
白い小舟のなかで交わる死と生の雰囲気
人が何かを失うときに得るものがあるとすれば、それはどのようなものだろうか。その何かが得られたとして、人生観や世界観はそのときどのように変わりうるのだろうか。西端みずほによる個展「everything without exception」が、アーティスト・ラン・スペース「デラハジリ」(藤井寺市土師ノ里)において1カ月半ほどにわたる公開滞在制作を経て、開催された。
スペースに入ると、白く透きとおった光に包まれる。静謐な光の下に照らされて、人がひとり横たわれるほどの小さな舟が淡々とたたずんでいる。秋の終わり、冬にかかろうとする冷気を含んだ空気に、微かな死の感触とともに温もりをもった生の予感が辺りを満たす。死と生の雰囲気はともに呼吸と鼓動に合わせて、疼くような存在感をもって身体のなかに息づく。濡れた灰青の色をした壁を背景に、その部屋はガーゼあるいはシーツを思わせる白い木綿に覆われている。そこには誰かが自然へと還り、誰かがこの世界に生まれたというふたつの人生が交わるところがあった。
人は何か大切な存在を失うとき、どのように向き合い、過ごすのだろう。そのような弔いをめぐる問題を抱えて、アーティストの西端は「精神的な不安や傷を負った際に戻ることのできる、心理的安定を与える拠り所」として「安全基地(Secure Base)」【1】となる空間をインスタレーション作品としてつくろうとする。親族あるいは親しい人を失ったアーティスト自身の言葉にならない感情を共同体、そして人類とともに分かち合うために、現地での滞在制作と近隣にある古墳に由来する「共飲共食儀礼」に寄せたオープニングが行われ、観客から聞いた供えものがつくられ、配置された。



水を思わせる薄い空色がかった白い小舟は、古墳時代の埋葬の風習に寄せて死者を冥界へと送り出す棺のように見立てられているが、その小舟の内面や側面、そして床には作者自身の誕生を前に印刷された母胎と胎児のエコー像を敷きつめ、水晶末(すいしょうまつ)や方解末(ほうかいまつ)、胡粉(ごふん)といった白い自然物を絵具として塗装されていた。棺と母胎、死没と出生の印象を一緒に感じさせる小舟に身を置くと、人を失うという出来事のなかで自分自身が生まれ直しているかのような予感に包まれる。揺りかごのようにも見える小舟の縁は、波立つ水面のようにも、横たわる裸体のようにも、古墳の稜線のようにも見える抽象的な線となって現れてくる。


白い小舟の横に据えられた矩形の台に配置されたミニチュアは、水先に同行する水鳥埴輪や小さなガラス片からなる洞(ほこら)とともに、パンや団子、食器をはじめ、観客から聞いた大切な人に供えたいもの、観客自身が供えられたいものが並ぶ。舟先にかけては、背高の白蝋燭と鈍いむらをもって白く塗られた四角いカンバスのようなものがある。水葬のためのしつらえは、出生の予感とともにどこか華やいでいるかのようだ。入口近くに配された白い鉛筆、霧がかったイメージの個展フライヤー、余白の残る芳名帳、癒やしの念が込められた透明の保湿オイルは、失われた空白の世界と見出されるであろう物語の余白の間を揺れている。
部屋の明るみで描かれる白い洞の写真/絵画
白く照らされたスペースにある小舟のなかから周囲を見渡すと、そのどれもが写真のようなものとして現像された静物画の光景のように見えてくる。「それはかつてあった(ça-a-été/that-has-been)」【2】と『明るい部屋』のなかでロラン・バルトが述べたように、写真のイメージは無限の彼方と主体(撮影者または観客)との間にある場所に手に負えないもの、あるいは扱いえないもの(intraitable/intractable)【ⅰ】として見出される。さまざまな時間を併せ含んだ瞬間としてある写真的なイメージを静物画の光景として新たに素描し、彩色し、見直すための装置として本展のインスタレーション作品を見てみよう。
灰を思わせる水晶や方解石、貝殻の粉末で白く塗り込められた胎内のエコー像は、生体内で動く胎児の存在をパルス波とその反射波のなかでイメージへと変換され、縞の印象をもって小舟の床に浮かび上がる。鈍いむらをもって白く塗られた四角いカンバスは、冥界へと葬られることになる失われた人の遺影を思わせるとともに、胎児の出生後の成長を追った記録写真や家族写真にもなるかのようだ。写真的なイメージとして自然の絵具で描かれる抽象画は、「死んだ自然(Nature Morte)」、あるいは「静かな自然(Still Life)」としてカメラ・オブスキュラ(暗い部屋)のなかで現像されるような静物画ではない。

白い抽象画のようなインスタレーションは、カメラ・ルシダ(明るい部屋)の光学装置によって描かれ、つくられ、構成されている。白い小舟の側に円形に撒かれたガラスの粒は、インスタレーションを構成しているものがカメラ・オブスキュラのなかで固定されるイメージを逃れようとしていることを暗示している。白いもののイメージは、一般的な思い入れをもって関心を寄せることを可能にするような明確な意味として解釈されるストゥディウム(studium)であることをやめ、突き刺さるほどの小さな斑点や裂け目をともなう鈍い意味として感受されるプンクトゥム(punctum)のように現象している【ⅱ】【3】。
写真的なイメージとして描かれる静物画において、名状しがたい感情に鈍い意味をもたせるプンクトゥムは、波によって生まれた縞として小舟に現れ、鈍いむらとともに白く塗られている。静謐な光に照らされた部屋の明るみで、白い鉛筆をもって霧がかったフライヤーに書かれるかもしれない文字、芳名帳の余白に記されることになる署名、あるいは鈍いむらをもったカンバスに描かれたかもしれない画は、新たに意味を産み出すエクリチュール(書くこと/書かれたもの)となって、光線のように白く輝く。生と死の印象に満たされた白いインスタレーション作品は、写真的なイメージのなかに潜在するプンクトゥムとして書きつけられ、描かれたものとして実現している。
インスタレーション作品のなかで生まれ直す

