2024年春に開店20周年を迎えた、大阪・肥後橋のCalo Bookshop & Cafe。その記念イベントとして、シンポジウム「アーカイブの未来 喪失する記憶と生成する記憶」が、2024年11月30日(土)に、Caloが入居している若狭ビル3階のギャラリー、Yoshimi Artsを会場に開催された。
第一部が美術評論家・美術史家の伊藤俊治による講演「デジタルアーカイブの病と治癒」、第二部が写真家の畠山直哉と写真家・批評家の港千尋による対談「見ることと信じること:生成と消滅の世紀における写真」という二部構成。会場参加に加えライブ配信も行われ、筆者は配信で視聴した。
講演者の3名は、2014年3月に開かれたCalo開店10周年記念シンポジウム「統合する力へ アートと学びの場の未来」と同じ顔ぶれであり、かつて大阪にあったアートスクール、インターメディウム研究所の講師陣でもある。今回進行を務めた文筆家・編集者の三木学、そしてCalo店主の石川あき子もそこで学んだ面々で、港はCaloの名づけ親でもあるという。来場者の多くも同研究所ゆかりの人々であり、冒頭、「10年前のシンポジウムにも来た方はいますか?」と三木が会場に問うと、多くの手が挙がった。
第一部、伊藤はふたつのアーカイブを軸に話を展開した。ひとつはオーストリアのグラーツにある、ピエール・ブルデューのアルジェリア写真のアーカイブ。もうひとつはカンボジアのプノンペンにある、トゥールスレン虐殺博物館だ。

前者は社会学者、哲学者であるブルデューが、アルジェリア独立戦争時に撮影した写真のアーカイブ。ここに収められている写真は戦争の目的を明らかにし、それを人々に伝える目的をもちながら、「記録することと同時に、記録している研究者としての眼差しが二重写しになったもの」だという。「生と死が共存していた時間を生き、今もその経験を生きているアーカイブだと言えます」と、過不足のないアーカイブだと評する。

後者はクメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジアで、国民の約4分の1にあたる約200万人が命を落としたとされる大量虐殺に関する博物館だ。同館は政治犯収容所・処刑所として使われていた元学校を、そのままアーカイブ施設として運用している。処刑寸前に撮影された顔写真がアーカイブになっており、それを見ていると「犠牲者の目に見つめられている想いになる」「ここには死の直前の生の佇まいがある」と伊藤は語った。
この対照的なアーカイブの紹介の後、本講演名の引用元である『アーカイヴの病 フロイトの印象』(福本修訳、法政大学出版局、新装版2017年)の著者、ジャック・デリダが「アーカイブは新しい歴史家」としていたことに触れ、ブルデューやトゥールスレンのアーカイブはその実践、従来とは異なる歴史の層を掘り返していると指摘。
またデジタルアーカイブの問題として、20年前は劣化させずに保存できる手段として期待されたものの、現在ではデジタルデータのほとんどが回復不能になっている現状について触れた。そして、その喪失の速度が我々にもたらす影響を危惧しつつも、「広大な海の波打ち際で、亡霊と化した荒ぶる記憶、歴史をなだめて未来のアーカイブの道を示すことができるのか。そのヒントは今日話したことに含まれている。死までいきいきと、時代錯誤的に亡霊たちのあらがいとため息を救っていきたい」とまとめた。
休憩を挟んでの第二部では、畠山と港のざっくばらんとした対話からスタート。最近制作でAIを使ったという港が、「出力されたテキストに以前とは比べものにならないような知性や感性を感じた」と話すと、対して畠山は「学生がAIの技術をどう役立てたらいいか四苦八苦していた」と応えた。写真家が撮影したものと同じような画像を、プロンプトによって出力するAI。そのプロンプトは文法に則った言葉であり、言語によってイメージが生み出される。「AI生成画像だけではなく、視覚表現は言語によって成り立っている。世界の根本を支えている性質が言語にあり、そこから写真が生まれる」と畠山は話す。表現行為は言語から逃れられない。この言語といかに関係を結ぶかで、生まれるイメージもまた変化するのだろう。

