
心斎橋のYoshiaki Inoue Galleryにて、アーティスト・岡本啓の個展「phōtos」が開催される。
岡本は、写真を表現媒体としながらカメラを使わず、フィルムと印画紙の持つ「光によって発色する」性質を利用し、完全暗室のなかで「光」を色彩/形として記録する独自の手法で、光学実験のような絵画制作を行っている。
大阪では5年ぶりとなる本展では、2024年より取り組む作品シリーズ”Photo Variation”の、平面と映像による新作を発表。「光がものを見せる不思議」に主眼を置き、同一イメージから多様なバリエーションを表出する。
作家ステートメント
眼は。丸い眼球の前面に水晶体があって、そこから光を、眼球奥の網膜に集めて結像する。
しかし近視の(私の)場合、網膜の手前で結像してしまうから、届くころには逆に拡散して惚ける。外出には不便だから当然コンタクトレンズをしている。けれどたまに──それは意識的に──裸眼のまま外へ出てみることもあって、そのとき景色は、散乱する(または集体する)珠としか見えなくて、いつものレンズ越しに見るそれと全く別物のように感じられる。2つの世界を見ているような、なんだか得をした気分になる。
身体的な「誤差」でこれだけ視える景色が違うのだから、知覚の仕方も個々に違うはずだ。それは優劣という意味ではなくて、情報として脳に取り入れる優先度のようなものだろう。
じゃあ、と考えをめぐらせる。網膜に焼き付いて視覚中枢で明滅する「光」が、私達のなかに「あるイメージ(或いは、ある意味)を形作る」ことを「見る」と言うならば果たして、知覚された瞬間のあとの、私の中で形成されたイメージと、あなたの裡で意味付けられたそれは、同じなのだろうか。
例えば目の前を青い車が通って、それを美しいと思って誰かに伝えるときに「車のきれいな青」と言うのと「きれいな青い車」と言うのとでは、受ける印象は違ってくるような。そんなことが、イメージの生まれる瞬間にも起きているはずなのだ。その時点から無限にも思えるバリエーションが生まれ存在して、私(あなた)はそのうちの、ただひとつだけを理解する。
メートル原器を引用して世界の標準化を茶化したマルセル・デュシャン (Marcel Duchamp, “3 Standard Stoppages”, 1913-14) は、「目の悦びのみに依った」絵画の有り様への批判として、有名絵画を悉く「網膜的」と言った。最近は何かといえば〈共有・拡散〉とか言うけれど、本来個人的な感覚である芸術を共有できる価値に嵌め込むことは、土台無理がある。私は、デュシャンの皮肉を言葉の通り受け取って、うんそうだよ、と開き直って、網膜で捉えた瞬間の爆発的な広がりを視覚化してみるという試行をしている。
世界は──認知することに限って言えば──無数に存在するバリエーション、豊かなるぐちゃぐちゃである。
分かるとか見たとかいうことより「ただ見えている」ことを──光がものを見せている不思議を──提示しようと努める。散乱する珠はほんとうにきれいだから、私に視えていないあなたの景色も美しいのでしょう?
網膜に到達する刹那の、「視える」とか言うような、率直な、現象そのものを知らせるような仕方で、「光」がそこに在るように。岡本 啓
岡本 啓 個展「phōtos」
会期:2025年6月13日(金)〜7月11日(金)
会場:Yoshiaki Inoue Gallery
時間:11:00~19:00
休廊:日・月曜、祝日
問合:06-6245-5347
大阪市中央区心斎橋筋1-3-10
心斎橋井上ビル 2、3F