建築家・伊東豊雄の設計により2009年に開館、17年を経た2026年4月に指定管理者交代を迎えた東京・杉並区立杉並芸術会館「座・高円寺」。「東京高円寺阿波おどり」の普及振興、ダンスやパフォーマンスの上演を長年行ってきた本施設にて、2026年4月29日(水)〜5月17日(日)の期間、アーティスト・梅田哲也による新作ツアー型演劇『空洞』が開催された。本作を、インディペンデントキュレーター/批評家の中本憲利がレビューする。
東京都杉並区の公立劇場「座・高円寺」でこのほど発表された梅田哲也『空洞』は、所要時間60分・各回定員10名の上演が20分ごとに催行されるツアー型のパフォーマンスである。観客は、同劇場とさまざまな仕方で関わり合った来歴をもつキャストたちに導かれて会場の内外を経巡り、いくつものシーンを目の当たりにする。作中で俎上に載せられるのは、ある場(サイト)を成り立たせている建築的・インフラ的特徴、異なる属性・立場・身体の人々によって生きられてきた場をめぐる極私的な経験、そしてこれらの交錯したところでメタフォリカルに醸成される、場そのものに「堆積」した「記憶」だ(公式Webサイトに掲出された作品概要を参照)。本稿では、上演の流れを詳細に想い起こしたのち、その達成と2、3の疑問点とを手短に挙げることで、評に代えたい(なお、上演の描写はあくまで筆者自身の想起に基づくものであり──記録映像や台本のたぐいはいっさい参照していない──、細かな事実関係にはほぼ確実に錯誤が散見されるだろうが、〈かつて観た何かを思い出すこと〉を主たる構成原理とする本作の趣旨に照らして、順序の厳密な再現などは目指さない旨、予めおことわりしておく。ただし、執筆に際して、劇場Webサイトで公開されている平面図を確認し、可能な限り記憶との照合を図った)。
事の次第
高円寺駅を北口から出て、中央線沿いの一本道を東へ進んでゆけば、劇場にたどり着く。その開口部は十分に大きいが、屋内を覗き込んでも、日差しの照りつける街路との光量の差が著しくて中の様子は判然としない。そうした陰翳に潜り込むように建物へ入ると、ロビーではすでにさまざまなことが雑然と起こっている。子どもの憩えるスペースと隣り合ってシルクスクリーン製作を行う大掛かりな印刷台があり、天井を見上げると壁面の吊り具に支えられて何やら複雑なからくりが作動しているかと思えば、床に点在する複数の通風孔の上で風船が遊んでいる。こうした物事のはざまを観客とも演者ともつかない人たちがまばらに通り過ぎてゆく。また、ロビーの中ほどに設けられた受付の付近で集合時間になるのを待っていると、時おり管楽器やピアノの音色が辺りに響くが、さしあたりそれらの音源は視認できない。ほどなくして定刻となり、予約者が揃ってツアーがはじまる。

はじめに招き入れられる1階のホールでは、まず、客席に着いてプロローグに相当するシークエンスを見る。2人(かそれ以上)のキャストが、荷台を運んだり、巨大な仮設壁を動かしたりしながらする発話は、必ずしも聴き取りやすくはない。しかしそのぶん上演空間そのものに注意が向く──垂直方向の強い照明に促されて宙を見上げれば、頭上の足場で光が跳ねて別の観客集団のものと思しい複数の影がちらつく。この間、キャストが発し続ける台詞は、劇場を時間的・空間的に定位する性質のものだ。その内の1人が「ここが震源地」とつぶやいて足元に円を描くと、轟音とともに地面が震えて、われわれの身体を揺すぶる。すると、巨大なシャッターが開いて、劇場の内外が不意に接続される。暗闇に慣れたためか遠近感のずれた視覚が、外の歩道を通行人がゆく光景をとらえたところで、序幕は閉じる。

