
心斎橋のMarco Galleryにて、2026年5月30日(土)より、大竹舞人、中川幸夫、Houxo Queが出品するグループ展「生と死と美が並ぶ瞬間は続くのか」が開催される。
STATEMENT
生と死の気配に触れるとき、私たちは自らの足が確かに地面につく感覚を覚える。だが、濁流のように押し寄せる時間のなかでは、その確かささえ失われてしまう。昨日誰と話し、何を食べたかすら覚えていない薄弱な記憶の積み重ねのなかで、まるで千鳥足になってしまいそうである。本展に集う三人の作家は、そんな私たちの首根っこを掴み、宿命的に私たちと結びついている「時間」と「生」と「死」、そしてそれに絡み合う人間の情念がもつ強靭さとしなやかさを、それぞれの手法によって鮮烈に示してくれる。
中川幸夫は、戦前に生まれ、叔母をきっかけにいけばなと出会い、前衛いけばなという新しい領域を切り拓いた大家である。彼は生涯を花と向き合うことに捧げ、「付き合いなんだよ。いちばんよく花と自分とがわかるという状態。人間同士だって同じでしょ、よく付き合わなきゃ相手がわかんないわけよ」と語っている。その言葉どおり、芽吹きの祝祭も、衰退や死の陰りも、さらには生々しい苦みや痛みさえも、すべてに分け隔てなく尊厳を持って「付き合う」を徹底していたのではないだろうか。中川の手にかかると、生命の始まりと終わりに隔たりはなくなり、等しく抱え込まれ、圧倒的な美と強さを放つ。そこにあるのは、結果として美しいかどうかではなく、過程をも含めてあらゆる局面を美へと昇華しようとする執念に思う。越後妻有で催された《天空散華・妻有に乱舞するチューリップ―花狂―》では、ウィーン少年合唱団の歌を背景に、天から切り落とされたチューリップの花びらが舞い降り、大野一雄がその中で踊った。チューリップは次世代の球根を残すために最盛期に花を刈り取られる宿命を背負う。本来ならば人間の手によって花を落とす必要はないはずだが、人間が介入することで生命は犠牲を強いられる。中川はその暴力性を自覚しつつも、そこに弔いと祝祭の同時性を見出し、花と人間が交錯する光景を創出した。いけばなは本来、生命を断ち切る行為であり、植物から見れば人間は侵略者である。中川はそのことを心に抱きながらも、それでもなお花を生けずにはいられなかったようにも感じる。その取り憑かれたような執念が、狂気と美を同居させる稀有な作品を生み出したのではなかろうか。
Houxo Queは、アナログからデジタルへの過渡期を青春期に体験し、青年期にはインターネットと液晶ディスプレイの普及をリアルタイムで経験した世代に属する。Queにとってディスプレイとは、単なる映像再生装置ではなく、現代社会において人々の生活を覆い尽くす「イメージ消費社会」の最たる象徴である。そこに映し出されるものは現実の写しでありながら、同時に現実を凌駕して私たちの感覚を支配する「虚像のリアリティ」である。私たちは日々、無数の映像や画像に触れ、それらを通じて世界を理解しているが、そのイメージは軽やかに消費され、やがては現実と区別がつかないほどに溶け込んでいる。彼の代表的なインスタレーションにおいて、モニターは単管パイプで突き刺され、機能を奪われた「仮死状態」として観者の前に置かれる。それは単に壊れた機械を提示しているのではなく、私たちの生き方そのものを鏡のように映し出す仕掛けである。観者はその光景を目にするとき、自らが質量を持たないイメージの中に依存し、物質的な身体を持ちながらも精神的な身体を失いつつあることに気づかされる。イメージの世界に没入する私たちは、実際には生きながらにして「仮死状態」に陥っているのではないか──Queの作品は、そうした不穏な問いを観者に突きつける。彼の手によって、もともとはただの製品に過ぎなかったモニターは、まるで「仮想の生命体」のように観者の前に屹立する。Queは、自然の花に対しても人工の機械に対しても同じ眼差しを注ぐ。彼は薔薇の枯れゆく姿に「威厳ある美しさ」を見出すというが、それと同様に、消費社会の歯車として生産され、使われ、そして予定調和的に死を迎える人工物にもまた、死の尊厳が宿ると考えているのである。モニターの寿命は、自然の生のように偶然や必然によって閉じるのではなく、あらかじめ設計された人工的な時間の中に組み込まれている。そのことは、自然に生まれ、老い、死んでいく生命のリズムと鋭く対照をなす。Queの作品は、この二つのリズム──自然の寿命と人工の寿命──が同時に乱立する現代社会の状況を可視化し、私たちが今後ますます人工物と共に生き、そして死と向き合わざるを得ない宿命を示唆している。
