「(ててててん♪)タ〜イムホ〜〜ン」。水田わさびではなく、やはり大山のぶ代の声であのタイトルコールが脳内再生されるのは、1980年生まれの世代感のせいばかりではなかろう。梅田哲也の新作《タイムホン》には、SF(すこしふしぎ)感、ひみつ道具がもたらす「こんなことできたらいいな」の手触りがあり、そして過去と現在を隔てる時間の壁をぬるりと超える想像力がある。
本作が発表された「ARTIST in ARCADE」は、山口情報芸術センター[YCAM]が主催するプロジェクトで、山口市内の商店や住宅だった場所で展覧会などを行う。また、それはアートや学びに関する人材育成プロジェクト「やまぐちアートコミュニケータープログラム2024:架空の学校『アルスコーレ』」の一環でもあって、プログラム参加者が街とアートをつなぐプロセスに関わり、コラボレーターとなるアーティスト(今回は梅田哲也)と協働する。大友良英+青山泰知+伊藤隆之《without records》で使われるさまざまなターンテーブルを市民がワークショップで加工し、商店街の各店舗に展示した「without records 商店街バージョン」(2023年7月開催)も同じ趣旨で行われた。
YCAMが、実験的・先進的な技術が詰まったラボとしての性格にのみ留まらず街との共生を探るようになってすでに10年近い。2012年に開発した「コロガル公園シリーズ」は、市内唯一の百貨店・井筒屋に「コロガルあそびのひゃっかてん2024」として展開しており、小学2年生以下のこどもを対象に、保護者も安心して憩える刺激的なプレイグラウンドとして親しまれている。
アートの前衛性と、大衆に寄与することの間には一定の緊張関係が常々生じるが、それを批評的に架橋しうるもののひとつが教育であり、その協働の可能性を探り、広げることには必然がある。
《タイムホン》は商店街内の元靴屋が会場だ。ひらけたショーウィンドウ越しに並ぶクラシカルな電話機がまず目に入る。受話器のかたちのアイコンの下に「時間」と印字された看板照明の明滅も気になる。
受話器を取ってみると声が聞こえる。古いラジオ放送を思い出させる、生真面目さのある女性のアナウンス。喋っている内容と電話機のそばに置かれた電話帳のようなお品書き(CDやマンガの単行本といった数十の項目が並んでいて、それぞれにまつわる思い出を聴くことができる)に記された番号を頼りに、ダイヤルを回す。私が選んだのはジム・オルークが1999年にリリースした『EUREKA』に関する、梅田哲也の思い出だ。最初の定位置からいちばん遠い「ゼロ」を、ジーーーーーーーーーーーーッコとダイヤルして戻るまでを待つ1秒あるかないかの「ただ電話をかける」ためだけの時間は、昭和を知る者にとっては懐かしい経験だ。そして聴こえてくる梅田の独白。
その抄録は、三重野龍がデザインしたフライヤーで読むことができる(あえて読みづらくデザインされているが、慣れてくると脳のはたらきが読解のための想像力を補完してくれるように感じるのは、思い出すことと忘却を視覚化しようとするデザイナーの意図だろう)。その内容を私なりに噛み砕くならば、以下のようなことを梅田は言っている。
2022年5月に生まれ故郷である熊本でドライブしていた。旅のBGMとしてブックオフで『EUREKA』のCDを買って店を出ると、そこが10代前半に住んでいたアパートの真裏だったことに気づいた。まちの様子があまりにも変わりすぎていて、最初は気づかなかった。
『EUREKA』にも思い出がある。青山真治の映画に同名の作品があるが、ジム・オルークの曲に思い入れが強すぎて映画館には行かなかった。ようやくはじめて観たのは同作が2本組のビデオでレンタルリリースされてからで、自宅のアパートの小さなテレビで夜更けに観て、自分に何が起きたかわからないまま、頭が冴えて朝まで眠れなくなった。それは大阪に居を移してからの話で、先に書いたのと同じアパートではない。
青山監督が急逝した後、デジタルリマスターされた『EUREKA』を映画館で観た。日本の田舎なのに遠い外国の町のように撮られた画面は、胸が締め付けられるドラマと対位法のように両立できていて、複雑さを自然なかたちで表現していた。時間と空間をさかのぼったり、進んだり、ジャンプしたりする『EUREKA』の経験は、作品というものが当たり前に次元を越えることをあからさまに示す。数年前に立ち寄ったブックオフと30年前の自分が結ばれ、音楽と映画になった『EUREKA』は大阪で住んでいたアパートとドライブする熊本の阿蘇山を、ひもの両端をつなげば距離はゼロになる宇宙ひもの理論のように結びつける。そして『EUREKA』の歌い出しは「Hello, hello, can you hear me?(もしもし、聞こえますか)」ではじまる。そんなわけで、この《タイムホン》は生まれた。
ここには作品と個人の出会いについての大切な話が綴られている。作品が「複雑さを自然なかたちで表現」できること、「当たり前に次元を越える」のだということ。私の場合は、そのことに次なるプロセスで感傷的に再会できた。
会場は一種の図書館、あるいは梅田哲也の思い出にならえば市井の知の一時貯蔵庫としてのブックオフのような機能も有しており、体験者は聴取したエピソードに直接関わりのあるアイテムを閲覧・視聴することができる(自分のエピソードと物品を作品に提供すれば、交換して持ち帰ることもできる)。その多くはマンガや画集といった紙媒体、CDやレコードといった音楽媒体、DVDやVHSなどの映像媒体……すなわちひと昔前の記録メディアで、貸し出しカウンターで私は『EUREKA』のCD(梅田の私物)と、視聴のためのポータブルラジカセを受け取った。
物理的にCDを再生機にセットするなど、いったい何年ぶりだろうか。久しぶりにプラスチックのCDケースから表紙代わりの冊子を取り出す手つきのたどたどしさときたら! ケースの爪に引っ掛けて、破いてしまいそうで怖い。
ヘッドフォンをつけてCDを再生し、冊子に掲載されたライナーノーツを読む。インターネットがまったく主流でない頃の音楽受容には、アルバムごとに書き下ろされた解説や批評のテキストが超重要で、『EUREKA』について書いているのは、当たり前のように佐々木敦である。90年代からゼロ年代にかけてのカルチャーシーンにひとつの時代を築いた彼は、自分が仕事としての文筆に興味をもちはじめた出発の場所に確実にいる人物だ。ライナーノーツを今まさに読んでいる「あなた」の体験と時間にもメタ的に言及しようと試みる、少々迂遠な書き出しはいかにも「佐々木敦節」といった趣きがあり、さくっと本筋に入りたくなってしまう現在の自分の生理との距離を感じて趣き深く、センチメンタルでもある。佐々木さんお元気ですか? ICCの畠中さんとの定例の忘年会、今も続いていますか?