白い小舟の棺は北枕に向けられ、その横には3つの白い小さなクッションが置かれている。観客として訪れた人は、ひとりで、あるいは誰かとともに、クッションに座るかもしれないし、横たわるかもしれない。そのとき、その人の物語は時空を超えた生と死の間で、白昼夢のようなビジョンを獲得するだろう。白い洞のなかで棺、あるいは母胎としてある白い小舟は、水面の波立ちや横たわる裸体、古墳の稜線を思わせる抽象的な線となって、写真的なイメージとして描き直される。その人の言葉にならない鈍い意味は、ほかの誰かのものと交わる。かつてあった物語は、これからあろうとするものになる。
古墳時代の水葬を思い起こしながら、作者と観客が集い、自分のために、そして大切な誰かのために供えものをする。死者を送る棺としてあった白い小舟は、胎児を包み込む母胎、あるいは心のよりどころとなって作者と観客を受け入れる。そこでは、失われた人との別れにおいてひとつの営為が解かれ、別の仕方で自分自身と向き合いうると信じさせるような出来事が起こっている。私たちが「everything without exception」のインスタレーション作品において経験したことは、白い洞のなかで失われた人を想い、他者と出遭い、受け入れるなかで起こる人生観と世界観の変容、あるいは生まれ直しという出来事への信ではないか。

死の暗い時間が立ち込めていたであろう古墳の洞は、いまこれからに向けて生まれ直す人のための白い洞となる。心のよりどころとしてつくられたインスタレーション作品は、観客の参加とともにその完結性を解かれ、部屋の明るみにおいて絶えず描き直されるだろう。個人的な悲しみは古墳時代から現在へと至る人類の歴史的な時間のなかで捉え直され、とても普遍的で大きなカタルシスとなる。共同体の営為が常にすでに死とともに有限であり、不特定の何かに対して/とともに開かれているのであれば、ジャン=リュック・ナンシーが『無為の共同体』において結論するように、「われわれとしては、さらに先に進むしかない」【ⅲ】【4】。
P.S. アーティスト・ラン・スペース「デラハジリ」は、アーティストの下浦萌香により人々の集まる場への関心をもって展開されているという。古市古墳群に囲まれた藤井寺というまちでフィールドワークの視点も巻き込みながら展開されるアートプロジェクトの展覧会として見たときに、本展はひとつの目的と完結性をもった作品=営為(œuvre / work)が絶えず更新される非作品=無為(desœuvre / unwork)へと開かれる場になっていると理解することもできるだろうか。
筆者注:
【ⅰ】かつてそこにあり、すでに失われたものは、記憶のなかで憧憬の対象となる。喪失による感傷を治癒することが難しいとしても、不在の対象をトレース(追跡=透写)しようとすることで未来はまだないものとして立ち現れる。
【ⅱ】喪失の感傷はまだないものの胎動のように感じられる。写真(photo-graph)もまた光(photo)によって記述=描写(graphy)されている。プンクトゥムは、扱いえないものとして書かれ、描かれうる、鈍い意味を産み出す。
【ⅲ】対象を喪失するという出来事において、人は共同体の営為のなかで社会的な諸関係から解かれ、作品は解釈の媒体から放たれる。営為の限界に向き合いながら、いまだないもの、扱いえないものを別の仕方でつくり、生きていくこと。
参考文献:
【1】Mary Ainsworth, etc. “Procedures”. Patterns of Attachment. Lawrence Erlbaum Associates. 1978, 31-44.
【2】ロラン・バルト(著).“《それはかつてあった》”.明るい部屋:写真についての覚書.花輪 光(訳).みすず書房,1997, 92-95.
【3】前掲書2.“「ストゥディウム」と「プンクトゥム」”.37-39.
【4】ジャン=リュック・ナンシー.“無為の共同体”.無為の共同体:哲学を問い直す分有の思考.西谷 修(訳).以文社,2001, 3-78.
F. アツミ / F. Atsumi
クリエーション・ユニット Art-Phil、アート・ギャラリー/イベント・スペース monade contemporary|単子現代。都市経営修士。編集/批評を通してアート・哲学・社会の視点から多様なコミュニケーション一般のあり方を探求するとともに、キュレーター/アートマネジャー/ギャラリストとして現在のアート・哲学・社会について考え実践するための展示活動を行なっている。大阪-京都-東京でただいま活動中。

西端みずほ 個展「everything without exception」
会期:2024年11月7日(木)〜24日(日)
会場:デラハジリ公開制作
日時:10月27日(日)11:00〜15:00オープニングパーティ+アーティスト・ミニトーク
日時:11月9日(土)18:00〜21:00(19:30よりミニトーク)入場料(①・②どちらか選択式):
①500円+手土産(みんなでシェアできる食べものか飲みもの)
②1,000円※出入り自由/予約不要