大阪の下町・淡路で自転車屋・タラウマラを営む土井政司さん、鳥取の温泉街・湯梨浜町でセルフビルドの本屋・汽水空港とターミナル2(食える公園)を営むモリテツヤさん。ふたりは、「経済をまわせ」という掛け声の大きいこの時代に、人間らしい暮らしのあり方を模索し、自分の信じたものを商い、生活の活計を得ています。「信じるに値する価値観を地べたからつくるには?」という問いを投げかけてはじまった本往復書簡。ふたりのやりとりは、どのような思索へとつながっていくのでしょうか。
第2便はモリさん。土井さんからの問いかけを受け、「食える公園」について答えつつ、本屋をやる意義につなげます。
本屋の必要性が浮かび上がるとき
はじめまして。汽水空港のモリテツヤと申します。まず、大幅な文字数オーバーに拍手を捧げたい気持ちでいっぱいです。「400~600字」でいろいろなことが語り合えるだろうかと心配していたのですが、余裕で制限を突破してくれて嬉しいです。これで僕も心置きなく文章が書けます(笑)。今、土井さんが書いたZINE『DJ PATSATの日記』を読んだところです。装飾抜きの心と心との摩擦、衝突。装飾がない故に、それが泣けるほど暖かくもあれば、切り裂かれるほど痛くもある。そんな日常を過ごされているのだと感じました。誤魔化しやお世辞は通じない、むしろ安心して正直な文章を書いてもいいだろうと思えました。よろしくお願いします。
鳥取には2011年にたどり着きました。それ以前は2年間農業の修行をしていました。自分の食料を自分で確保することができれば、儲からないと言われる本屋をやっても死なないだろう。そして人生の時間を「金のためだけ」に費やすことを避けるためにそうしました。農業修行で滞在していた場所は栃木にあり、修行最終日が2011年の3月11日でした。
以前から関心を持っていた山口県の祝島での原発反対運動や、それに関連して回し読みしていたフォトジャーナリズム誌『DAYS JAPAN』には、たしか2011年の1月号で「震度6以上の地震で福島原発は壊れる」というような記事が出ていました。事故の影響は未知で、当時の僕は原発を「人や自然の破壊を前提にした経済活動の象徴」ととらえていたので、それが爆発したことで、人々は新たな暮らしを求めていくことになるだろうと予想しました。そしてすぐに避難と土地探しを開始しました。目的はシェルターのような役割も兼ねた本屋をつくることでした。まさに同じ頃、坂口恭平さんがゼロセンターを早々と創設し、避難する方々を受け入れていました。僕はどうにか鳥取の安い家賃の家を見つけたまでは良かったのですが、自分ひとり生きていくだけで精一杯。というかむしろ友人も知り合いも仕事も車もなくて死にそうになっていました(笑)。そして紆余曲折を経て、その5年後に本屋・汽水空港をオープンし、休業を挟みながら今までやってきました。
「我慢なんてしなくていい。嫌になったら逃げ出せばいい」という言葉は、就職から逃げ、原発から逃げた自分にとってはそのとおりだと思う一方で、鳥取の田舎でほとんどの人にとって必要とされていないと日々実感する本屋を今でも続けている身としては、それでもやり続けるんだと思って続けているので、時と場合によって聞いたり無視したりするだろうなと思います。実際、坂口恭平さん自身も「いのっちの電話」を10年続けている継続の人です。「他人の指図からは逃げるべきだが、自分自身から湧き上がる声は決して無視するな」と言い換えてもいいのかもしれないですね。
「ターミナル2(食える公園)」について話を振っていただき嬉しいです。そして指摘はまさにそのとおりで、僕はいいことがしたくて食える公園をつくっているわけではなく、実りが解放された公園をつくることで、自分自身と周囲の人々に「権力」「金」「労働」「公共」などの答えの難しい問題をわざわざ目の前につくり出し、ともに考えるためにやっています。公園と言いつつも実際には僕が個人的に借りている畑なので、誰かを立ち入り禁止にすることやルールをつくることも簡単にできます。権力者のポジションにいるわけです。
人がなぜ労働しなければいけないのか。嫌でも、意味がなくても、自然を破壊してまでも金を稼がなくてはいけないか。それは家賃という逃れられない支払いを求められ、税金という支払いがあるからです。税金をどうにかできる気はあまりしませんが、家賃は個人の心意気でどうにかできることだと考えています。
僕は自分が暮らすために、3坪の小屋を店の裏に自作し暮らしていました。建て終えたとき、「これでここにいる限り家賃の問題はクリアできる」と思いました。僕の場合は小屋なので、その有効期限は短いものでしたが、本来人が家を建てるときには、おそらくその人はこう思ったはずです。「これで自分の子、孫も安心して暮らせる」と。そのように、自分の寿命を越えた先の世界を見据えて家を建てたのではないかと思います。同じように田畑についても、そのように僕はとらえています。大規模な土木工事、長期間の労力を注いで出来上がる田畑は、本人の寿命を越えて、「子孫のために」という思いがモチベーションとして働いていたはずです。それが土地への愛にもなれば、執着にもなったはずです。