観客を導くキャストは別の誰かに引き継がれる。屋外の貨物エレベーターで地下へ。ワゴンが途中の階で停まると、文字盤を操作する導き手は「開延長」を押して扉を開きっぱなしにする。庫内にとどめられたわれわれは、エレベーターのすぐ外で着席した人がこちらを向いてモノローグを披露するのを見ることとなる。それが済むと、また別の演者がバケツを携えて入ってきてエレベーターの扉を閉め、さらに下階へと向かう。以後、同様の仕方でシーンが次々に連なってゆく。
エレベーターから降りた観客たちは何かの通路に吐き出される。すぐそこで立ち止まった案内役が鍵盤をつまびく身振りをすると、どこからかピアノの音が聞こえてくる。傍らの水場に目をやれば、光源の入った満杯のバケツに蛇口から雫がぽたぽたと落ちている。
さらに導かれてひとつの部屋へ入ると、後ろで戸が閉められて、からくりじみた1コマが起こる。そこはどう見ても衣装室だ。3つの扉のついた間仕切りの裏側から声が響くと、高所に登った人が姿を現す。ややあってそのキャストは床に降り立つ。舞台裏の日常業務をなぞるように忙しなく動き回り──蒸気を吐いていたアイロンの電源を落として収納し、衣装のかかったラックを仕舞い……──、そうしたルーティンを声でも描写する。一連の動作が演じられたのち、観客は目配せで退室を促されるのだが、キャストが左手へ消えたかと思うと、入れ替わるように別の案内役が現れて、客を右手へ手招きする。通路の奥に向かったはずのキャストの後ろ姿はすでに見えず、とにかく鮮やかな交代劇が印象づけられる。


次に連れてゆかれるのは稽古場である。観客たちがみな入室したことを確かめると、そこまで導いてきた人は内壁の多孔ボードをなぞったり、マイムで空間を半分に区切ったりしつつ、遮光カーテンを閉め切って暗くした部屋のなかで発話をはじめる。「震源地は水源地だった」。われわれはキャストのもつ懐中電灯が地面に投じる光に視線を誘導され、いつの間にか壁面に映像が映されていたことに気づく。狭く低い水道のなかを前方へ進むショットは、発される言葉とともに、この劇場の地下階のさらに地下を流れる水脈の所在を示唆する。ただし、垂直方向のみならず水平方向の想像力も喚起される──演者が壁をノックし続けるとそれに呼応する音がして、何往復かこのやりとりが続くのだ(ただし、返事の音源が部屋の隅に置かれたスピーカーであることは明らか)。しばらくしてカーテンが引かれると、先ほどエレベーター前でピアノを鳴らしたキャストが待ち受けている。
その人がわれわれを連れてゆくのは、木材を切る大型の工作機械がいくつも稼働している作業場である。歩み進むにつれ、それぞれの電源は順繰りに切られるので、次第に音がおさまってゆく。静かになった部屋の真ん中でキャストがパイプ状の小道具に息を吹きいれると、鋭い音が響く。しかし、ここまで幾度かあからさまにフィクショナルな音響効果に出くわしたせいで、実際に笛そのものが鳴っているのかもはや確信がもてない。

ともあれ、われわれは純然たるバックヤードというほかない空間をいくつか通り抜けてきた。徐々に判明してくるのは、この上演が、普段は見えない/見えにくい人やものの働きを可感化するドラマトゥルギーに貫かれているということである。同時に、本作は劇場のあちこちで仮設的に舞台を起動し、ある舞台から別の舞台へと観客自身が身体を移してゆく断章的な形式をとる。劇は線状にわかりやすく流れる物語の構造をとることなく、むしろ断片的なシーンの集まりとしてまばらに布置されるもので、必ずしも順序立てては想起できない。ひとところに座り、眼前で展開するパフォーマンスを目にする、という観劇のモードは早々に解除させられる。
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さて、再びエレベーターに乗り込んで、あらためて1階に引き上げられる。パイプと箱馬を携えた先刻のキャストとともに屋外へ。その人は搬入口に据えられたターンテーブルの円周上をひと回りする動作を見せる。すると、劇場の敷地の端から姿を見せた別のキャストが、次なる順路を指し示す。そういえばこれまで観客たちを導いてきた人たちは、立ち止まっている集団を違うところへ動かすときに、ひと言の言葉も発していなかった。案内は最小限の身振りやアイコンタクトのみで事足りていた──われわれは入れ替わり立ち替わりする導き手たちの意をより積極的に汲むようになり、いわばツアーの進行に協力する姿勢で観劇に臨みつつあったのである。
今度は文字通り劇場の外、その狭い周縁部を巡ることとなる。いきなり外光や外気にさらされてたじろぐ観客たちを引き連れて、キャストは建物の裏手に向かう。そこここに痕跡のついた外壁に手を這わせて進む。おそらくスピーカーを身につけている演者は、自身が何らかの環境音の発信源となりながら、フェンスを掴んで小さな塀に上り、側溝を覗き込むような仕草を見せる。さらに、劇場の真裏まで進んで目線を上に向けると、また別のキャストが高所にいて、どこかで見たバケツを掲げている。それから、香草のような葉を掲げて、念入りにこれを見せる。

