大阪の下町・淡路で自転車屋・タラウマラを営む土井政司さん、鳥取の温泉街・湯梨浜町でセルフビルドの本屋・汽水空港とターミナル2(食える公園)を営むモリテツヤさん。ふたりは、「経済をまわせ」という掛け声の大きいこの時代に、人間らしい暮らしのあり方を模索し、自分の信じたものを商い、生活の活計を得ています。「信じるに値する価値観を地べたからつくるには?」という問いを投げかけてはじまった本往復書簡。ふたりのやりとりは、どのような思索へとつながっていくのでしょうか。
6便目は、モリさんが土井さんに向けた最終便。「人生のジューシーさ」で結びます。
人生を味わうために
これが最後の便になるのが寂しいです。毎回のメールに自転車のチューブやオイルの香りを感じ、まだ行ったことはないタラウマラ周辺の町の喧騒を聴くような心地がしました。
さどヤン、かっこいいですね。「人間の仕事は生きることや」という言葉は、コロナ禍初期に店を閉じて田畑ばかりしていたとき、子どもが誕生して2ヶ月間育児休暇をしていた僕の気持ちを思い出させます。
去年の9月に第一子が生まれ、2ヶ月間店を休みました。僕はその間、おもに秋冬野菜の準備と家の改装をしていました。妻の明菜は赤子に授乳をし、ヘルプで来てくれた明菜の母は炊事をしてくれました。田畑、家の改装、育児、炊事、洗濯、これら生存に必要な仕事を僕はすべて「家事」と認識しています。共通点は現金収入につながらないことです。収入はありませんでしたが、このような暮らしをいつまでも続けていけたらいいのにと僕は願いました。生きるために食べものをつくる、住居を快適な場所につくり変える、子どもを育てる、食事をつくる……こうした活動はなんの矛盾も無駄もなく、気持ちがいいものでした。
コロナ禍初期に店を閉じたときにも畑をし、昼はピクニックをして過ごしていました。矛盾のない、気持ち良い暮らしから引き離し、いつも僕を現金収入の必要に迫るのはシステムです。それは支払いを迫られる家賃として、税金として、僕らの目の前に現れます。
資本主義経済というのは「人を家事から引き離す」という力をもっています。それは言い換えれば「家事からの解放」として目指される向きもあるのかもしれませんが、人は本当に家事から解き放たれたいのかということを今考えています。人を家事から引き離し、現金収入を求めさせ、そして得た現金で人が何をするのか。それは用意された家の家賃を支払うことに使われ、用意された食べものを得るのに使われます。自らの行為のもとにあった家事から追い立てられ、そして結局金で家事を買うのです。僕はなんでも自分の手でつくりたい。つくることに喜びを覚えます。しかしいつも、システムが僕を、家事だけをしていては生きていけない状況に巻き込むのです。
経済活動が都市部へ人を集中させようとすることは、土から人を引き離すということです。それは人が自ら食べものをつくる機会を失うということです。過密した人口は土地の価値を高め、人が巣をつくるように自邸を建てる余白を奪います。土から人を引き剥がし、頼れるものを金だけにしようとするのがこのシステムです。じゃあそこから逃れようとひとり森で暮らしたいのかと問われれば、そうしようとは思いません。コミューンのような共同体をつくる気もしません。このシステムの内部から、ともに新たな文化を編むことはできないだろうかという試みを、汽水空港という本屋を通じて実践していきたいと思って生きています。
本屋は現金を介在する「商売」でもありますが、売っているのは「思想」「知恵」「物語」です。資本主義経済システムの内部にありながら、その外部へ飛び出ようとする意志を育む場所です。そのような場所を田舎のどこにでもある町のなかで運営していくこと。それがまだ見ぬ現実をいつか立ち上げるのではないかと期待して日々を生きています。まだ見ぬ現実の訪れが、僕の死後でもいいんです。本という物質の強度は人の寿命を軽く越えます。人の行為や意志は、遙か先の未来まで届くのだということを本屋を運営している僕は知っています。そのことが僕の無謀な試みを支えています。
僕はアナキズムの唱える理想が好きで、時々「アナキズムが云々」とSNSで発信しますが、友人はいつもアキナズムと見間違えるそうです。アキナとは僕の妻の名です。最近、自分はアナキズムを生きることはできないが、アキナズムを生きていこうとはしているのだろうなと思っています。
アキナズムとは、これまでに書いてきたような考えや試みに夢中になり、すぐに夢の世界へ羽ばたいてしまおうとする僕が、その直後、隣で生きる明菜や息子の存在を思い出し、この逃れることのできないシステム、国家、金、政治、それらをも含めた環境すべてを生活の足場として生きようとする意志のことです(笑)。
「金なんて知るか」。そう思う気持ちを抱きながらも、生活するには金が要る。その金の、できるだけ気持ちのいい稼ぎ方をしたい。気持ちのいい使い方をしたい。なおかつ隣で生きる人も貧困に喘がない状況を保ちたい。人は金のみで生きるのではないし、思想のみでも生きていない。矛盾も愛しているし、仕事に意味だけを求めてもいない。さまざまな人がいて、生き方がある。この複雑さを生きていくことは難しさの連続ですが、理想を生きようともがくなかで味わう苦しみ、喜び、それらすべては身体を持って生きているからこそ味わえる。そのことを「人生のジューシーさ」ととらえて、しっかりと味わいながら生きていこうと思っています。
土井さんの書く文章とタラウマラの日常から、人生のジューシーさを感じました。そしてそれを読むことで僕は励まされたり刺激を受けたりしました。いつかともに、鍋を囲むようにジューシーさを噛みしめる機会があるかもしれませんね。そうなる日が来るのを楽しみにしています。往復書簡、ありがとうございました!
DIALOGUE|小さなまちで商うふたりの往復書簡:土井政司(タラウマラ)×モリテツヤ(汽水空港)
第1便 まちに門戸をひらくということ
第2便 本屋の必要性が浮かび上がるとき
第3便 私にとっての信仰とは
第4便 言葉と出会う
第5便 小さなアジールをめざして
第6便 人生を味わうために
モリテツヤ / Tetsuya Mori
1986年生まれ。北九州、インドネシア、千葉で育つ。農業研修を経て作物のつくり方を学んだ後、土地探しを開始。2011年に鳥取漂着。3坪の自邸をセルフビルドし、店舗となる物件を改装後、2015年に本屋「汽水空港」を開業。以降、本屋の経営と田畑や建築、執筆などをしながらどうにか今まで生きている人間。