「土地を所有する」という概念は、そこに注いだ労力とともに形成されたのではないかと予想します。しかし今、そういった田畑がどうなっているかというと、子孫に所有権はあるが所有している自覚はなく、野に還りつつある場合が多く見られます。僕が借りている「食える公園」も、もともと梨畑だったそうですが、借りた当初は単なるジャングルと化していました。地主の方も手に負えないので賃料は特にありません。そこを切り拓きつつ耕しています。
開墾が進むにつれて、過去の大規模な工事の跡も発見するようになりました。水路であったり、溜池であったり、個人が手作業でつくるには果てしない労力を必要とする事業の痕跡でした。平らに均された地面もその痕跡です。そのおかげで、僕は手作業で、大型機械を使うことなく、最初の開拓者とは比べものにならないくらい軽く短い労力でジャングルを畑に変えて使うことができています。この程度の労力であれば、僕は「この土地は自分のモノである」という欲望を抑えることができます。そして同じような耕作放棄地は日本全国の田舎にいくらでもあるはずです。「軽い労力で金をかけずに畑を手に入れられる」状況がやってきたのは、日本史上初なのではないかとも思います。この状況を、経済システムのさまざまな欠陥が露呈している今、新しい生活、価値観の形成の実験に使ってみようと思いました。そのような取り組みが「ターミナル2(食える公園)」です。
話を家に戻します。今あるさまざまな古い家はもともと誰かの実家です。現代を生きる人はそれぞれの実家を交換しながら、どれだけ多くのお金を「家賃」として徴収できるかというゲームをしているようなものだととらえています。持って生まれたカードをいかに有効に使うことができるかというゲームです。一時的な勝ちはあっても、巡り巡って現れる現実は単なる奪い合いです。人は政治家や権力者に文句を言いはしても、自身が持つ権力に対しては無自覚である場合が多い。「大家」や「地主」というポジションが権力者であるという自覚はあまりありませんし、家賃を徴収することは特に悪いことだとも思われていません。そして僕も大家さんに文句を言いたくもありません。そこで自分自身がそのポジションに立ってみるという実験が「食える公園」というわけです。
起きて欲しいとずっと期待している出来事は、ある日急に来た旅人が実りをすべて収穫してしまうシチュエーションです。その収穫物を育てた人は戸惑いの海に溺れてほしいと思っています。そのとき、関わる人全員の目の前に問題が創出されます。「働かざる者も食うべし」という前提のもと運営される畑で、では一体どれだけ作業を手伝った人間であれば実りをもらってもいいのか、金と交換するのであればいくらなら納得できるのか、そして僕には、この公共の公園に権力者としてルールをつくったほうがいいのだろうか。こういった問題に悩まされるわけです。
人類の歴史がはじまって以来、このような問題に対する明確な解答はまだ得られていません。というより、常にそのとき、その場で形成する知恵や技術を獲得するしかない問題なのかもしれません。しかし僕にはその技術も知恵もない。おそらく関わる人にも。そこでようやく本屋の必要性が浮かび上がるはずだろうと思っています。過去と現代のさまざまな人間の考えてきた痕跡、編まれた知恵が必要とされるはずです。このようにして、長い迂回路を通って、結局自らの商売に結びつけたいという、欲望にまみれた取り組みでもあります(笑)。
本屋をはじめる前にも、はじめてからも、さまざまな人に「こんな田舎で本屋なんて需要がないよ」と数え切れないくらい言われてきました。しかし僕は絶対に需要があると信じています。なぜならば未だ現実として現れていない、無数の過去からの願いが本という形になって今に届いているからです。その願いには時代を越えた普遍性があります。言葉にすれば陳腐になりそうですが。最近は「信仰」みたいなものに惹かれています。現代を生きる人間は「スピらずにスピる」必要があるとずっと考え続けています。
DIALOGUE|小さなまちで商うふたりの往復書簡:土井政司(タラウマラ)×モリテツヤ(汽水空港)
第1便 まちに門戸をひらくということ
第2便 本屋の必要性が浮かび上がるとき
第3便 私にとっての信仰とは
第4便 言葉と出会う
第5便 小さなアジールをめざして
第6便 人生を味わうために
モリテツヤ / Tetsuya Mori
1986年生まれ。北九州、インドネシア、千葉で育つ。農業研修を経て作物のつくり方を学んだ後、土地探しを開始。2011年に鳥取漂着。3坪の自邸をセルフビルドし、店舗となる物件を改装後、2015年に本屋「汽水空港」を開業。以降、本屋の経営と田畑や建築、執筆などをしながらどうにか今まで生きている人間。
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