ぐるりと通用路を巡ってゆけばやがて小さな倉庫が立ち並ぶエリアにたどり着く。管理責任の所在を明示する標識(建設現場で目にするようなもの)が貼られている壁面。その向こうには貯水槽があるらしい。キャストが携えているスピーカーは確かに地下水の存在を仄めかしていたのだが、それと飛び石を渡ってゆくようなマイムがあわさって、水源をめぐる虚実のイメージが像を結ぶ。先を進み、手招きされてまた屋内へ。

観客たちは、地下の楽屋を順繰りに訪ね歩く行程に入る。過去の公演のチラシ類が散乱する楽屋では、キャストがカーテンの裏に消えたと思えば違う人がそこから姿を現す。照明を落とした別の楽屋では、回転する劇場模型に懐中電灯の光を当てて、いくつも穴が空いている「座・高円寺」の外壁の特徴的な意匠を影絵として壁に映し出す。壁掛けのカレンダーは、昨日までの日付にバツがついている。部屋の外を見ると、話し声が板を抱えて通り過ぎ、廊下を紐の結び目が引きずられてゆく。それは順路の先から巻き取られていたものだった。次の楽屋に入ると、劇場スタッフの1日のシフトについてのものと思しいモノローグが怒涛の勢いで読み上げられて面食らうが、よくよく見ると机の上にはそのスクリプトが置かれている(思い返せば、各所で発話されたテキストはすべて印刷され、その空間のなかで明示されていた)。

楽屋巡りの最後に行き着く、横長の鏡が一面に貼られた部屋では、キャストが少し高いところに備え付けられたモニターの電源を点けて、この劇場の除幕式を写した報道映像を流す。部屋の外に出るとそこでは別のモニターが、大人数の参加するオンライン通話の記録映像を映している。何かプライベートの事柄が語られている様子だが、細かな内容は判然としない。なお、モニターの脇にはアナログ時計が掛けられていて、所定の上演時間のちょうど半分を過ぎたところだということがわかる。ふと物音がして振り返ると、エレベーター内の観客集団に向けて語り出す演者がいる。異なる観客集団がところどころで接点をもつのは、冒頭のホールですでに目の当たりにした事態だったが、ここでは自分たちがかつて同じように見られていたのだという反復の印象が刻み込まれる(ちなみに、この段落の描写は劇場の間取りとは明らかに整合せず、エレベーター内の観客集団との遭遇は別のタイミングで起こった出来事かもしれないのだが、先述の方針から敢えて訂正はしない)。

そうこうしているうちに、1階へと戻ってくる。ロビー奥の吹き抜けを囲む大きな階段。ここで先導者は二手にわかれ、一方は下の階に向かうが、われわれは上階に導かれる。2人のキャストの間で何らかのハンドサインが交わされ、それは別れの合図のようにも見えるが、後から回顧すれば手話で会話していたのだと思い至る。やりとりが終わると、下階にいる人がユーフォニアムを鳴らす。これは「空洞」的な音響環境としての劇場のすがたを作中でもっとも直接的に感知させる仕掛けだった。その上、同時に、独りで金管楽器を奏でる人影は合奏への予感をも醸し出して、劇場という場と集団的な制作・鑑賞行為が不可分であることを示唆していた。

観客たちはそのまま2階のカフェエリアに招き入れられる。そこでは一般の利用客たちが喫茶を楽しんでいて、われわれはかれらの日常に闖入したことを実感し、初めて強烈に外の視線を意識する。われわれはカフェの真ん中に置かれた小さな円卓を囲むようにも促されるので、キャスト+観客は、これまでになく緊密に身を寄せあって、上演を共有するひとつの集団として凝集する。間をおかず、店員と思しい(役の)人がやってきて、メニューを矢継ぎ早に紹介する。キャストはすべてのページをめくり終え、何も書かれていないボードを指差す。ほどなくして、どこかで見た香草を抽出したハーブティーが観客たち各人に振舞われ、おかわりをすすめられもする。また、そこから見える中2階ではラジオめいたセットが設けられていて、2人の人物が会話をする声が響く。そのスクリプトはほんの僅かなあいだ卓上で提示される。内容は明快にはわからないものの、おそらくはコロナ禍か震災の際に劇場関係者が経験した非日常を追憶したものと思われる。

