関西を拠点に現代美術の制作・企画を行う佃七緒(つくだ・ななお)と、パフォーミングアーツの研究を行う庄子萌(しょうじ・もえ)によるアーティスト・リサーチユニット「ねる neru」。美術などの展覧会や演劇・パフォーマンスを鑑賞するときに、鑑賞者が「どのように作品と時間を過ごす(または過ごさない)か」を中心に、アートの企画設計を研究・試行している。2024年春からは神戸・岡本のOAG Art Center Kobeにて、公募で集まったつくり手たちとともに、作品の鑑賞体験を探る・試す・観る・話す場をつくる月1回程度の「実験会」を開催。
そんな「ねる neru」のふたりが、Instagramを用いてまるで往復書簡のように「鑑賞」にまつわる日々の気づきをアップしている。本連載では、そのやりとりの一部をのぞき見る。
待つ時間
しばらく、というには長過ぎるほどに間が空いてしまった。
これかな、いやいやこちらか、いやまだまだ、と書きたいことと書くべきことの間を彷徨っている間に数カ月。その間にもいろいろと鑑賞の機会には恵まれたし、鑑賞のことを考え続けてはいる。
かねてより、ある空間の性質と日常を含み込む作品に関心を寄せてきた。街、道、駅、ホテル。普段の建物や空間の性質をそのまま背景に借りて、その空間にパフォーマンスを忍ばせるような作品群について、空間を鍵に書きたいと考えていながらまだ時間を取れていない。先日の短すぎる渡英では詰め込んで10本くらいの作品を観たのだが、そのなかで楽しみにしていたのが『Manual』。普段どおりに人々が利用している昼間のバーミンガム中央図書館で行われる作品だという。
この作品そのものについてはまた別の機会に書きたいと思っているので、ここでは公演がはじまるまでのしばらくの時間について書く。
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前日に受け取ったメールには、図書館の正面玄関の写真が添えられ、「外でお会いしましょう」とあった。少し早く着いてしまったので、肌寒い午後(小雨が降っている夕方だった)だけれど外で待つ。ちょうど小学校の授業が終わりに近づく時間帯で、図書館を訪問していたらしいいくつかのクラスが、少しずつ間を空けてぞろぞろと出てくる。制服に身を包んだ子どもたちの一団もいれば、お揃いの帽子をかぶったグループもいる。「1列で歩きなさい」と児童に向けてではなく空中に放り投げるように指示をする先生を眺める。子どもの集団のなかに、バーミンガムの街を形成している多様なエスニシティを見る。
しかしパフォーマーらしき人はだれも近づいて来ない。
またしばらくすると、きょろきょろしながら立ち止まる人がいるけれど、そのだれもがほかのだれかと落ち合って去っていく。街の中心とまでは言えない立地にある図書館の前が、こんなに人の邂逅の場になるんだなと思う。
さすがにしびれを切らして屋内のフェスティバルTシャツを着たボランティアに声をかけると、One-to-oneにはよくあることだが、やや遅れが出ているのだという。「では外で待っていましょうか」と言うと、「寒いからまだなかにいたらいいよ」と言われる。
なかに入ると、1階はあまり図書館という風情ではない。広いロビーのようなスペースの上部に大きな画面があり、利用方法やどんなアクセシビリティの支援があるかの動画が繰り返し流れている。真ん中にエスカレーターがあり、その上が図書館になっているようだった。
屋内に荷物や上着を置いて待っていると、「パフォーマーの準備ができたようなので」とボランティアとは別の若者(パフォーマーその人ではない)が現れる。再び外に出ると、自分たちの姿が映る入り口のガラスに向かって並んで立つよう促される。「ある本の引用を朗誦しますね」と若者は詩の一節を口にする。言葉が横から流れ出るのを、その人と私のふたりの姿がややぼんやりと映るガラスを眺めながら聞き、再び図書館に。そして作品に足を踏み入れた。