……こんな風に個人的な思い出をつらつら書いてしまうように、かつて音楽や映画や本に親しむという経験は、きわめて個人的で閉じたものだった。
昔からあった言葉であるのに、今や別種の響きをもってYouTubeやSNSのサムネイルに「考察」という言葉が踊るようになった今日の文化受容においては、人は作品についての他人の感想が気になって、すぐにスマホで検索してしまったりする。それは今日失われて久しいと言われる批評的行為への関心の現れではあるだろうけれど、かつての作品体験には自分と他人の意見が接するまでのあいだに長い孤絶・隔離の時間があり、白紙の場所をいかように埋めてもよいという自由があった。そこに批評も生まれた。その感触を《タイムホン》は巧みに再生する。
《タイムホン》には「メディア」に対する批評があり、広義のニューメディアを研究・開発・批評の対象としてきたYCAMに相応しい作品だと感じる。Webサイトで企画概要を読むだけならば、それは多様な価値観を抱えた地域における「よき隣人」でありたいと欲する文化施設の内的欲望を肩代わりするための、人当たりのよい代弁者=地域アートとしての作品に過ぎないのではないかという拙速な予想で終わっていたかもしれない。わざわざ山口にまで足を運んで見に来て本当によかったと思う。
開いているが、閉じてもいる。そして奇妙な屈折や湾曲がその開閉弁を不規則に開け閉めして、空気を排出したり密閉して思考と実験のための圧を高めたりする。その有機性のちぐはぐさは、今日まだ比較的、芸術には許されていることだ。この自己認識が企画主体にあらばこそ、最初に紹介した「コロガルあそびのひゃっかてん2024」がこの10年で獲得してきた大衆性も批評的に機能する。
《タイムホン》の今後の構想を聞くと、電話機を山口市内のさまざまな場所に設置して、常時体験できるようにしたいのだという。まちのそこここに時間を超える入り口が開かれているという状態はSF(すこしふしぎ)だ。《タイムホン》がひみつ道具ならば、梅田哲也やYCAM(とそのスタッフ)はまちの人々にとってのドラえもんになりうる。藤子不二雄が創造した丸いフォルムの青い猫型ロボットは親しみのある私たちの隣人だが、底知れぬところのあるマレビトでもある。その多義性は、わりとアートに似ている。
ここまで(↑)を書いた原稿を送信してしばらく経ったあと、ドラえもんや『ブーフーウー』のブーを演じた大山のぶ代が、9月末に亡くなっていたというニュースが報じられた。
この10年で、自分が若い頃から親しんだ芸術家や書き手が相次いで亡くなり、物理的に残る可能性を保持しうる作品と、いつかは必ず朽ちゆく肉体と心の側に立つ人間=つくり手との隔絶がまさに生起することを自覚する機会が驚くほど増えた。美術館や図書館はしばしば霊廟に喩えられ、研究者たちは前者を「時間の凍った死者」として努めて遇する。その蓄積を消費する観客たちは、作品を既にこの世にいない作家本人と混同してしまうが、作品と作家という性質の異なる死(者)が複数に分岐して「ある」、もしくは「あった」、あるいは「あり続ける」ということ……それらが走り続けている時間を批評的にも自覚し続けられることが、ひょっとするとメディア・アートの特殊さかもしれないし、先に述べた梅田の『EUREKA』をめぐる経験の要点(つまり「作品と個人の出会いについての大切な話」)なのかもしれない。いま時点で答えはないのだが。
島貫泰介 / Taisuke Shimanuki
美術ライター/編集者。1980年神奈川生まれ。京都と大分を拠点に、『CINRA.NET』、『TOKYO ART BEAT』『美術手帖』などで執筆・編集・企画を行う。現在は地域おこし協力隊として大分市文化財課に所属。同市の文化財や市民の思い出などを公開する「大分市デジタルアーカイブ~おおいたの記憶~」の運営・PRを行っている。また、京都を拠点に活動する美術家・三枝愛とともにリサーチのためのコレクティブ「禹歩」としても活動。
「おおいたの記憶」公式インスタグラム https://www.instagram.com/oita_no_kioku/
会期:2024年7月20日(土)〜9月1日(日)
会場:山口市中心商店街
時間:土・日・祝 10:00〜18:00/月・木・金曜 13:00〜18:00
イベント休止日:火・水曜
料金:参加無料