カフェの後には、同階の事務室へ向かう。キャストは何人もの職員が事務机を囲んで談笑したり食事をとったりしている仕事場に踏み込み、ホワイトボードの名札をひっくり返して(自分の?)在室を示す。室内には劇場の歴史をうかがわせる小道具(ですらないものも含めて)が溢れている。そこにいる人たちはほとんどが通常業務のただなかにあるように思われるが、本作の作家も席に着いていて──公式Webサイトのプロフィール画像でおぼろげにその容貌を覚えていた──、手元で何かを組み立てている。事務室の出口付近に置かれたデジタル時計は、上演の3分の2が過ぎたところだと告げる。
階段をのぼり、今度は資料室に案内される。部屋の隅に置かれたコピー機は英語の台本めいたものを吐き出しており、机の上には毛筆で書かれた日本語のテキストも置かれている。キャストは扉とカーテンを閉め切ると、移動書架のハンドルを操作しながらモノローグをはじめる。最初は斎藤憐『アメリカン・ラプソディ』の単行本を掲げてあたかもそれを読み上げているかのようだが、途中からは暗誦に切り替わり、読まれていた台詞がその書物に刷られたものかどうかは定かではない。書庫を出ると、発話のなかで言及されたピアノが外で鳴りはじめて、だれかが階下のカフェに置かれたピアノをつまびくのが見える。

若干の注意事項が説明されてから、われわれは最後に狭くて高い通路へ通される。階段では手すりにつかまって、身を乗り出さないように……。そこは件のホールの上部に張り巡らされた細いキャットウォークで、下のほうにはやはり、本作の冒頭部分をいままさに体験している人々がいる。薄暗い足元は案内するキャストが懐中電灯で照らし出してくれる。照明・音響を操るひとが指示を出す声も間近で耳にするなか、突き上げるような振動音がして、シャッターが開き、観客たちはツアーに出発してゆく。
われわれは最下部まで降りて、かれらと入れ違いに着席する。すると、ここまで幾度か先導役を担ってきたろう者と思しきキャストが、おそらくははじまりの一幕を手話で再演する。鳥、波、高さと低さ、揺れる──その人は震源地=水源地に立っている。台詞を終えると、その演者はわれわれに席を立つよう促して、ロビーにつながるシャッターの前まで連れてゆく。そこで手話によるなんらかの結語が発されるが、聴者の私はそれを理解することができない。やがてシャッターが開き、観客たちはロビーに流れ込む。突然の幕切れ。


十八番
梅田哲也は『空洞』において、座・高円寺がどのように用いられている/きたのかを綿密に観察した上で、空間のあちこちに舞台の小さな胚珠を見出す。そればかりでなく、劇場を特徴づける地理的・歴史的な背景から劇場と関わってきた者たちの個人的な思い出にいたるまでの諸事情を複数のタイムスケールでひもとき、シーンの連なりとして再配置してゆく。こうした操作を経て、劇場は、パッケージ化された作品を入れ込む均質なコンテナではなく、いくつもの特異性を内包した固有の時空としてとらえなおされる。
劇場それ自体をその社会関係も含めて丸ごと素材化する本作は、特定の建築物がいままさにここにあるという事実を制作の最大の拠り所とする。その上で作家は、これまで施設のなかで不変項とみられていたさまざまな状況や機構に可変性や可動性を見出し、それらにまつわる「記憶」を比喩的に賦活する。このような制作手法が、プロダクションに携わる多くのスタッフとの協働、すなわち周到な調整や合意形成を要することは想像に難くない。既存の制約(立ち入れる場所や動線など)や使用上の慣行を一時的に変更するために駆使される作家のコミュニカティブな力量は、長いキャリアのなかで蓄えられたもので、そこには相応の卓越性が見てとられてよい【1】。