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常々思うことだけれど、待つ時間というのは意図されたものであれ、偶発的なものであれ、作品の前置きとして重要な一部になる。図書館を行き来する人々、そこでだれかを待ちあぐねている人、その人のところに遅れてやってきた人。上演時間の遅れではあったけれども、人の日常が交錯するのをしばらく眺めていられたのは、この街においてはよそ者である私にとってはその場に馴染む時間になった。時間がぽかんとあけば、すぐスマホを見てしまう昨今、人はどれくらい待つことに耐性があるだろう。どういう仕立てなら、「待つ」行為を周囲に目を向けて(いつはじまるのか、え、もしかしてはじまっているのか?とややそわそわしつつ)、そこに居ることを感じる時間にできるだろうか、と考えた。
2024年11月3日(日)庄子萌
無視できないこと
パンダとともにそこにはいろんな愛があって。
みたいな気持ちになりながら、パンダのいる部屋を観ていた。
世界や時代の流れとして、野生動物を人が一方的に鑑賞する空間は推奨されないようになってきていると思う。餌が出てくる扉にすがりつくパンダを見て、それを群がって人間が観る状況を観て、うぐぐと胃がねじれる気持ちも芽生える。
ただ、「パンダを観る」という強い目的が記憶を残すきっかけとなり、その場所に、いつ、だれと、どういう流れで行ったのか、人の記憶に残ることになるのは、なんだかやっぱり関心があって。
子どもが訳もわからず連れてこられたり、大人が大層なカメラを持って巡ってきたり、外国のカップルが旅行がてらに立ち寄ったり。それぞれの人間の文脈に、本来野生動物であるパンダが関わる必要はきっとないのだが、パンダだからこそ、強く記憶に残るきっかけにもなる。
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すごく難しい。もう経済は長い期間動いてしまって、それにものすごい労力で従事する人もいる。ガザの動物園のニュースを見たりすると、問題はより一層複雑で。
私はどうしても人が好きなので、パンダという場が生むさまざまな人のエピソードを大事に思う気持ちもどうしても無視できないと思ってしまう。難しい。
2024年11月12日(火)佃七緒
「鑑賞」をめぐる日常対話 その1
暗がりの向こう
ただの鑑賞者でいい
名前の力「鑑賞」をめぐる日常対話 その2
鑑賞の距離
観客とルール「鑑賞」をめぐる日常対話 その3
病院と劇場のインストラクション
監視モニターを鑑賞する「鑑賞」をめぐる日常対話 その4
居合わせるという気持ち
感覚を支える「鑑賞」をめぐる日常対話 その5
待つ時間
無視できないこと
佃七緒 / Nanao Tsukuda
2009年京都大学文学部倫理学専修卒業、2015年京都市立芸術大学大学院美術研究科(陶磁器)修了。国内外に滞在し、他者の日常にて行われる周囲の環境や状況への「カスタマイズ」を抜き出し、陶や布、写真、映像などを用いて表現している。近年の活動に、個展「地のレ展」(NIHA / 京都 / 2023)、La Wayaka Currentでの滞在制作(アタカマ砂漠・チリ / 2023)、「RAU 都市と芸術の応答体」に参加(黄金町・神奈川 / 2022)、京都 HAPS での企画『翻訳するディスタンシング』資料集出版(2022)、など。
https://nanaotsukuda.com/庄子萌 / Moe Shoji
京都大学にてフランス文学と英文学を学んだのち、2010年より渡英。英シェフィールド大学にて演劇・パフォーマンス研究の分野で2021年に博士号取得。ものの《あわい》にあるもの、そこで起こる事柄に深い関心を抱き、パラテクストの概念を応用した、パフォーマンス作品およびパフォーマンス・フェスティバルの分析を目下の研究テーマとしている。研究活動と並んで翻訳も行うほか、現在は演劇や翻訳と同様にパフォーマティブな営みである言語教育への関心も深めているところ。