大阪の下町・淡路で自転車屋・タラウマラを営む土井政司さん、鳥取の温泉街・湯梨浜町でセルフビルドの本屋・汽水空港とターミナル2(食える公園)を営むモリテツヤさん。ふたりは、「経済をまわせ」という掛け声の大きいこの時代に、人間らしい暮らしのあり方を模索し、自分の信じたものを商い、生活の活計を得ています。「信じるに値する価値観を地べたからつくるには?」という問いを投げかけてはじまった本往復書簡。ふたりのやりとりは、どのような思索へとつながっていくのでしょうか。
第3便は土井さん。モリさんからの「スピらずにスピる」というキーワードから、土井さんの考える信仰について答えます。
私にとっての信仰とは
モリさん、こんにちは。私の不躾な質問にも真摯かつ丁寧に答えていただき、ありがとうございます。拝読して、嗚呼この人は信頼できる方だ、と確信しました。聖人君子ではなく欲望にまみれた生き物であることを自覚する私は、自分たちの目的遂行のために日々の営みを続けているのですから。そもそも聖人君子というものを最初から信用していません。なぜなら私たちは本というものの可能性にこそ希望を見出しているからです。本は何も諭さず何者も導かない。本に書かれたことを理解するなんてことは書いた本人以外には絶対にできないことですし、もしかしたら著者本人にとっても理解など到底できないものなのかもしれません。
それでもはるか昔から人々は文字を書き、言葉を記し、思考の痕跡を残してきたわけです。いつの時代の、どのような人間に読まれることになるのかも判然としないままに。それはまさに欲望の成せる業だと思います。自分はこうありたい、こうしたい、世の中はこうだからもっとこうした方がいい、そのような想いをあらゆるレトリックを用いて言葉に変換し、書物として残してくれた人々がいる。その一端に触れることで思考の共鳴が活性化し、明日の自分をどう生きるかを考える契機になる。
本なんてものは解釈の仕方は千差万別で、それをある方向性に紐づけようとするからおかしくなる。政府や企業の目論みは最初から破綻しているはずなのに、気がつくといつの間にかそこに巻き込まれて多くの人たちが足元を掬われる。自分もそうです。大地に立脚したはずが、そこはプリンの上で、それにすら気づかずに順にプラカードを配られるのを待つ日々。本来、私たちは自分の足元だけをしっかり見つめ、精査し、モリさんが畑を耕すように手をかけていれば良かったのです。他人の領土を踏みにじることなく、自分の座る場所を見つけて、隣にいる人を大切にする。そんなシンプルなことが極めて困難になってしまった世の中の綻びを、微力ながらもなんとか1本ずつ解いていこうとはじめたのがタラウマラでした。自転車と本と音楽、人と人をサイクルさせるためのショップです。
少し極端な言い方かもしれませんが、鉄道インフラや自動車を利用することは、それらを設計した人たちの思惑に乗っかることになる。自分が行きたいと思っているような場所であっても、実は何者かが勝手に描いたストーリーに行先を選ばされているんです。人々の行動が簡略化された上に大別されてしまうことほど恐怖を感じることはありません。だからシーズンによって人間の集まる場所が変動する。すべては設計者の思いのままというわけです。しかし自転車は自分の足で漕がなければ動いてすらくれない。逆に言えば、ペダルを回転させさえすれば、どこへでも行けるんです。体力と行動範囲が簡潔に直結している、自分の身の丈を知るには最適の乗り物でしょう。
淡路というまちは大阪のなかでも極めて自転車利用者の多いところで、昔から個人店舗のチャリンコ屋がたくさんありました。しかし大手チェーン店が参入してくることで、個人店は衰退の一途を辿る。淡路に限らず、日本中どの地域でも起きていることです。コロナ禍でシマノ製のパーツなどの供給が滞ったことの要因のひとつに大手企業の独占購入が挙げられますが、これはもう他人の領域を蹂躙する不遜な行いと言うよりほかにありません。
タラウマラは自分たちのできることをお客さんにも明確に伝えています。「その手の修理なら○○店の方が得意ですよ」とか「そのタイプの自転車なら○○店の方が安く買えますよ」なんてことを平気で提案します。それは自分たちですべてを抱え込む気がさらさらないことに加えて、そういう考えを少しでもまちに伝播させたいという想いがあるからです。自分たちが生きていくための金額を正確に把握し、余計な分は循環させる。循環なので放棄しているわけではなく、また戻ってくることを期待しているんです。むちゃくちゃ腹黒いですよ(笑)。モリさんがセルフ出版した『台湾滞在記』に書いておられた「日常で意思を示したい」という言葉には青痣ができるくらい膝を打ちました。お客さんから持ち込まれた自転車を修理するのも、しないのも、私の「意思」なんです。ここがチェーン店と個人店の明確な違いではないでしょうか。「すべてのお客様に喜んでいただけるサービスを」なんて絶対に言いたくありません。
そして、本です。本は移動すら伴わない、他者と接触することなく足元に扉が開かれるのです。人との接触を回避しなければいけないと言われる世の中で、これほど可能性を秘めた「道具」はほかにないでしょう。そう、私にとって本は自分の足元を耕すための道具なんです。本をファッションアイテムのように収集する人や、本から知識を得ようとする人もいますが、私の場合はそうではありません。サミュエル・ベケットの書いた本に出会って、人は何度でも同じ石ころに躓くもんなんだと教えられたんです。そのとき、構築型の価値観から完全に解き放たれた気がしました。
何をやっても、何度生まれ変わっても、同じところで躓く。だから何をしてもダメなんだということではなく、それでも続けなければならない、言葉がある限りは、ってベケットは言うんです。大人になったからと言って成熟とは程遠い人生を送っている私にとって、これほど救いになった言葉はありません。子どもの頃に克服できなかったものは大人になってもやっぱり克服できない。幼少期に感じた社会に対する違和感も、未だに払拭できずに抱えている。それでもやるんだよ、という気持ちにさせてくれたのはサミュエル・ベケットの書いた本に出会えたからです。そういう本の力を信じているから、チャリンコ屋であるにもかかわらず、タラウマラでは書籍を最重要アイテムとして扱っています。自転車の修理に来たお客さんが1冊の本と出会って、何や壊れててもええんや、治さなくてもええんや、って思ってもらえたら最高で、それはもしかしたら信仰と呼んで差し支えないようなものなのかもしれません。モリさんが最も大切にされている本、あるいは人と本を巡るエピソードなどがあればぜひともお聞きしたいです。よろしくお願いいたします。
DIALOGUE|小さなまちで商うふたりの往復書簡:土井政司(タラウマラ)×モリテツヤ(汽水空港)
第1便 まちに門戸をひらくということ
第2便 本屋の必要性が浮かび上がるとき
第3便 私にとっての信仰とは
第4便 言葉と出会う
第5便 小さなアジールをめざして
第6便 人生を味わうために
土井政司 / Masashi Doi
1980年大阪府生まれ。タラウマラ店主。
DJ PATSAT 名義で文筆。
季刊zine『FACETIME』企画・編集。
2020『DJ PATSATの日記』を上梓。
2022『DJ PATSATの日記vol.2』リリース予定。
https://tarahumaraaw.thebase.in/
https://www.instagram.com/mashashe.d/