また、梅田哲也は近年、上のような趣旨のパフォーマンス作品を、劇場(ブラックボックス)のみならず美術館(ホワイトキューブ)やそれに類する施設で、立て続けに発表している【2】。今回の『空洞』は、したがって、座・高円寺という場と不可分──サイトスペシフィック──な独立の作品でありながら、同時に、作家が複数のサイトを超えて継続してきた実践の一部とも言い表せる。この事態を、〈レパートリーの再演〉という枠組みで考えてみてはどうか。
梅田は、劇場をはじめとする所与の場をその一体性においてもっとも基礎的な素材とみなす。コミッションを受けたさまざまな施設=機関で矢継ぎ早にクリエイションが実現できるのも、各会場の個別性に意を払いつつ、最終的に上演へと仕上げる技術を洗練させつづけているからだろう。ある建物(ハコ)がそこに建っているという代替不能の事実を端緒とする作品を生み出すことで、反復可能な制作術としての「レパートリー」(十八番=おはこ)を練り上げてゆくこと──梅田哲也の作家としての特質はこのように言い表せる。

ただし、いくつか疑問も浮かぶ。ひとつめは、仔細にわたる取材の成果として場から抽き出された無数のモチーフの取り扱いである。それらはオムニバス的な仕方で連結され、いくつかの主題をおぼろげに浮かび上がらせる。たとえば、劇場建築を文字通り下支えする地層・水脈、公共空間におけるアクセシビリティ、舞台上演の裏面をなしている設備やスタッフ業務など。しかし梅田による演出は、最終的には、すべての主題を均して並置することに終始してしまい、顕著な問題構制を提示できていなかったように思われる。個々のレファレンスに強い意味づけを施さない演出──あるいは演出の抑制──は、観客の自由な連想を刺激する側面もあるが、本作ではその結果として、普段は入ることのできない「バックヤード」を覗き見るある種の社会科見学的な快こそが前景化してしまったように感じられた。こうした鑑賞経験は、場のありように対する理解を促し広めるものではあっても、それ自体としては価値的ではないだろう【3】。

さらに、いろいろな仕方で(座・高円寺に限らず)「劇場」なる施設=制度と関わってきた当事者たちの、当の場に対する素朴な愛着に駆動されたドラマトゥルギーにも一定の留保を付けたい。劇場が在ることそのものに対する伸びやかな肯定を基調とする雰囲気は、作中に限らない。公演後に配布されるハンドアウトに掲載された関係者ら一人ひとりのコメントは、キャストを中心とする『空洞』のコラボレーターたちが各々なりに劇場との関係を引き受けてきた私史を詳らかにし、梅田がそうした情動的な結びつきを上演内容に織り込んでいった経緯をうかがわせる。生涯学習論を研究する新藤浩伸が述べるように、「資料を基盤としない公共ホールは、あえていえばそこに集う『人』が資源である。上演された作品なども資源であろうが、それでもその作品をつくるのは人である」【4】。たしかに、導き手の役をめまぐるしく交代するキャストが、各シーンの主役として場との関わりを主体的に想い起こし実演するさまは、この劇場が培ってきた「資源」としての人的ネットワークを丁寧に再確認するもので、否定しようもなく意義深い。しかし本作は、劇場に対する人々の私秘的なアタッチメントを強調するあまり、開館以来はじめての指定管理者交代という画期にあって、公共劇場のありかたを批判的に問いなおすよりもむしろ、自己肯定を先取りする効果を生んでしまってはいなかったか【5】。

