと動きに驚いて、でも鳥籠は「見えない、見えない」とスマホのライトを焦って照らし合って。持って帰ってみたら振り回したからか糸は千切れているが、なかの鳥や箱の可愛さをあらためて確認できて。その一連の体験が面白く、その暗闇のドタバタを受け止めるだけの力が持ち帰ったもの(のデザイン)にはある。
ビッグアーティストな蔡國強はとてつもない昼花火を福島・いわきの海に上げたが、私たちにはまた別のやり方で、チューニングのズレや、ものが感覚や記憶を支えうることも含めて、つくることのできる体験はあるのではないかと思う。
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2024年7月21日(日)佃七緒
「鑑賞」をめぐる日常対話 その1
暗がりの向こう
ただの鑑賞者でいい
名前の力「鑑賞」をめぐる日常対話 その2
鑑賞の距離
観客とルール「鑑賞」をめぐる日常対話 その3
病院と劇場のインストラクション
監視モニターを鑑賞する「鑑賞」をめぐる日常対話 その4
居合わせるという気持ち
感覚を支える「鑑賞」をめぐる日常対話 その5
待つ時間
無視できないこと
佃七緒 / Nanao Tsukuda
2009年京都大学文学部倫理学専修卒業、2015年京都市立芸術大学大学院美術研究科(陶磁器)修了。国内外に滞在し、他者の日常にて行われる周囲の環境や状況への「カスタマイズ」を抜き出し、陶や布、写真、映像などを用いて表現している。近年の活動に、個展「地のレ展」(NIHA / 京都 / 2023)、La Wayaka Currentでの滞在制作(アタカマ砂漠・チリ / 2023)、「RAU 都市と芸術の応答体」に参加(黄金町・神奈川 / 2022)、京都 HAPS での企画『翻訳するディスタンシング』資料集出版(2022)、など。
https://nanaotsukuda.com/庄子萌 / Moe Shoji
京都大学にてフランス文学と英文学を学んだのち、2010年より渡英。英シェフィールド大学にて演劇・パフォーマンス研究の分野で2021年に博士号取得。ものの《あわい》にあるもの、そこで起こる事柄に深い関心を抱き、パラテクストの概念を応用した、パフォーマンス作品およびパフォーマンス・フェスティバルの分析を目下の研究テーマとしている。研究活動と並んで翻訳も行うほか、現在は演劇や翻訳と同様にパフォーマティブな営みである言語教育への関心も深めているところ。