畠山は撮影の際、対象に立ち止まるのは「言語化されないレベルでの引っかかり」だと言う。ここで話題は、第一部で紹介していたブルデューにつながった。ブルデューについては、港が著書『写真論 距離・他者・歴史』(中央公論新社、2022年)でも「写真とハビトゥス」として一章を割いている。その「ハビトゥス」――「環境によって生まれる趣味、嗜好、行動の傾向であるとともに、そのような傾向性を生み出す構造」(『写真論』より)――が撮影行為にはあるが、プロンプトにはないと港は述べた。
これを受け、港は「ほとんどの写真家はスタイルが変わらないのでは」と畠山に問う。すると畠山は、「“スタイル”をもった写真家はいるだろうか?」と懐疑的な反応を見せ逡巡しながら、「ハビトゥスという言葉はフィットする」と付け加えた。ここでの畠山の「スタイル」が腑に落ちないという姿勢、「ハビトゥス」であれば合致するという言葉への厳密な態度は、先に述べた表現行為と言語の関係性を考えさせられるものでもあった。
また、畠山はInternationale Photoszene Köln(ケルン国際写真フェスティバル)のメインプログラムとして実施されている、アーティストがアーカイブを利用して作品制作を行う「ARTIST MEETS ARCHIVE」を紹介。本企画に2023年に参加した畠山は、ケルン東アジア美術館が有するアーカイブのうち、明治時代に在日外国人への土産物や輸出品として販売された、いわゆる「横浜写真」に着目。そして、写真に写った場所の現在の風景を、現地へ訪れて撮影し、ポストカードにして会場に配架した。「Yokohama Souvenirs」と題されたこのプロジェクトは、ポストカードを媒介にして過去と現在を二重写しにする試みだったと言えるだろう。

終盤、参加者からの質疑応答で、再びAI生成画像についての話題がのぼった。畠山はAI生成画像に対し、写真が一般的になる前に活用された新聞や雑誌記事の挿絵のようなものであり、状況として「写真以前」に回帰しているのでは、と見解を示した。その上で、「前はそう思っていなかったのですが、写真には画期的なところがあると思うようになったんです。そして、それは今も価値として継続している。そういったことを最近は港さんとよく話しているんです」と語り、本編は幕を閉じた。
畠山の言う写真の「画期的なところ」とはなんだろうか。AI生成画像との対比によって浮かび上がったのだとすれば、プロンプトのような手法ではなく、撮影者の振る舞い、まなざしの跡が焼きついていることが重要だろう。光の痕跡である写真は、撮影された場所、時間の限定性に根をもつ。そのようなメディアは唯一無二であると、話を聞きながらあらためて受け止めた。
さまざまな話題が展開した本シンポジウム。第一部で伊藤が述べたように、デジタルアーカイブをいかに保存していくかという問題は90年代には想定されていなかったものだ。それが同じ学び舎で講義を聴講していた人々を前に語られたことで――当時と現在、その両方に立ち会っているからこそ――実感をもってみな聞き入っているようだった。一朝一夕ではなく長く考えを交える「場」をもってきたがゆえに、長く紡がれてきた文脈のなかで立ち上がる言葉がある。そのような印象を受けた2時間半だった。
Calo Bookshop & Cafe 20周年記念シンポジウム
「アーカイブの未来 喪失する記憶と生成する記憶」日時:2024年11月30日(土)
シンポジウム 14:00~16:30
懇親会 17:00~19:00会場:Yoshimi Arts(シンポジウム)、Calo Bookshop & Cafe(懇親会)
講師:伊藤俊治・畠山直哉・港千尋
進行:三木学技術:有限会社アサヒ技研 八木啓介
フード・ドリンク:土と日
グラフィックデザイン:後藤哲也主催:Calo Bookshop & Cafe・「記憶の学校」実行委員会
協力:Yoshimi Arts、The Third Gallery Aya