無論、これらの点をもって、本作における達成がただちにすべて無化されるわけではない。前節でのディスクリプションを通じて示したように、部分部分で豊かなイメージの連合が見出されたことも事実だ。加えて、本作の催行実績には次なる企画開発を促すという効用もあるだろう。座・高円寺の関係者にとっては、今後、梅田による弾力的な施設使用の先例に立ち戻りながら、上演空間のこれまでにない活用法を模索すること、すなわち、サイトの潜勢力をあたうかぎり引き出してゆくことが劇場運営上の課題となる。『空洞』を例外的なイベントにとどめず、来るべき実践の足掛かりとできるかどうかが問われるだろう。しかしさしあたり今は、遠からずまたどこかで行われるかもしれないレパートリーの再演における別様な展開を期待しつつ、本稿を閉じる次第である【6】。
【1】梅田が、自作を実現するための具体的な折衝にどれほどの労力を割いてきたかは、彼のクリエイションに随伴してきたキュレーターたちの証言を参照。とりわけ以下の詳細な報告は一読に値する:正路佐知子「民主的で、包摂的で、多声的な空間──『梅田哲也 うたの起源』」、『梅田哲也:うたの起源』、福岡市美術館、2020年、46〜56頁;Chaeyoung Lee, “The Museum Performing as an Artistic Commons: A Documentation of Walk about Water,” Humming Chorus, Nam June Paik Art Center, 2024, pp. 163-171.
【2】福岡市美術館(個展「うたの起源」2019〜20年)、ワタリウム美術館(個展「wait this is my favorite part 待ってここ好きなとこなんだ」2023〜24年)、韓国の白南準アートセンター(グループ展「Humming Chorus」2024年内)など。
【3】文化人類学者の福島真人は、「バックヤード/インフラ」は「インスピレーションの源であると同時に、その独自の雰囲気だけで、観客が満足してしまうこともある」ので注意を払う必要があると前置きしつつ、「梅田の強みは、その場所がもつ独自の力学をうまく手なずけるための、いわば手数が複数あるということではないか」と評釈している(「アトラクタと場所霊」、『「 」:梅田哲也』、7Chome Ota Fine Arts、2022年、ノンブルなし)。評者の見解は、「手数」の多さだけでは価値基準として不十分であるというものだ。福島真人「「インフラ美学」のすすめ」、WirelessWire、2025年4月8日(初出:Modern Times、2022年5月) も参照。
【4】新藤浩伸「都市の記憶、生活の記憶の場所──公共ホールにおけるアーカイブ活動の可能性から」、小林真理編『文化政策の現在3──文化政策の展望』、東京大学出版会、2018年、238頁。
【5】批評家の高嶋慈は、別のプロジェクト「梅田哲也 イン 別府」について、回遊性の高い作品デザインが観光消費を促進する地域振興の企図と親和的であることを指摘している(「芸術祭のオルタナティブとジレンマ。高嶋慈評「梅田哲也 イン 別府」」、ウェブ版「美術手帖」、2021年5月13日)。これは本稿の内容とも間接的につながる論点である。
【6】梅田哲也の本領は「そのジャンル横断性や分類不能性でもなければ、特定の技術的達成でもなく、感性や感覚の全面化といった事態でもなく、むしろ、微細な、しかしながら自律したメディウムの立ち上げと、その運動の解放に向かってしか仕事をしていない点にある」と遠藤水城はかつて述べていた([無題]、『大きなことを小さくみせる:梅田哲也:exhibition as media 2011』、神戸アートビレッジセンター、2012年、ノンブルなし)。本作ではこうした作家のポテンシャルが十全に発揮されず、「技術的達成」(≒レパートリーのつつがない再演)や「感性や感覚の全面化」(≒バックヤードめぐりの興趣の席巻)に終始してしまったのではないか、と敷衍することもできる。
中本憲利 / Kent Nakamoto
インディペンデントキュレーター、批評家。1999年生まれ。出来事や生を記述するさまざまな様式に関心を寄せながら、企画や評論に取り組んでいる。2026年の主な仕事に、展覧会「誌面開放」(表裏 by FINCH ARTS、京都)やギャラリートーク「大岩雄典・レ🐳トロスペクティブ」(YAU CENTER ぜにがめ、東京)のキュレーション、『美術手帖』2026年7月号特集「21世紀の現代アート事典」の項目執筆など。

公開期間:2026年4月29日(水)~5月17日(日)
会場:座・高円寺 ZA-KOENJI PUBLIC THEATRE
出演:坂井遥香、佐々木大空
大浦千佳、服部容子、本木幸世、清水詩央璃(あくびがうつる)、大宮司星、與那覇ひかる、東華凜(座ネスト)、鳥飼健太郎、小野花音、マディソン セリーナ 春花[シフト制]
映像出演:黒田真史、砂川史織、弓井茉那 ほか
テクニカル統括:イトウユウヤ(arsaffix Inc.)
音響:東岳志(山食音)
舞台技術:俵山公夫(株式会社シアターワークショップ)
照明プラン:遠藤清敏(株式会社シアターワークショップ)
技術協力:株式会社シアターワークショップ テクニカル・プロデュース部
印刷:辰巳量平(ふつか)
伴走:柳瀬瑛美、山田翔太
記録写真:山田翔太
ビジュアルデザイン:三重野龍
クリエーション写真:濵本奏
アクセシビリティ・コーディネーター:宮本晶子
票券:山内祥子、大澤麻衣、甲斐美奈寿、河村美帆香
広報:ユカワユウコ、井上みなみ、染谷日向子
制作:平野みなの、川勝俊輔、平野后久良(以上、合同会社syuz’gen)
後援:杉並区
主催・企画・製作:座・高円寺(指定管理者:合同会社syuz’gen)