大竹舞人は、消費社会のなかでいわゆるB級品とされるような布を素材として選び取る。その布は、機能や品質の基準を満たさないがゆえに取りこぼされ、価値を失いかけた存在である。大竹は、それらを強い力を込めて自らの手で編み上げていく。編まれる布は、もはや「廃棄物」ではなく、彼の身体を通じて新たな生命を吹き込まれ、再び立ち上がる存在となる。彼の制作には常に「ルール」が設定される。そのルールは一つではなく、時には編み方の規則であり、時には制作のリズムであり、あるいは社会に存在する目に見えない規範や作法を写し取ったものである。私たちが日常生活のなかで知らず知らず従っている「同調圧力」や「暗黙の了解」、そうした社会的な枠組みが大竹の制作の背景に置き換えられるのだ。彼は布を編むたびに、その社会的ルールに従属しながらも同時に、そこから逸脱していく。長時間に及ぶ反復作業のなかで、彼の身体は次第に変容する。意識と無意識のあわいを行き来し、人間でありながら機械のようにひたすらルールに従い続ける存在へと近づいていくのである。だが、彼は完全な機械になることはできない。感情を持つ人間であるがゆえに、疲労や感覚の揺らぎが作品ににじみ出る。その瞬間、大竹の身体は「半人間半機械」となり、彼自身が語るように「トランス状態」に入るのだ。こうして編まれた布は、もともと平面として存在していたにもかかわらず、いつしか自立し、壁や建築物のように空間に立ち上がる。そこにある形は、設計図や予定調和に従ったものではなく、ルールに従いながらも身体の反復運動の中から自然発生的に生まれてくる造形である。そこには必ず「エラー」が潜み、だからこそ唯一無二の存在感を放つ。大竹の作品は、私たちが社会のルールに従いながら生きる存在であること、しかし同時に常に逸脱の可能性を内包している存在であることを、布という身近で脆弱な素材を通じて可視化する。消費社会の中で「生産」されて価値を失った布は、大竹の手にかかることで、新たに「誕生」する。生産の論理から取りこぼされたものが、彼の身体を媒介にして再び立ち上がるとき、そこには「生産品から生命体へ」という転換が起きるのである。
三人の作家はそれぞれに、花、モニター、布を通して、人間と時間、生と死における宿命的関係を異なる仕方で描き出す。中川は花と人間の関係に潜む暴力性と慈しみを同時に抱え込み、生命体としての人間の在り方を問う。Houxo Queは消費社会における人工物を仮想生命体として立ち上げ、半生命体としての人間の姿を映し出す。大竹は生産品として価値を失った布に生命を吹き込み、社会と人間が相互に規定し合う姿を現象化する。三者三様の実践を通して私たちは、自然と人工、祝祭と弔い、狂気と美が交錯する中で、人間がいかに生き、死に、社会と「向き合う」のかという宿命的な問いに立ち会うことになるのである。
–
作家プロフィール
大竹舞人 Maito Otake
東京都生まれ。東京藝術大学彫刻領域博士後期課程修了。
ある構造をもった対象の生成を通じて「行為」を物質化させる。制作は事前に定められたルールに基づき行われ、その指示に従って行為を反復することで、自身の身体を道具のように扱う。中川幸夫 Yukio Nakagawa
1918年香川県生まれ。1941 年に華道家元池坊に属していた叔母のもとでいけばなを始める。戦後、作庭家の重森三玲の推挙により「いけばな芸術」で作品が紹介されると世間の注目を集めるが、白菜を丸ごと生けた作品「ブルース」について家元と衝突し、1951 年に流派を去る。その後は流派に属さず、弟子も取らず、独自の花による表現を追求。2012年死去。Houxo Que
1984年東京生まれ。
1999年グラフィティを始める。10代でグラフィティと出会い、ストリートで壁画中心の制作活動を始める。以後現在まで蛍光塗料を用いたペインティング作品とブラック・ライトを使用したインスタレーションで知られる。作品の制作過程をショーとして見せるライブペイントも数多く実施。2012年頃よりディスプレイに直接ペイントする手法で制作を始める。
Group Exhibition「生と死と美が並ぶ瞬間は続くのか」
出品作家:大竹舞人、中川幸夫、Houxo Que会期:2026年5月30日(土)〜6月27日(土)
会場:Marco Gallery
時間:13:00〜18:00 ※最終日は17:00まで
定休:月・火曜、祝日 ※水曜はアポイント制
協力:谷光章(映画「華いのち 中川幸夫」監督)
大阪市中央区南船場1-12-25
竹本ビル







